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| 諷喩 ふうゆ allegory | ||
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| ――『ヒカルの碁』2巻77~78ページ (ほったゆみ・小畑健・梅澤由香里 /集英社 ジャンプ・コミックス) |
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| 諷喩は、同じテーマにかんする「隠喩」をカタチを変えながら何度もくりかえす、というレトリックです。 | |||||
| アタマの中に浮かぶ、「概念」とか「観念」とか。そういったものでは、どうしても「抽象的」な表現になりがちです。そこで、ものごとを「具体的」なものに当てはめる。そうすることで、もっとシッカリと伝えることができるようになります。そのための手段が、この「諷喩」です。具体的には、「隠喩」が連続して大がかりになることによって、「諷喩」をつくることができます。逆に言えば、「諷喩」は「隠喩」を何回もくり返しているもの、何回も積み重ねているものだということになります。 | |||||
| 「諷喩」は「隠喩」が連続して大がかりになることによってできる文です。なので、「諷喩」は「隠喩」を何回もくり返しているもの、何回も積み重ねているものだということになります。で、その結果。「諷喩」は、使われているシーンでは。小さなひとつのストーリーを作り上げているということになります | |||||
| さらにいうと、できる限り大きな「諷喩」をつくると。それが、1つの完結した物語となります。いいかえれば、「諷喩」によって、1つのストーリーができあがる、ということになります。「寓言」とか「たとえ話」といったものが、これに当たります。 | |||||
| 「諷喩」は、ときに「諷刺」として使われることもあります。たとえば『ガリヴァー旅行記』は、「諷刺」のために書かれたものです。「たとえ話」や「寓言」には、とくに「諷刺」の色が強くでるものがあります。 | |||||
| たとえば。「人生は旅だ」といえば、隠喩です。ですが、この隠喩をさらに広げて。たとえば「旅をしていれば、山もあるし谷もある」だとか。「つまずくこともある」だとか。その「人生は旅だ」というテーマから、いろいろな隠喩を導きだして、くりかえすことによって、「諷喩」になります。 | |||||
| 1つは、テーマとなっていることを「具体的に」「より分かりやすく」したもの。もう1つは、もとからあった「抽象的な」「観念的な」もの。この「具体的なこと」と「抽象的なこと」という2つを、ならんで表現することによって、「諷喩」となります。 | |||||
| 自分は、こんな表現方法をしなくても理解できる。だけれども、ワザワザだれにも分かりやすい表現にしている。そんな見下した言いかたになってしまうことがあります | |||||
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| 例文は、『ヒカルの碁』2巻から。 まず、申しわけないのですが。この「諷喩」にあたる部分を、ぜんぶ画像にすると、バカでかい画像になってしまいます。そういった大きさの関係で、「諷喩」になっているところの「最初の部分」と「最後の部分」だけを画像として引用しました。「諷喩」を作っている文章の全体は、右に文字として書いておきました。 で。 これが単に、「碁盤は宇宙なんだ」というだけであれば、「隠喩」にあたります。 しかし、「星」→「宇宙」→「神様」というように連続して「隠喩」が重なります。そして、そのことによって、この場面だけで一つの世界を形作っています。 ですので、これを「諷喩」ということができます。 なお。「具体的なこと」と「抽象的なこと」とが並行している、という理論を当てはめてみると。次のようになります。 「具体的」な側面。つまり「現実の世界」は、囲碁で対局をしているヒカルがいる。 反対に、「抽象的」な側面、つまり「諷喩の世界」は、神のように星をならべているヒカルがいる。 このように、この2つを合わせて考えれば。「具体的なこと」と「抽象的なこと」とが並行している表現だ、と考えることができます。 |
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| さいしょにも、同じことを書いたのですが。 この「諷喩」を大きな目でみるばあい。「諷喩」には、「寓言」や「寓話」についても含めることがあります。 そして。 このような意味で、「諷喩」ということばを使うときには。「諷喩」が受け持つことになる領域は、とても広くなります。 たとえば。 「寓話」とか「たとえ話」とか、よばれるものが。すべて「諷喩」の仲間だということになります。 |
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| 反対に。 この「諷喩」とか「隠喩」とかいった、グループ。これを細かく分類してみると、その「たとえ」の大きさ(規模)によって、4つに分けることができます。 つまり。 「たとえ」の部分が、大きくなるにつれて。「隠喩」→「諷喩」→「寓言」→「寓話」と、名前が進化していくといえます。 ですが、すぐ上に書いたように。 「諷喩」のなかに、「寓言」や「寓話」を含めて説明することもあります。また、「寓言」と「寓話」とを1つにまとめるということもあります。 なので。 これは、あくまで「細かく分類したばあい」というはなしです。 |
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| 諷喩 | |||||
| アレゴリー | |||||
| 風諭・諷諭・風喩 | |||||
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| 直喩、隠喩、寓言、寓話、提喩、換喩、成句、警句 | ||||
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| 「諷喩」について、説明してある本のうち。一般的なことがまとまっている本としては、これをオススメします。ただしこの本は、「事典」というにふさわしいものです。600ページ以上ある、巨大で分厚いものなのです。そこは、覚悟してください。もちろん、600ページ全部にわたって「諷喩」の説明が書いてあるわけではないけど。 | ||||
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| 「諷喩」については、レトリック学者どうしでの目立った議論はないようです。ですので、この『レトリック辞典』に書いてあることで、とりあえず十分のようです。 | ||||
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| この「諷喩」について書いてある本は、たくさんある。たくさんありすぎて、どの本がオススメなのかを書くのはカンタンではありません。そういったわけで。この本を書いておけば、とりあえず安全だろう。…と考えて、『レトリック認識』をあげておきます。 | ||||
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| 佐藤信夫先生の書いたもので。もうひとつ、かなりの量を「諷喩」にたいして使っているものとして。この本をあげておきます。具体的には、[隠喩と諷喩と書物(佐藤信夫)]の章です。予想以上に、あれこれと話が及んでいます。 | ||||
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| 残念ながら。この本は難しすぎて、うまく読みこなすことができません。ただ、『アレゴリー・シンボル・メタファー』というタイトルどおり、「アレゴリー(諷喩)」にスポットを当てているのは、たしかです。 | ||||
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| 「諷喩」というレトリック。 これは、クインティリアヌスという人が定義です。具体的には「諷喩とは持続された隠喩である」という定義。これを編みだしたのが、クインティリアヌスなる人間です。 そして。「諷喩」の定義としては、現在でもほぼそのまま通用するというレトリックです。 定義のほうはしっかりしたもので、異論の余地がありません。ないのですが、問題はこのクインティリアヌスという人。この人は紀元1世紀の人なんです。日本でいえば「漢委奴国王」の金印をもらった時代。つまり、卑弥呼よりも昔の人なんです。 そんな昔の理論が現代まで、引き継がれている。そのところに、「レトリック」という学問の強さを感じます。 |
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| これは、雑談ですが。 『レトリックの記号論(講談社学術文庫 1098)』(佐藤信夫/講談社)を読んでいたら、こんな文に出くわしました。 _…将棋のルールというものに決してずれが起きないのは守備範囲が限定されているからです。将棋のコードは将棋盤上のことだけをとりしきればよろしい。将棋のコードで神の存在を論じようとか、将棋のルールをもって恋文を書こうなどということは誰も思いつかない。(33ページ)ああ。すいません、佐藤信夫先生。(将棋ではなく囲碁だけど)碁盤の上で神を論じている場面を堂々と引用してしまいました。もちろん、しっかりと読めば「将棋で」と書いてあるわけではなく「将棋のコードで」と書いてある。だから、佐藤信夫先生の言っていることと、このページの「ヒカル」の言葉とは違う次元のことだということで決着がつきます。 ですが、私が笑ってしまったので、ちょっと書いてみました。 |
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