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| 異義復言 いぎふくげん antanaclasis | |||||||||||||
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| ――『春行きバス』1巻107~108ページ (宇佐見真紀/小学館 Betsucomiフラワーコミックス) |
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| 異義復言は、同じことばを、違った意味でくり返すレトリックです。「同じことば」を「違った意味」で使い分けることになります。言いかえれば、ある言葉を「同じ文」もしくは「すぐ近くの文」で、別の意味や用法としてくり返すことです。 ことわざの中では、「酒は飲んでも飲まれるな」というのがあります。これも、「飲む」という言葉の「異義復言」です。 |
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| 相手の言ったことには、少しかたよりがあると思う。もしくは、かなり間違っていると思う。そういった思いをアピールしたいときに、相手の使ったコトバの意味を少しだけ変えて使う。 つまり、相手の使ったコトバを、ズラして使いなおす。それが、「異義復言」と呼ばれるレトリックです。そういうわけなので、どちらかというと対話のようなお互いが面したシーンでの効果が大きいといえます。 |
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| 相手の使ったコトバを用いていながら、それでいて相手が使ったのとは違った意味になっている。そのため相手は、思いがけない奇襲を受けたような感覚を味わうことになります。 | |||||
| 「異義復言」は、コトバが持っている「わずかな意味の違い」を使うというものです。そのため「異義復言」を使うヒトからは、機転のよさを感じとることができます。なぜなら、そういった「わずかな意味の違い」に目を向けていて、それを利用することができるという能力を備えていると思わせられるからです。また、このような機転のいいコトバのやりとりからは、軽い驚きやユーモアを感じとることもできるでしょう。 | |||||
| 「異義復言」では、同じコトバが(すこし別の意味で)くり返されます。同じコトバというのは必ず同じ発音だといえますので、「異義復言」を使ったばあいには同じ発音のコトバがくり返されるということになります。 そして、同じ発音のコトバがくり返されれば、必然的に同じ音が続いてあらわれることになります。したがって「異義復言」は、同じ音が連続して出てくることによるリズミカルな感覚を味わうことができるという面も持っています。 |
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| 下にある |
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| 「異義復言」でターゲットになるコトバは、お互いがすぐ近くの場所に置かれます。多くのばあいは、ひとつの同じ文の中になります。そうではないばあいにも、ほとんどのケースでは、次の文に置かれます。 | |||||
| ふつう文章を書く場合には、まったく同じコトバをくり返すのは控えられます。つまり、すぐ近くで完全に同じカタチをした語をくり返しならべることは、避けられるのです。というのは、文章が単調で味のないものになってしまうからです。ですが「異義復言」では、そういった同じコトバの連続というかたちを、あえて使います。 | |||||
| くり返し出てきたコトバが、同じことを意味していたのならば。それでは、レトリックと呼ぶような深みのある表現は生まれません。そうではなくて、くり返し使われているコトバの、それぞれの意味にビミョウな違いがあるというのが重要です。 同じひとつのカタチをしたコトバが、意味を変えながら違った意味であらわれるというところに、このレトリックのポイントがあります。 |
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| この4番目のものは、「異義復言」を作るのに必ず求められるものではありません。ですが多くのばあいの「異義復言」では、くりかえされるコトバが「本来の意味」と「比喩の意味」とで使い分けられていることになります。 たとえば、あるコトバが最初に出てきたときには「本来の意味」で使われ、そのあとに再び出てきたときには「比喩の意味」で使われる、といったことです。 |
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| この「異義復言」を使うと、「不可解」「摩訶不思議」といった感じを招きやすくなります。そして、その「不可解」な印象は、往々にして「インチキ臭い」というものをともないやすいので、注意が必要です。 | |||||
| また「異義復言」を使うと、わざとらしい感じの文になってしまいがちです。これは、ふだん生活している中で「同じコトバを別の意味で使ったら、気の利いた表現になる」なんてことは、ほとんどないからです。そのため「異義復言」は、かなりのばあいが「人間によって創られた作品」に出てくるものになります。 このことから、どういても「わざわざ人がこしらえった」という印象が出てきやすいのです。そのことは、小説のような文字だけのものに限りません。映画や演劇のような映像・音声のあるものについても、台本がある限り当てはまります。もちろん、マンガについても当てはまります。 |
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| このページの、いちばんはじめの画像。これは、『春行きバス』1巻の収録されている短編「3rd Bus Stop 迷子とバスの眠る街」からです。 主人公は麗奈。今年から高校生になった女の子。 麗奈は、新しくバス通学を始めたことをきっかけにして、あるバス運転士と知り合いになる。そして、麗奈が住んでいるマンションの隣部屋に、その運転手が住んでいることを知ってから親しくなる。その運転士が、西島。 西島は、麗奈の母親が離婚していて、いま麗奈は母親と2人だけと暮らしていることを知る。そして、親しくなった麗奈に、 「ひとりでなんかあった時は、呼べ。その時だけは来てもええ」と告げる。 そんなある晩。 その麗奈に「なんかあった時」が起こる。母親が麗奈に、再婚したいと言ったのだ。麗奈だって、ひごろの母親の言動からそのことは、うすうすとは気づいていた。でも、面と向かって告げられ、どうしていいかわからなくなってしまう。 これを「なんかあった時」だと思ったのかどうかは、分からない。けれど、とにかく麗奈は、マンションの隣室にいる西島のもとをたずねる。それが、引用のシーンです。 西島は、こう考える。「ひとりでなんかあった時は呼んでいい」とは言った。でも今は、麗奈の母親が帰ってきているのだから、ひとりではない。とまあ西島は、そう思うわけです。 たしかに麗奈の母親は、マンションの家に帰ってきています。麗奈に再婚の話をしたのはマンションの中なのだから、まずまちがいなくマンションにいるのでしょう。 けれども、ここで麗奈は言う。 というこのセリフが、「異義復言」となります。 もしも、今回引用したシーンに出てくる「ひとり」がすべて全くおなじ意味のものであったとしたら。それは、意味の分からないものになってしまいます。なぜなら麗奈は「わたしはひとりではないけれど、ひとりだ」と主張しているのだから。 ですので、ここに出てくる「ひとり」の意味。これについては、それぞれ分けて考えざるを得ません。そうすると、最初に出てくる「ひとりちゃうやろ」のほうは、ただ単に「ひとりしかいない」という意味だといえます。 これにたいして、「ひとりやもん」というほう。こちらは、麗奈自身が抱いているモヤモヤした置きどころのないキモチを共有してくれるような人が誰もいない、という意味で「ひとり」だといえます。 どういったわけで、このシーンでは、 「同じコトバ」が「異なる意味」で、「くりかえし」登場しています。ですので、「異義復言」となるわけです。 |
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…ストーリーを書いていく、その前に。 右上のセリフの部分に「ユリ★」って書きました。まず、この「★」のことから説明するとスッキリするでしょう。 この「ユリ★」は、「果林」という女の子が「ユリ」に変装していますよ、という意味でつけました。つまり良から見ると、相手の女の子は「果林」ではなく「ユリ」だと思われているわけです。 では、ナゼこんな身代わりをすることになったか。 それは、「ユリ」が今までウソをついていたからです。 もともと「良」と「ユリ」とは、文通相手だった。つまり、お互いに実際に会ったことがなかった。 そして「ユリ」は、「果林」の写真を「ユリ」の写真です、とウソをついて送っていた。 だから、文通相手の「良」にしてみると、「果林」のことを「ユリ」だと思い込んでいるわけです。 しかしなぜ、「ユリ」は自分の写真を送らなかったのか。その理由は、 あ――っ もう 太ってたのよ!とのこと。恋する女の子は時として、こんなことを……するのでしょうか? 普通はしないと思う。けれど、インターネットの広がっている現在。「ネカマ」こと「ネットオカマ」というのも大勢います。インターネット上では、男であるにも関わらず、女を装ってメールの交換をすることもできます。そして実際、そういうことをするアルバイトさえあります。 とにかく、ウソの写真を送っていたせいで、「果林」に代役を頼むということになってしまいました。 で、ここからが本題の「異義復言」になります。 「ユリ」のすがたをした「果林」は、こんなふうに言っています。 さて。 ここに出てくる2つの「捨てる」という言葉。同じ会話の中で出てきていますが、ちょっと意味が違うという気がします。 なので、「広辞苑」の「捨てる」を引いてみる。すると、このように書いてあります(例文は省略)。
しかし、次に出てくる《夢を》「捨てる」のほうは、「広辞苑」の「捨てる」の中では「3.」に当てはまるでしょう。心の持っていた、イルカへの想いみたいなものを断ち切られてなくす、という意味で使われています。 したがって、最初のほうの《イルカのぬいぐるみを》「捨てる」と、次に出てくる《夢を》「捨てる」とでは、意味が異なっているということができます。 ですので、この引用した部分を「異義復言」とします。 |
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| 「異義復言」には、少し近いレトリックとして「トートロジー」や「洒落」「類音語反復」といったものがあります。 そういったレトリックと区別して、「異義復言」をイメージしやすくするためには。国語辞典の項目を思いうかべるといいと思います。 くり返されているコトバどうしの違いが、国語辞典の同じ項目の範囲におさまる程度のものであれば。それは、「異義復言」だといえます。ですが、国語辞典のとなりの項目に載っているようなものが反復されているようであれば、「洒落」「類音語反復」に含まれるものとなります。 たとえば、このページで引用した例に出てくる「ひとり」を手近な国語辞典で引いてみます。すると、 西島がいう「ひとりちゃうやろ」のほうに出てくる、「ひとり」。これは、「(A)人の数が一(イチ)であることを表す。」で間違いありません。これにたいして、「ひとりやもん」と麗奈が言いかえしているときの「ひとり」。こちらは、「(B)(相手・配偶者が無く)自分だけで居る(する)こと。」に近いものです。 このような、 国語辞典で言えば、いっしょの項目の中にある意味の違い。それを利用するのが、「異義復言」です。 ちなみに。 国語辞典の「同じ項目コトバを、まったく同じ意味で」くり返すと。それは、「トートロジー」になります。 また。 反対に「近くにあるため発音が同じになるコトバを、まるっきり違う意味で」くり返すと。それは「しゃれ」「類音語反復」になります。 そのことを図であらわすと、つぎのようになります。
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| じつは、上で書いた説明。安定性を欠いているという面が、少しだけあります。 それはなにかというと、 国語辞典まかせで考えたら、引いた国語辞典によって結論が変わるのではないかと思われる点です。 そのためレトリック学者たちは、もうすこし細かいところまで行きとどいた定義を与えようとします。 まず、「国語辞典の同じ項目の中にあるかどうか」ではなくて、もっと厳密に考える。「語源が同じ単語かどうか」で、「同じコトバ」といえるかどうかを判断する。これにしたがうと、同じ語源にあることばをくり返した場合には「異義復言」か「トートロジー」のどちらかに含まれることになります。 たしかに、 語源というものは、ことばを使うヒトがそのコトバを同じものと思うかどうか考える時に、大事な基準になっています。ですが、そんなコトバでも語源だけを考えればいいとは思えません。 たとえば、 「掻く」「書く」「描く」は、語源が同じです。けれども、この3つの動詞が「同じコトバだ」と考えるのには無理があります。 そういったわけで、 かならずしも語源は、決め手にならないようです。 |
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| もう1つの考えかたとしては、「翻訳してみる」というものがあります。どんな外国語に翻訳したとしても同じ単語になるとするなら、それは「同じコトバ」と考えようというわけです。 「しゃれ」で音が同じになっているのは、たまたまです。だから、それを翻訳したら同じ発音のコトバにはなりません。しかし、「異義復言」(または「トートロジー」)であれば翻訳しても同じコトバになるはずです。 このページの最初にあげた「ひとり」を、またもや例にしてみます。これを英語に訳すと、 “You are not alone.”と、いずれも“alone”に訳すことができます。 ただし、 翻訳ができるかどうかで、必ずしも判断できるとは限りません。たとえばフランス語で、 Le cœur a ses raisons que la raison ne connait point.というパスカルの名言があります。見てのとおりraison(英語でいうreason)が続けて登場しています。この名言は、ふつう「異義復言」だと理解されています。 ですが、 これを日本語に翻訳するにあたって、「異義復言」らしく訳すのは不可能です。 この文の意味は、だいたい「心は理性が知らない理由を持っている」というものです。そのため、最初の“raison”は「理性」といったことをあらわしていているといえます。ですが、つぎの“raison”は「理由」「理屈」「道理」あたりのことを意味しているということになるのです。 こういったことから、翻訳できるかどうかだけで区別することも難しいようです。 |
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| こういった事情があるので、「異義復言」にはあいまいさが残ってしまいます。 どういうことかというと、 一方で「異義覆言」は「トートロジー」寄りのレトリックだと考えるひとがいる。しかし他方で「洒落」や「地口」に近いものだと思うひとがいる。そういった、あいまいさのあるレトリックなのです。 |
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| ここで。 「異義復言」が持っているあいまいさを、どうにか解決しようとして。レトリック学者は、さらにレトリック用語を生みだしていきました。 具体的には、「トートロジー」と「異義復言」との、中間のはたらきをするレトリック。そういったものとして、「拡縮反復(ploce, réversion)」というレトリックを、つくりだしました。 また、「異義復言」からの距離が「しゃれ」よりもさらに遠くにあるもの。ここについては、「駄洒落(calembour)」というレトリックが占めることがあります。 このことを表にまとめると、つぎののようになります。 ただもうしわけありませんが、いまのところ「拡縮反復」「駄洒落」のページはありません。時間があれば、そのうち作っていきたいとおもいます。 |
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音の同じ(もくしは似た)ことばをくり返すレトリックについては、次のようにまとめることができます。
こちらについても、ご参照ください。 |
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| このレトリック呼びかたについては、かなりバラツキがあります。「異義復言」だけでなく「換義」「異義反復」といったあたりも、よく使われている呼びかたです。 | ||||
| 異義復言(法) | ||||
| 換義・異義反復 | ||||
| 同語異義復言(法)・別義同語反復・アンタナクラシス | ||||
| 異義復用法 | ||||
| 同語異義反復法・同語異義法・同語別義反復・同音異義語の地口 | ||||
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| 反復法、畳句法、畳語法、隔語句反復、復言法、類義累積、回帰反復、首句反復、結句反復、首尾語句反復、前辞反復、おうむ返し、同綴同音異義、屈折反復、類音語反復、トートロジー、疑惑法、継起的音喩 | |||
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| シェイクスピアが使っているレトリックは、どちらかというと「地口」に近いものです。そのため、この本で触れられている例文も「地口」に近い「異義復言」が多いと感じます。なお、同じ著者の『シェイクスピアのことば遊び』(梅田倍男/英宝社) もあわせて参考になると思います。 | |||
| このページをつくるにあたっては、それほど参考にしませんでした。ですが、とくに夏目漱石の使う「異義復言」について深く書かれています。 | |||
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そんな「かけ合い」にも「異義復言」は、なくてはならないものです。 なので、いくつか例と書いておくことにします。 まず、「トートロジー」に近い「異義復言」の例。主人公のリサは、学校の授業で居ねむりしていた。が、そんなとき大声で寝ごとを言ってしまう。 「召喚獣も全滅や!!」と。授業中に居眠りしていたのは、昨晩おそくまでテレビゲームをしていたから。そういったわけで、寝言にまで「召喚獣」がでてきたというわけ。 つぎの例は、かなりそんなリサに、大谷が告げる。 ここに出てくる、2つの「技」というコトバ。これは、どちらかというと「トートロジー」に近い「異義復言」の使いかたがされていると感じます。
リアの前に、幼なじみの遥という少年が転校してきた。遥は、かなりのあいだ逢わないうちに美少年に成長していた。 だけれどもリサには、それほど遥のことが魅力的にはうつらない。子ども時代に遥はいじめられっ子だったので、どうしてもリサにはそのイメージが焼きついているのだという。 だからリサは、 と言う。これにたいする、のぶちゃんの答えを見てみると。 といったふうに、やたら「ちゃう」が登場する。しかも、いきなり話題に、イヌの「チャウチャウ」が出てくる。 そういったわけなので、こちらは「しゃれ」か「駄洒落」に近いものだといえると思います。 |
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