![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
| 訂正法 ていせいほう correction | ||||||||||||||||
![]() |
|
|||||||||||||||
| ――『君が主で執事が俺で』1巻160~161ページ
(白猫参謀・皇ハマオ[著]、みなみそふと[原作] /角川書店 角川コミックス・エース) |
||||||||||||||||
![]() |
|||||
| 訂正法は、前に言ったことをひるがえすレトリックです。つまり、一度は口にした言葉を修正して、あらためて別の伝えかたをするというものです。 | |||||
| 「訂正法」が使われるときには、別の考えかたが一度示されたあとで、それが訂正されます。このことはつまり、「訂正法」を使ったヒトが、いちど選択肢として反対の考えかたを候補に挙げていることになります。読み手(聞き手)は、このようなプロセスを読み手や聞き手自身が実際に見聞きすることで、それが偏りのないバランス感覚のある判断をしているという印象を受けることになります。 | |||||
| それに加えて。そのようなプロセスを示そうとする姿勢、そのものによる効果というのもあります。そのような姿勢を受けとった読み手や聞き手は、同時に信頼感や誠実さといった印象を持つことになります。 | |||||
| 上に書いてきたような、公正さや誠実さといった印象がもたらされる結果。読み手や聞き手は、その考えかたを受けいれやすくなります。いろいろな見かたを踏まえた上で、ひとつの考えかたに立ち至ったということがハッキリと分かるからです。 | |||||
| すでに言ったことと異なる現実に出会ったばあいに、立ち帰って、前に言ったことを取り消す。これが、「訂正法」の基本的なあり方です。その具体的なパターンは、つぎの2つに分かれます。 | |||||
| まず1つ目。いままでの流れで示してきたことが、キチンと考えをあらわせていない。もしくは、いままで伝えてきたことでは、相手には理解してはもらえない。そういった思いがだんだんと大きくなっていった結果、話すことへの「ためらい」を生みだし、言い改めるということがあります。 | |||||
| もう1つ、はじめから計画された「訂正法」というのが考えられます。あらかじめ書き手が「訂正法」を使うという腹づもりでいる、といったばあいです。まず最初に、自分が受けいれてもらいたいと考えているのとは違った別の考えかたを示す。そして、その示した考えかたを否定した上で、もともと自分が持っていた考えかたを展開する。これも、一種の「訂正法」です。 | |||||
| 見せかけだけの訂正を、あらかじめ書いておくということ。それは、伏線を張るというのと同じことです。したがって、受け手が「これは伏線だ」と気がつくようなものでは失敗です。 | |||||
|
|
|||||
![]() ![]() |
|||||
| このページの一番はじめの画像は、『君が主で執事が僕で』1巻から。 主人公のレン(錬)と姉の美鳩は、2人で家出をすることになってしまった。父親による家庭内暴力の被害から、逃れるために。 でもそんな2人には、身を寄せるあてもない。仕事もない。お金もない。といったわけで、公園にテントを張って生活していた。 そんなある日。ひょんなことから久遠寺、という大金持ちの家へ行く。そして、「うちの執事をやってみないか?」と誘われる。 とりあえず、レンと美鳩は「仮契約」ということで働くことになる。その「仮契約」のあと、「本採用」とするかどうかが発表しようとしているのが、引用のシーンです。 森羅は下した審判、それは。 というものだった。泣き叫ぶ、レン……。と、思いきや。 といったわけで。いちど「クビ」を宣言されたはずなのに、それが取り消されて「合格」に言いなおされている。つまり、森羅によって訂正がされているわけです。 このように。 ひとたび決まったことや以前は思われていたことが、あとになって逆転してひっくりかえすもの。これが、「訂正法」と呼ばれるレトリックです。 |
|||||
|
|
|||||
![]() ![]() |
||||||
主人公は「鈴木みか」。 「みか」は新人の先生として、高校で国語教師をすることになった。3コマ目に登場しているのが鈴木みか先生です。ちっちゃくて童顔ですが、高校の国語教師です。 その鈴木みか先生が、担当になったクラスの高校生たちを見回す。その感想が引用の場面です。 今までは「高校生の女のコは大人っぽいけれど、男のコは…」と、思っていた。 が、しかし。 彼を見て前言撤回と、「おやじ」というあだ名で呼ばれている生徒(本名:中村)を見て、いままで考えていたことを撤回しています。このことが、「訂正法」にあたります。 |
||||||
|
|
||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| うちのサイトで、「訂正法」という名前であつかっているレトリック。このレトリックをどのように呼ぶかについては、わりと人によってバラバラです。 とくに「訂正法」を、「換言法」とはべつのレトリックとして考えるとき。そのネーミングが、ひとつに定まらないのです。 ためしに。 いま手元にある資料から、書きならべてみます。すると、
学者によって用語がバラバラになっている理由は、よくわかりません。「訂正法」が、それほど重要なレトリックではないからかもしれません。または、次の項目に書いておいた《視点》の問題によるものなのかもしれません。いずれにせよ、バラバラです。 ネーミングは、レトリックをとらえる上では大した問題ではないとも思われます。ですが、ときに用語の違いによって混乱してしまうこともありえます。ですので、いちおう注意をはらっておく必要があります。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 上でも、ちょっと触れました。「訂正法」には、《視点》という問題があります。つまり、誰を基準にして「訂正」がおこなわれたと考えるかということについて、ネックとなることがあるのです。 具体的にいうと。 例えばここに、ある1つの本があるとします。この本には、本である以上は必ず「書き手」がいます。つぎに小説などのばあいには、その書き手によって創られた「主人公」が本(小説など)に登場します。そして、そのようにしてつくられた本によって、あるメッセージが「読み手」に届けられます。 ですので。 1つの文章にたいする視点としては、「読み手」「書き手」「主人公」の3つが考えられるのです。そのため、3つのうちどの視点を基準にして「訂正法」を考えるかということが問題となってきます。問題となってくるのは、ある表現が「訂正法」に含まれるかどうかが、3つのうちどの視点に立つかによって変わってくるからです。 そういったわけで。 ここから先、「読み手」「書き手」「主人公」という3つの視点から見た「訂正法」というものを、それぞれ確認していきたいと思います。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 本の読み手は、その中身を知りません。いま読んでいる文の続きが、どういったものかは知りません。この先ストーリーがどのように展開するのかといったことは分かりません。少なくとも基本的には、そのはずです。 なので。 もしも、手前に書いてあったことを取り消すようなことが書いてあったとすれば。読み手にとっては、「訂正」があったと感じられるはずです。 つまり、「読み手」の《視点》からすれば。以前に書いてあったことと食い違う別のことが書いてあったとき、それが、「訂正法」が使われたときとなります。 この「読み手」の《視点》は、わりと分かりやすいものです。けれども、ほかの《視点》を検討するばあいには回りくどい考えかたが必要になってきます。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| では書き手の側に立ってみたばあいには、どのようになるでしょうか。 たとえば、上で2つ目に引用した『せんせいのお時間』。あの作者「ももせたまみ」さんの立場に立ってみてください。 そうすると。 はじめから作者は、「おやじ」にしか見えない高校生というキャラをつくっていたはず。それを前提にして、主人公の「みか先生」のコメントとして「男のコの高校生は子どもっぽいとこがあるな」と言わせる。その上で、「おやじ」というあだ名を持つキャラを登場させる。 つまり何がいいたいのかというと。主人公(みか先生)が考えかたを撤回することは、作者があらかじめ用意している。だから作者にとっては、そんなの別に訂正でもなんでもないということになるのです。 もし本を書いている人が、「あ、間違った」と気づいたら。そのときには、文字を消せばいいだけなのです。ワープロで入力していたなら、あとかたもなく消すことができる。紙に書いていたばあいでも、消しゴムで消すことができる。線で塗りつぶして、書きなおすことができる。 ですので。 この《視点》に立った「訂正法」というのは、書き手が意図的に行った「訂正」を意味することとなります。なぜなら、このばあい「訂正」というのは作者による単なる「言い換え」にすぎないものなのだからです。作者は、あらかじめ決めていた「言い換え」をしたに過ぎないのだからです。 たとえば中村明氏は、少なくとも私(サイト作成者)が著書を読む限りでは、「書き手」の《視点》に立っています。中村氏が文体論の学者だということからも、うなづけます(ここでいう文体論というのは、stylisticsという意味ではないほう )。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| つぎに、「主人公」から見た「訂正法」を考えてみます。 このばあい、原則的には「読み手」の視点に近いものとなります。上で書いた『せんせいのお時間』の主人公みか先生は、たしかに考えかたをくつがえされています。そして同じように、「読み手」も考えかたを修正することになります。主人公と読み手は、ともに考えかたの「訂正」がなされているのです。 そう。たしかに原則的には、そのようになります。なのですが、残念ながら全く同じというわけにはいきません。それは、作者が自分について語っているようなばあいです。より具体的にいえば、エッセイとか自伝的小説とか日記とかいったばあいに、ズレが生まれてきます。 そういった文章では、前に書いたことについて考えが変わったとしても、あえて文字としてカタチに残すことがあります。なぜなら、文章のタイプが自分について包みかくさず赤裸々に書くようなものだからです。 たとえば、日ごとに日記を書いているということをイメージしてください。3日前に日記に書いたことが、もし勘違いだったとして。その3日前に書いた文章を消すことは、ふつうはしないはずです。まあ、感情が高ぶって八つ裂きに破り捨てるということは、あるかもしれません。でもそれは、例外のハズです。ほとんどのばあい、「あのときは、こんなふうに思ってたなあ」なんていうことを残しておくはずです。 そういったことが、エッセイや自伝的小説でも起こります。中でも自伝的小説が、問題です。日本の小説は、かなりのものが多かれ少なかれ「私小説」の色彩を帯びています。「私小説」は、その小説の作者が経験したことをもとに書かれています。つまり、「自伝的」なものなのです。 「私小説」の主人公が、作者自身なのかどうか。そこで話がややこしくなるのは、必ずしも全てが作者の経験したとは限らないところです。小説である以上は、脚色があると考えるのも当然だからです。 そんなわけで。 「私小説」の主人公が、前に考えていたことを改めたばあい。これは、「主人公」≒「書き手」の《視点》と理解するべきなのか。それとも、「読み手」の《視点》から考えてかまわないのか。そのあたりのことがあるので、話がややこしくなっているわけです。 たぶん、こんなに話がややこしい原因は。 「私小説」なんていうのが、日本の小説で中心的だった(そしてそれが日本の個性的なジャンルだった)ことにあるのだとおもわれます。日本の近代文学に特有のことは、レトリックを生みだした古代ギリシャ人も研究はしていないだろうから。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| これで終わりかと思いきや。また別の問題もひかえています。 それは、「話しことば」のばあいです。「話しことば」で「訂正」がおこなわれるばあいにも、その「話しことば」のジャンルによって考えかたが違ってくることばありうるのです。 「話しことば」のばあいには、上で述べてきた「書きことば」とは少し《視点》のとらえかたが変わってきます。具体的に言うと、「聞き手」と「話し手」の2つだけしかおらず、ふつう「主人公」は存在しません。なぜなら、話しことばは音によるものなので、記録には残らないからです。口から音が出たとたんに消えてしまうものなので、日記とか自伝的小説といったものを作ることはできないのです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そのことを踏まえて、まず「聞き手」の《視点》について考えてみると。 これは、書きことばでの「読み手」の《視点》と同じようなものになります。いままで聞いていたことが「あ、やっぱり違った」という流れに変われば、とうぜん「訂正法」の出番となるわけです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| これにたいして、「話し手」の《視点》のほうについては。残念ながら書きことばでの「書き手」の《視点》と同じではありません。なぜなら話しことばのばあいには、書きことばのように「書きなおす」ということができないからです。 話しことばでは、一回しゃべったことを口の中に戻すことはできません。もし話しているうちに「あれ?いまのは違うかな」と考えなおしたなら、「あ、違った」といった訂正の言葉に付けくわえて続けるしかないのです。これにたいして書きことばでは、一度書いた文字を消すなり塗りつぶすしてゼロにすることができます。 そのため。以下に書くような、細かい問題が生まれてきます。 書きことばで「訂正」があったばあいには、それは必ず「書き手」の意図によるものです。つまり、あえてワザワザ「訂正」ということを文に残しているものとなります。 それにたいして話しことばで「訂正」があったばあいは、2つのケースを想定することができます。 1つは、「話し手」が本当に間違っていたので直したばあい。もう1つは、もとから予定していた訂正をするばあいです。 もとから予定していた訂正、というのは。例えば、お笑いのトークで台本どおりのボケをしてツッコミをまっているばあいがこれにあたります。ここで行われるツッコミとは、間違ったことを直すということ、つまり「訂正」です。けれどもこのとき「話し手」(このばあいはボケ担当の芸人)は、それがはじめから間違っていることを知っているはずです。であるとすれば、それはボケ担当芸人の考えかたに「訂正」があったわけではありません。 で、問題は。この2つのうち「もとから予定していた訂正という」ものを、「訂正法」に含めていいのかというところです。言いかたをかえれば、「聞き手」の《視点》に立って考えたばあい「訂正」になるけれども「話し手」にとっては「訂正」ではないばあいの扱い方が、いまひとつ定まっていないのです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| このサイトでは、「読み手」または「聞き手」の《視点》にもとづいた考えかたをしています。 これはまあ、私(サイト作成者)の趣味としかいいようがありません。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
||||
| 訂正法・訂正 | ||||
| 修正・自己修正 | ||||
| 前言訂正・修辞的訂正・思想訂正 | ||||
![]() |
|||
| 換言法、疑惑法、設疑法、修辞的否定、抹消表示、迂言法、同格法 | |||
![]() |
|||
| どのような言いまわしをすれば、「訂正法」となるか。つまり、形式的な面から見た「訂正法」の解説が書いてあります。うちのサイトでは形式のはなしについて多くは触れていないので、くわしくはこの本を参照するのがいいと思います。 | |||
| この本のうち「第2章 ためらい」の後半が、「訂正法」について書かれた部分です。 | |||
| 日本の小説で使われている「訂正法」が、例文として用いられています。なお上にもちょっと書きましたが、野内良三氏は、基本的には「訂正」と「換言」との区別は必要ないと考えています。ですので、この本の「訂正法」の章には「換言」についても含めて書いてあります。 | |||
| この本には、弁論で使われるような「訂正法」にかんすることが書かれています。あまり見かけるタイプではないので、紹介しておきます。 | |||
|
|
|||
![]() |
|||
| 上では、4コママンガを引用しました。 引用した4コマの流れを見ると、「起承転結」がしっかりしているのが分かります。 ただ、この「起承転結」や「序破急」などといったもの。これらは、このサイトで扱っている、狭い意味での「レトリック」には当てはまらないものだと思い、ページを作ることはしませんでした。 私(サイト作成者)は、「起承転結」や「序破急」などは、広い意味での「レトリック」のうち、「修辞」ではなく「配置」に分類されるものだと思っているからです。 なお、くわしくは「このサイトのもっと詳しい説明」の「2.」をご覧ください。 |
|||
|
|
|||
![]() |
このサイト全体からのサーチ | 「使う目的別のページ」の中からサーチ |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |