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| 婉曲語法 えんきょくごほう euphemism | |||||||||||||||||||
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| ――『とらわれの身の上』5巻46ページ (樋野まつり/白泉社 花とゆめCOMICS) |
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《定義》 婉曲語法は、ものごとを遠回しに言うことの総称です。 この「婉曲語法」に含まれる表現の多くは、「響きの悪い言葉」を「響きの良い言葉」に置きかえるレトリックとなります。つまり、話をしている相手にとって不利益になることや、不快感を与えるようなことを、ぼかして表現することになります。 例えば、聞き手に不快感を与えないために露骨な表現を避けるばあいが、この「婉曲語法」が使われる場面の例に当たります。 このばあいは、直接的で露骨に伝えることをせずに、あたりさわりのない表現に切りかえることになります。この対象になるものには、生老病死や、神・性・排泄・金・政治・人種・職業・障害などが挙げられます。タブーに当たるために、そのことをあらわす表現を婉曲にしているのです。 これを細かく分ければ「稀薄法」に分類できます。 ですから多くのばあい、この「婉曲表現」は、他人との衝突を避けるために使われることになります。 《例文を見る》 例文は『とらわれの身の上』5巻。 主人公は、鈴花。 鈴花と恵は、竜神の呪いを解くために、中国へと向かう。その「呪い」とは具体的にどんなものかは、長くなるので省略します。まあいちおう、「迫真法」のページに書いてありますが。 とにかく2人は、中国へ旅立ちます。その中国でのドタバタのため、夜は山の中で野宿をすることになってしまう。 その時の鈴花のことばが、「婉曲語法」にあたります。鈴花は、 ちょっと行ってくるとしか言っていません。ですが、鈴花が何を言いたかったのかは分かるようになっています。恵の言うように、 トイレか……というのが正解。鈴花は「トイレ」と言うのをためらて、「ちょっと行ってくる」「……ついて来ないでね」としか言っていません。ここが「婉曲語法」にあたります。 《レトリックを深く知る》 【1.実をいえば】 実をいえば、この「トイレ」という表現でさえも「婉曲語法」です。キャンプファイアーをしているわけでもなく、山の中で野宿する状態なのに、近くに「トイレ」という建物があるとは思えません。 だからといって、「用を足す」「手洗い」「化粧室」「レストルーム」…。どれも、完全にそれを言う言葉ではありません。いずれも「排泄」というタブーに当たるために、置き換えられた言葉です。 さらにいえば、この「排泄」という言葉さえ「婉曲語法」です。「排」は「おしのける」、「泄」は「外に出す」という意味しか持っていません。この「トイレ」の正式名称は、もはや何だか分かりません。 なお「大辞林」(三省堂)によると、『古事記』の上巻で、(スサノオノミコトが)「屎(くそ)まり散らしき」という文が「排泄してそれを飛ばした」という意味で使われているらしいです(何度も書くけど、私は法学部出身なので、原文に当たってみたが理解不能だった)。 要するに、「まる」というのが「排泄」を意味しているのだそうです(そういえば、現代でも「おまる」という言葉がある)。古いから正式名称だというわけではありませんが、参考までに。 上に書いたことについて、『古事記―マンガ日本の古典1―』(中央公論社/石ノ森章太郎)が参考になるかどうかは微妙です。 【2.排泄と「婉曲語法」】 補足として、『日本の忌みことば(民俗民芸双書77)』(楳垣実/岩崎美術社)によると。 「排泄」を不浄のもの、つまり「忌みきらう」ようなものだと感じるようになったのは、江戸時代の中期くらいからだそうです。 それ以前の人は、排泄を「きたない」ものだとは感じていた。けれども、「けがれた」ものだというようには感じていなかった。そのように書かれています。 『古事記』のような文献を書くときにも、「排泄」を「けがれた」ものだとは意識しなかった。だから、堂々と書かれている。そのような事情があるのだと思われます。 【3.「婉曲語法」の下位に分類されるレトリック】 この「婉曲語法」は細かく分けると、次のように分類できます。
【4.「婉曲語法」と他のレトリック】 なお「緩叙法」は、形の上では「婉曲語法」と同じものになってしまいます。なので読み手(聞き手)は、それが「緩叙法」なのか、それとも「婉曲語法」なのか、それをしっかりと見極める必要があります。なお「緩叙法」については、「緩叙法(広義の)」を参照して下さい。 また。 この「婉曲語法」の正反対に位置するのが、「軽蔑語」というレトリックです。これは、ようするに「悪口」をいうことです。つまり、不愉快な気持ちや不快感を与えるために、わざと人を侮辱するような言葉を使うものです。 《駄文》 【1.序論】 ところで。 『レトリック事典』には、「婉曲語法」という項目がありません。というか、佐藤信夫先生のレトリック観には、「婉曲語法」というものがありません。 これはたぶん、他のレトリック用語があるので十分だというのではないのです。「緩叙法」で足りるとか、「迂言法」があるので間に合っているとか、そういった考えに基づくものではないのです。 【2.本論】 では、なぜ「婉曲語法」がないのか。 このことについて私(サイト作成者)は、『レトリックの記号論(講談社学術文庫 1098)』(佐藤信夫/講談社)から推察することができるのではないかと思います。 つまり佐藤信夫先生の、 地味にふるまっている記号表現でも、その意図とは無関係に、単に「発言された」というその事実によってすでに一種の強調となってしまうのだ。という記述から、くみ取ることのできるものがあるのではないかと思うのです。 結論を書くと、 佐藤信夫先生は、レトリックによって表現が「弱められる」ことを認めていないと考えているのではないか。そのように、私(サイト作成者)は受け取っています。 というのは、上で引用した文章を見ると。 ふつう「記号表現」ということばは、「シニフィアン」を指している。そして、「シニフィアン」が強調される、という文章には読むことができない。このことから、主語は書かれていないけれども「シニフィエ」であると思われる。 そこで、文章に主語である「シニフィエ」ということばを加えたうえで受動態にすると、 「シニフィアン」は地味にふるまっていても、「シニフィエ」は、その(発言の)意図とは無関係に、単に「発言された」というその事実によってすでに、一種の強調をされてしまうのだ。と読むことができます。略して、「シニフィエは、発言されることによって強調されてしまうのだ」となります。 そして。 これを逆から「緩叙法」っぽく読むと、「シニフィエは、発言によって稀薄化することはない」となります。 「シニフィエは、発言によって稀薄化することはない」――この文章は、明らかに「婉曲語法」を否定しています。ものごとを遠回しに言うことはできないというのは、「婉曲語法」はできないというのと同じです。 といったぐあいにして、「婉曲語法」ということばが『レトリック事典』から消えてしまった。私(サイト作成者)は、このように読みとっています。 【3.本当の「駄文」】 で。 そのように読みとることができるのにもかかわらず、このサイトに「婉曲語法」のページがある。それはつまり、その意見には賛成できないということです。 本当は口にするべきではないけれども、言わなければ伝わらないなんてものごとは山のようにあります。タブーとなっているものごとを呼びたいときに、それを指ししめすことばを語るということはよくあります。 そのときに、もしも「発言された」という事実のみによって、そのことばが強調されてしまうとしたら。それは、人と人との円滑な関係を大きく損ないます。だって、それは「本当は口にするべきことではない」「タブーとなっている」ものごとを指ししめしたことばなのだから。そのようなことばが無条件に強調されることは、相手を不快な気持ちにするにちがいありません。 もっと、日常の会話を気楽なものとしておくためには。「お茶をにごしておく」会話が大切だと思います。たとえばお金のことにしても、排泄のことにしても。 もちろん、まったく口にしないということが選べるのであれば、そのほうがいいかもしれません。でも現実は、そのような純粋無垢なものではありません。お金のことはタブーだからって口にしない人は、どのような生活手段をとるのでしょうか。排泄のことはタブーだからって語らない人は、一生トイレと縁を切って生きているのでしょうか。それはたしかに、きれいなことではありません。けれども同時に、生きていく上で必要なことでもあるのです。 そして、そのようなことにたいして。 私たちには、「お茶をにごしておく」会話ができるという、ありがたい能力が与えられています。それがつまり、「婉曲語法」です。 |
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| 関連項目→迂言法、稀薄法、代称・ケニング、遠曲語法、抑言法、転喩、含意法、軽蔑語 | |||||||||||||||||||
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