![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
| 隠喩 いんゆ metaphor | |||||||
![]() |
|
||||||
| ――『ヒカルの碁』1巻24~25ページ (ほったゆみ・小畑健・梅澤由香里 /集英社 ジャンプ・コミックス) |
|||||||
![]() |
|||||||
隠喩は、……ひとことで説明することはできません。ですが、ムリに定義を書こうとすれば、つぎのようになります。
|
|||||||
| 一般的な国語辞典では、このような説明がされているはずです。なぜなら、「隠喩」というレトリック用語を、古くからある通りに説明すると上に書いたような定義になるからです。 ですが実は。このページの下のほうには、上に書いたこの説明にたいして疑問をなげかけることになります。というのはなぜかというと、上に書いた説明があくまで「昔からある一般的なかたち」だからです。 |
|||||||
| 「隠喩」の効果としては。かなり多くのものを、指摘することができます。ようするに、全部を書くのにはスペースが足りません。ですので、重要だと考えられるものだけを書いていくことにします | |||||||
| むかし、アリストテレスという人がいました。このサイトで扱っている「修辞学」も、アリストテレスが骨組みを作った学問です。そういったわけで、まずアリストテレスが指摘したことを書いておきます。 | |||||||
| 「隠喩」は一目見ただけでは、その意味をつかみ取ることはできません。つまり、ある意味では「謎かけ」のようになっているのです。なので読み手(聞き手)は、その文を解きあかすことになります。そして、その「謎かけ」を明らかにすることができたとき。人は「快い」という気持ちになります。この「快さ」が、「隠喩」のもっている1番目の「効果」です。 | |||||||
| 隠喩は、ものごとを分かりやすくするという面をもっています。いいかえれば、「隠喩」を使うことは、伝えたいと思っていることに「ピントをあわせやすい」ことにつながります。たしかに、詩歌で使うような「隠喩」については、かならずしも「分かりやすくなる」という効果は望むことができません。ですが「隠喩」は、そのように特殊なものばかりではないのです。 | |||||||
| アリストテレスがいう、「効果」の最後。これは、今まで使われることのなかった言いまわしをするという「斬新さ」です。 | |||||||
| この3つが、「隠喩」を用いることによって得ることができる「効果」だ。そのように「アリストテレス」言ったものです。 | |||||||
| これから先では。「隠喩」がもっている「効果」、その代表といえるものを紹介していきます。 | |||||||
| 今まで知らなかったことを、新しく知る。人間には、そんなことへの「欲求」あります。そして「隠喩」には、その「欲求」を満たすという面をもっています。 | |||||||
| ほとんどの「隠喩」は、どの言語にも共通しものです。たとえばここに、翻訳する前のフレーズがある。そのフレーズ違った言語に訳す。そのときには、多くのばあい「一致している」のです。たとえば日本語の「日が昇る」は、英語の「SUN RISE」に対応しています。べつに、イギリス人と日本人が取り決めをしたわけではない。しかも実際には、「太陽の周りを地球が回っている」。そして、その事実をイギリス人も日本人も知っている。なのに、「日が昇る」=「SUN RISE」という一致があるのです。 | |||||||
| これは、場面によっては違うこともありますが。ふつう、同じシーンで使うばあいには、「直喩」よりも「隠喩」のほうが、知的で高級なイメージになります。 | |||||||
| 「隠喩」は、とても印象深く表現できるレトリックです。そしてそのため、「隠喩」をつかったばあいは、かなり「派手」なものになります。 | |||||||
| 「隠喩」を使った部分は、注目されることになります。なので、「隠喩」をつかったフレーズの使いかたによっては、とくに強い感情や感激などが表現することができます。 | |||||||
| 文章は、ときとして単調になります。つまり、はじめから最後まで一本調子では、退屈になってしまうのです。そのようなことを避けるためには、文の中に「引きしめるところ」と「緩めるところ」という区別をするのが一般的です。「隠喩」は、文を「引きしめる」効果があります。 | |||||||
| これは、すぐ上に書いたことと重なるのですが。「隠喩」は、今までとは違った言いまわしをすることで成りたちます。それはつまり、いままであった型どおりの文からズレることになります。ですので、わざと慣用からハズすばあいにも「隠喩」を使うことができます。 | |||||||
| 以上が、どのような「隠喩」にも当てはまる「効果」です。これから先には、ばあいによっては「隠喩」の使われるものについて書いていきます。 | |||||||
| 「成句」というのは、ことわざとか慣用句とか名言などのことをいいます。この「成句」は、ときとして「隠喩」で表現されることがあります。たしかに、日本の「成句」は、ほかと比べれば「隠喩」は少ないといえます。それは、おおくの「成句」が中国から輸入したもので、中国の「成句」は「○○のごとし」という「直喩」のタイプが多いからです。ですが日本語には、「隠喩」でできたものもあります。たとえば「時はカネなり」「よらば大樹のカゲ」のようなものです。 | |||||||
| これは、下の |
|||||||
瀬戸賢一氏は、「隠喩」のもっている「効果」の面について多くの言及をしています。ですが、ちょっと書ききれなかったので省略させていただきました。
|
|||||||
ほかに、レトリックの「効果」について触れている本としては。
|
|||||||
| 「隠喩」では。「たとえる前にあった、元になっていること」と、「たとえによって表現されることになったこと」という2つが、「ちょっとだけ似ている」――そんな言いまわしを使うことになります。もしも、「あまりに似すぎている」ことばをつかったとしたら。それは「隠喩」としての効果が発揮できているとはいえません。だからといって、「ぜんぜん似ていない」ことばを出してきたら。それは、たんなる「意味不明」の文になります。その2つのあいだにある、絶妙なところだというのがポイントとなります。 | |||||||
| 上に書いたように、「ちょっとだけ似ている」ことばを使うこと。それは、読み手(聞き手)にとってみれば、2つのあいだで似ているところを新しく発見することになりますす。2つのあいだには、少しだけれども共通する点がある。それは、いままで考えもつかなかったけれども、たしかに「似ている」といえる。それは、新しい発見でもあります。 | |||||||
| 人間jはだれでも、今までの経験から積みかさねてきた「ものの見かた」があります。「隠喩」は、そういった視点とはべつの新しい着眼点をしめすことになります。 | |||||||
| ほとんどの「隠喩」は、直観で気がつくものです。反対にいえば、瞬間的にヒラメキがあるような言いまわしでなければならない。ですが、こういったところに「隠喩」らしさがあらわれるともいえます。 | |||||||
| 「隠喩」は、特に注目をしてもらいたいところに使うことが求められます。それを逆にいえば、そのような特定の場所でなければ、みだりに使わないほうがよいということでもあります。とくに日本語では、もともと「隠喩」をあまり使う習慣がありません。ですので、「隠喩」を使うのは控えておくほうがいいこともあります。 | |||||||
|
|
|||||||
![]() |
|||||
| 例文は、『ヒカルの碁』1巻からです。 主人公は、進藤ヒカル。 ある日「ヒカル」は、おじいちゃんの家にある倉庫で「宝探し」をしていた。そこで見つけた古い碁盤に宿っていた「藤原作為」の霊がヒカルの意識の中に入り込んできた。彼は平安時代に囲碁をやっていたとのこと。 それで。ヒカルに乗り移った理由を尋ねているのが、引用のシーン。 私はまだ神の一手を極めていないとのこと。だから、ヒカルに乗り移ったらしい。 ここで出てきた「神の一手」という表現を、「隠喩」として見ていくことにします。 このページの最初に書いた2つの説明が、この例文に当てはまることを確認していきましょう。 まずは。
これは、かんたんな説明で片づきます。藤原作為は、「神のような一手」という言いかたはしていません。つまり、「○○のような」みたいな「比喩でございます」という目印を引きつれて話してはいません。 ですので、この「目印を使わないで」という条件にあてはまることは、すぐに分かります。 次に。
これは、なかなかやっかいです。藤原作為は、「神」ということばに一体どんな含みをもたせようとしたのか。それは、ぱっと見ただけでわかるというものではありません。 ですが、ここでは話をややこしくするのを避けます。つまり、ここでいう「神」ということばは、 「ふつうの人間だったらできないすごい」といったくらいの意味だということにしておきます。私(サイト作成者)は、藤原作為ではありません。ですので、本当のところは知りません。でも、たぶんこんな感じの意味だと思います。 で、話をもとに戻すと。 もともと言おうとしたのは、「ふつうの人間だったらできないすごい」一手、というような言葉です。なのですが、ここで藤原作為は、考えました。「ふつうの人間だったらできないすごい」ということを意味する、もっと端的な単語があるじゃないか、と。 まあ、そういったわけで、「ふつうの人間だったらできないすごい」と長ったらしく言うかわりに、「神」という表現を使うことになった。それがようするに、「もともと言おうとした言葉と意味の似ている言葉を使って、ものごとをたとえる」ということです。 そんなわけで、この2番目の条件にもあてはまることになります。 ですので、この「神の一手」という表現は、「隠喩」だということになるわけです。 |
|||||
|
|
|||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||
| さて。 上にも書いたように「隠喩」については、さまざまなことが指摘され、議論され、論駁され、紛議してきました。 そういったわけで。 この「隠喩」にかんしては、書いておかなければならないことがたくさんあります。「隠喩」は、いつでもレトリック研究の中心だったのです。そのため、「隠喩」をテーマにした論考も星の数ほどあるのです。 けれども残念ながら、このページでその全部を書くことはできません。それは、私(サイト作成者)の能力が追いつかないということもあります。また、このページの大きさから考えて限りがあるということいえます。 そういったわけでこのページでは、とくに重要だと思われる点をいくつかピックアップして書くことにします。けれども、そのように短くしようとガンバっても。やっぱり長くなってしまったのですが。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 「隠喩」とは何か。とまあ、ふつうの人なら気にしないようなことを、レトリック学者たちは真剣に議論してきました。というか、今も真剣に議論しています。 そういった事情から。 「隠喩」とは何か、ということを説明する方法の説が、これまたたくさん出されてきています。このページでは、そのうちでも代表的なものをあげておくことにします。 なお。 これより先に書いてあることは、少し専門的なものです。 ですので、とりたてて「隠喩」ことが知りたいとか。もしくは、レトリックに関心があるとか。そういった方でなければ |
||||||||||||||||||||||||||||||
| で、まずはじめに。 「隠喩」を、「比較説」という考えかたで定義してみることにします。 …という文を読むと。なんだか難しそうな「比較説」のが登場したことので、困ってしまった方もいると思います。 けれども、この「比較説」を理解するのは楽です。どうしてかというと、すでにこのページの最初に、この「比較説」がいうところの「隠喩」の定義を書いているからです。つまり、 「○○みたいな」だとか「○○のような」といった目印を使わないで、ものごとをたとえる。これが、ようするに「比較説」が説明する「隠喩」です。 くりかえすと。 「○○みたいな」とか「○○のような」とかいった目印をつけていた「直喩」から、この目印を取りのぞいたもの。これが「隠喩」となる。 これが、「比較説」による「隠喩」の説明です。 レトリック学者は、これをひとことで、 隠喩とは、《縮約された直喩である》。と、まとめたりします。 で。 この「比較説」を押し進めると、つぎのようなことがいえます。 それは、「隠喩」に「○○みたいな」といった目印をつけて「直喩」になおすと、いいたいことが分かりやすくなるということです。つまり、「隠喩」を「直喩」に言いかえることによって、意味をはっきりとさせるということです。 たとえば。 「神の一手」という「隠喩」がある。ここに、「○○のような」という目印をつける。つまり、「神のような一手」という「直喩」にする。そのことによって、理解がしやすくなるということがいえます。 ただし。 このようなことが必ずしもできるわけではありません。つまり、「隠喩」にたいして目印をつければ、いつでも「直喩」になるのかというと、そういうわけではないのです。つまり、「直喩」には言いかえることのできない「隠喩」というものがある。これは、事実です。そしてそのことが、この「比較説」にたいするいちばん大きな批判といえるでしょう。 そんなわけで。 この「比較説」は、「昔から言われてきた」説明の方法だということになっています。つまり、今となっては過去の考えかたとなっているといえます。 ですが、おおまかに「隠喩」を説明する理論としては、まだまだ十分に活躍しています。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 「代置説」という、またもや難しそうなことばが登場しました。 ですが。 この「代置説」を理解するのにも時間はかかりません。どうしてかというと、これまたすでに、このページの最初に、この「代置説」がいうところの「隠喩」の定義を書いているからです。つまり、 もともと言おうとした言葉と意味の似ている言葉を使って、ものごとをたとえる。と、これが「代置説」です。 この「代置説」が、どういったものなのか。それを説明するために、 「歩き疲れた」ということを、「足が棒になる」と表現するばあいを考えてみます。 まず、もともと伝えるはずであった「歩き疲れた」ということばがある。そして、ふつう日常に話をするならば、この「歩き疲れた」をそのまま口にすればよかった。 ところが、ここに「足が棒になる」ということばがある。この「足が棒になる」は、もともと伝えようとしている「歩き疲れた」と似ていた。そこで、もともとの「歩き疲れた」ということばを使わずに、「足が棒になる」ということばを「代わりに」使うことにした。そしてその結果、「足が棒になる」という表現となった。 と、このような理論が「代置説」です。 この「代置説」がもっている、一番の弱点。それは、 この世には、完全に100%同じ表現はない。ということです。 一方で、「歩き疲れた」という表現のなかには。たとえば「ノドがカラカラに渇いた」とか「たくさんの汗をかいた」とか。そういった「足の疲れ」だけではないことも含まれています。 他方で、「足が棒になる」という表現のなかには。たとえば「いろいろ歩き回った」とかいったニュアンスが入ります。ばあいによっては「かけずり回ったけれどうまくいかなかった」ということまで表していることもありえます。 すると。「歩き疲れた」という言いまわしと、「足が棒になる」という慣用句は「完全に同じ表現」とは言えないものです。そして、「完全に同じ表現ではない」のであれば。ナゼ、わざわざ「足が棒になる」というフレーズを使ったのか。そのことに考えがおよぶことになります。そういったわけで、たんに「似ている」から代わりに使ったのではなくて、「なにかの必要があって」そのフレーズを使ったと考えざるを得ません。 そのため。2つのことばが「似ている」という理由で「代わりに使われた」という説明では、不十分だという結論に行きつきます。似ていることばなら、いくつもあるはず。それなのに、ナゼその単語を選びだしたのか。そこを説明する必要がある。なのに「代置説」は、その説明をしていない。とまあ、こういったことになるわけです。 言いかえると、「代わりに使う」には、なにか「代わりに使う理由」というものがあったはずです。であれば、「隠喩」を定義するときには、その「なぜ代わりに」ということについても説明しなければならないはずです。そして、そこにこそ「隠喩」を使うことになった、もっとも大きな理由があるはずです。 とまあ、そんなわけで「代置説」についても評判がよろしくありません。つまり、この「代置説」もまた、「昔から言われてきた」説明の方法だということになっています。つまり、今の時代にはこの説を支持されません。 ですが、これもまた、おおまかに「隠喩」を説明する理論としては、まだまだ十分に活躍しています。 それと「代置説」は、「代入説」とか「代替説」とかいう呼びかたをされることもあります。 なお。 著者は、「旧説をめぐるつまらない議論で目を汚」すような説明だと書いている。けれども、その「旧説への説明」がこれだけ丁寧に書かれている本は、なかなか見つかりません。 でもまあ、じつは。この本の著者は、これより下に書くことになる |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 今度は、「相互作用説」というやつです。 そろそろ、みなさんも読むのが面倒になってきたかもしれません。私(サイト制作者)も、タイピングが疲れてきました。 でも、ちょっと読むのはやめないでください。どうしてかというと、たぶんこの「相互作用説」というやつが、今のところいちばんメジャーな理論だからです。たしかに、出てきた時代順にならべたという都合で、3番目の登場になっている。だけれども、この「相互作用説」なるものが、もっとも「隠喩」を正確に説明していると思うのです。 で、その「相互作用説」とは何なのか。それは、ひとことでいえば、「たとえるもの」と「たとえられるもの」との相互作用によって新しい効果が生まれるのが「隠喩」だ。とまあ、そんなような説です。 この「相互作用説」を主張したI・A・リチャーズという人は、次のようなことばを使って「相互作用説」を説明しています。つまり、
でも、忘れてください。これはもうすでに、この用語を知っているというようなレトリックに詳しい人のために、念のために書いておいただけです。そういうレトリックのマニアではない、ごくふつうの一般的な人は、忘れてかまいません。 話がズレたので、もとに戻しましょう。 この「相互作用説」を分かりやすくするために、1つ例を出してみます。 人間は一本の葦にすぎない。 (パスカル)たぶん、だれもが認める「隠喩」といえるでしょう。 この「隠喩」をもう少しよく理解するためには、この文のつづきも知っておく必要があります。 自然の中で最も弱いものである。という文が続いています。 さて。 この2つの文章を、(パスカルの思いを無視して)ひとまとめにすると、次のようになります。 人間は、葦のように弱いとまあ、無粋にまとめることができます。(無粋、というのは そして、「相互作用説」を考えていく上で、ここで注目しなければならない点。 それは、どのことばが「たとえられるもの」「たとえるもの」「2つを結びつけるもの」にあたるかということです。 長くなってきたので、結論を急ぎます。端的にその結論を書けば、
そこで「相互作用説」の登場です。 「相互作用説」にいわく。この例でいえば、「人間」ということばと、「葦」ということば。この2つが重なり合うことによって、相乗効果を生む。新しい固有の表現を生む。そしてその結果、豊かな「隠喩」となる。 そのような「重なり合い」に注目するところに、「相互作用説」の指摘する重要な点です。 なお。 今回の説明をするにあたって例に使った文。それは、「人間は一本の葦にすぎない。」というものでした。そしてこの文は、すぐあとに「自然の中で最も弱いものである。」とつづいています。 この2つの文の特徴。それは、2番目の文に、「弱い」ということがハッキリ書かれていることです。これは、「2つを結びつけるもの」→弱い、ということがすぐにわかるようになっているということです。つまりこれは、「相互作用説」の3つの要素のうち、「2つを結びつけるもの」という要素が明らかだということです。 けれども。実は、このような例は少ないのです。つまり、「2つを結びつけるもの」というのは、明らかになっていないことのほうが、圧倒的に多いのです。これは、リチャーズが指摘しているとおりです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| さて。最後に「二重の提喩説」の説明となります。
まず申し訳ないのですが、「提喩」それ自体をここで解説するスペースはありません。ですので、「提喩」それ自体については、リンク先を参照していただきますよう、よろしくお願いします。 で。 この「二重の提喩説」というのは、グループμという人たちが提案した説明のしかたです。 「二重の提喩説」によると、「隠喩」は2つの段階をふむというように考えられることになります。 まず第1に、いちど抽象的なランクまで格下げします。これは種から類への一般化をするということになるので、「一般化の提喩」と呼ばれます。 そして次に、もういちど具体的なランクに格上げします。これは類から種への特殊化をするということになるので、「特殊化の提喩」と呼ばれます。 とまあ、このように説明されるわけなのですが、抽象的すぎてちっともわからない。 そこで、またもやパスカルに登場していただきます。先ほどのパスカルの文を図であらわすと、つぎのようになります。 というプロセスによって「隠喩」が成り立つと考えるのが、この「二重の提喩説」です。 彼らはこの説をひとことでいって、 《隠喩は、2つの提喩の積》であるとしています。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 「愛称語」。それは要するに、相手を「あだ名」で呼ぶということです。 では。 そのあだ名は、どのように作られるのか。つまり、どのようなレトリックで「あだ名」をつけることが意言う多いのか。それを調べると。
いちばん数がのは「換喩」を使った「あだ名」です。あだ名をつけようとしているヒトがもっている、性格とか特徴だとか。そういった「そのヒトとイメージが近い」ものを使う。そういった「換喩」によるレトリックが、いちばん多くなります。 ですが。 「換喩」のつぎに、よく見かけるもの。それは「隠喩」です。ちょっと手のこんだ「あだ名」のばあい、たいてい「隠喩」からできあがったものです。 右の引用は、『ラブ★コン』1巻から。 主人公は、小泉リサ そして、高校に入って知りあったのが大谷敦士。 この2人は、 オール阪神・巨人のです。なぜなら背の高さが、リサ・170cmで大谷・156cmというかんじだったから。 なお。この「あだ名」は、入学したときにつけられたものです。 この名づけかたを、たとえば「二重の提喩」でもって説明すると。 というプロセスが成りたっています。ですので、2人の「あだ名」のつけかたは「隠喩」だといえるわけです。 なお。 「あだ名」の例については、「愛称語」を参照して下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 「隠喩」を、「生きた隠喩」と「死んだ隠喩」に分けることがあります。 このばあいに「生きた隠喩」というのは、新しく創り出されたもの。活力にあふれているもの。斬新で心をうつようなもの。そのようなもののことをいいます。 逆に「死んだ隠喩」というのは、ステレオタイプ化しているもの。ありきたりで、意外性のないもの。もはや「レトリック」としての「隠喩」とは呼びづらくなっているもののことをいいます。 例えば『卒業M』(杉崎ゆきる・有栖川ケイ/角川書店 あすかコミックス)1巻8ページでは、透吾が遅刻してきたのを未希麿が、 「今日も重役出勤だね――」(次3時間目だよ)と言っています。この「重役出勤」は「隠喩」には違いありません。未希麿も透吾も「高校生」なんだから、「重役」ではない。けれども、「透吾の登校が遅い」ことを「重役の出勤が遅い」ことにたとえた「隠喩」と受け取って間違いありません。 ですが、「生きた隠喩」に分けるのは気が引ける。ためしに、この「重役出勤」をGoogleで検索してみたところ、約10,000件がヒットした。かなり世間に流通した言葉だといえる。 ほかの言いかたをすれば、この「重役出勤」という言葉がマンガの中で出てくる。そんなものも、さがせばたくさん出てくる。例として、
でも、これが完全に「死んだ隠喩」となっているのかと言われると、そうでもない。 ためしに「広辞苑」(岩波書店)・「大辞林」(三省堂)・「新明解国語辞典」(三省堂)を調べてみたところ、いずれにも「重役出勤」は掲載されていなかった。 とにかく。 はじめは「生きた隠喩」であったとしても。それは、時間を経るとともに、時代の流れとともに、だんだんと輝きを失っていきます。そして最後には、「死んだ隠喩」という扱いを受けることになってしまいます。 この「死んだ隠喩」になってしまったもの。そういったものについては、もはや「隠喩」と呼ぶことはできない。そのような扱いを受けることもあります。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 「隠喩」と「メタファー」との違い、と書くと。 また突然、奇妙なことを言いだしたと思われるかたもおられるでしょう。だって、「隠喩」の英語訳はmetaphor、つまり「メタファー」なのだから。この2つに違いなんてないだろう、同じものだろうと考えるほうが自然とさえいえます。 ですが。現実に「隠喩」ということばが使われるとき。もしくは「メタファー」ということばが使われるとき。その2つには、ちょっと違った意味が出てきます。いやまあ私(サイト作成者)だって、こんなの同じ意味で使われていたほうが分かりやすくていい、と思います。「隠喩」と「メタファー」とが、違う意味のことばだなんていうのは、混乱する人が増えるだけだという気もします。ですが、この2つのことばは現に、違いがあるのです。 その違いをひとことで言うと。 「メタファー」ということばは、広い意味をもっている。それに比べて、「隠喩」ということばは、狭い意味をもっている。 と、そういうことです。 いちおう、その違いを表にしてみました。 とまあ、このようになります。 念のため同じことを書きますが、このページでは「隠喩」について説明しています。つまり、上に書いた表では右側のほうの用語を説明しています。このページを読んでいるみなさまは、この2つの用語の使いかたで混乱しないようにしましょう。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| この「隠喩」は、「暗喩」ということもあります。これは、「明喩」と「暗喩」という2つの名前をセットにした呼びかたです。つまり、たとえであることを明らかにしている「直喩」を「明喩」と呼んで、逆に、たとえであることを明らかにしない「隠喩」を「暗喩」と呼ぶ。そういった名前のつけかたです。 ですが、この「暗喩」という呼びかたはマイナーです。おおくの場合には、「隠喩」という名前で呼ばれます。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| また。 この「隠喩」は、規模が大きくなるにつれて、「隠喩」→「諷喩」→「寓言」→「寓話」と、名前が進化していきます。 「諷喩」は、1つの「隠喩」をもとにして、それに近い「隠喩」を重ねていくものです。そして、それが小さなたとえ話といえるようになるくらいの長さになれば「寓言」となります。これがもっと進んで、1つの物語となるくらいの長さになると「寓話」となります。 |
||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||
| 隠喩 | |||||
| メタファー | |||||
| 暗喩 | |||||
|
|
|||||
![]() |
||||
| 直喩、諷喩、寓言、寓話、提喩、換喩 | ||||
![]() |
||||
|
||||
| この本は、ていねいで軽妙な語り口で書かれています。ですので、初心者《も》じゅうぶんに読みこなすことができます。けれども、この本は初心者だけに向けられて書かれたものではありません。とてもハイレベルなことにも言葉が及んでいます。 | ||||
|
||||
| 「ジュニア新書」と書かれているとおり。この本は、子供でも読めるようにということを考えて執筆されています。ですが、大人であっても十分に役に立つ本です。 | ||||
|
||||
| はじめから終わりまで、「比喩」について語っています。そして「比喩」のうち、もっともメジャーなのは「隠喩」です。そんなわけで、「隠喩」にかんしても十分、参考する価値のある本です。 | ||||
|
||||
| この本は、いろいろなレトリック関係の書物で「参考文献」や「引用元」となっています。それはつまり、「引用するだけの価値がある」と考えてよいとおもいます。 | ||||
|
||||
| このページで紹介している他の本からしてみると、かなり風変わりな存在。というのは引用している文章が、明治時代よりも前に書かれたものだからです。役に立つ、という意味でオススメするのではないのですが。こういった切り口もある、という意味で書いておきます。 | ||||
| このサイトを書いている私(サイト作成者)が「初心者」だったりします。なので、中級者よりレベルが高い人向けの本は、紹介できません。 たとえば。このページをつくるにあたっては、『背理のコミュニケーション』(橋元良明/勁草書房)を参考にしています。ですが、ホントは『背理のコミュニケーション』という本を読みこなせていなかったりします。 そういったわけなので、カンベンしてください。 |
||||
|
||||
| 忘れ去られようとしていた、レトリックという学問。そこに新しい風を吹きこんだという、たいせつな一冊。 | ||||
|
||||
| この訳書も、いろいろなレトリックの解説書で引用されています。「隠喩」だけを解説している本ではありません。ですが、「二重の提喩論」を最初に唱えた本だということを考えれば、紹介しておくべきものだと思います。 | ||||
|
||||
| 日本語に翻訳されている、レトリック関係の本。そのなかでも、この本は特に、高い評価を受けています。M・ブラックの論文のところは、絶妙です。 | ||||
|
|
||||
![]() |
|||
| 上のほうで、パスカルのことばを引用しました。ですが、あの引用のしかたは、やはり無粋です。 そのワケを知るために。 日本語に訳す前の状態(つまり、パスカルが書いたフランス語)の文を、見てみましょう。 L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature ; mais c'est un roseau pensant.となっています。 これをふまえたうえで、このフランス語の文を日本語にしてみると。 人間は葦であり,自然界の中で最も弱い生き物である; がしかし、考える葦である。と。パスカルは、人間が「考える」ということに注目していたはず。 それなのに、引用ではパッサリ削ってしまいました。なので、無粋なのです。 |
|||
|
|
|||
![]() |
このサイト全体からのサーチ | 「使う目的別のページ」の中からサーチ |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |