白亜堂にて

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田端芸術村の歴史  

芸術村転入歴    

 皆さんは田端という町を知ってますか?
 東京都の中でも比較的繁華街の少ない北区というところにある山手線の駅です。
池袋から上野に向かっていくと「大塚→巣鴨→駒込→田端」の順で止まるんだけど
あんまり記憶に留まらないというか名物がないというか‥‥地味な町なんですよ。
 私が結婚して田端に住んだのは平成7年から4年弱の間でした。最初は何の魅力も
感じなかった田端の町が、こんなにも文学的な歴史を持った場所だと知ってからは
田端の町が大好きになりました。引っ越すのが悲しいくらい、私の田端ライフ?は
充実していたんです。そんな地味ながらも燻し銀?の魅力を持った田端の事を少し
ばかり紹介するページです。

 タイトルの「白亜堂」というのは、かつて田端駅の坂を上ったところにあった
喫茶店の名前をもらいました。そのお店でお茶を飲んでいるような気分で自分なりの
「田端考」を書いてみようと思ったんです。「白亜堂」は正確には「露月亭」という
名称だったようですが、いつもクラシック音楽がかかっているハイカラなお店だった
そうです。画家の卵や文士の人たちが珈琲を飲みながら芸術論でも交わしていたんで
しょうかね‥。

 田端の駅前には「田端文士村記念館」があります。ここでは芸術村の歴史や、
芸術村出身の文学者、芸術家の作品や草稿などが展示され、様々な角度から
田端芸術村を研究したビデオなどが放映されています。また定期的に芸術村
出身者の足跡をたどる散策コースなどの募集もしています。ガイドさんと一緒に
田端を歩いて芸術家たちの息づかいを感じてみるのもいいかもしれませんね。
記念館への入場料は無料です。ぜひ近くへ行った際には足を延ばしてみて下さい。

田端文士村記念館

北区田端6-1-2
TEL/03-5685-5171
開館時間/AM10:00〜PM5:00 休館日/月曜日


田端芸術村の歴史


 田端駅が開業したのは明治29年(1896年)。槐多のページでもお馴染み?の
小杉未醒(のちの放庵)が明治33年(1900年)田端163番地に転居してきた頃
あたりから「芸術家の入居」が始まります。

 明治40年「方寸」という美術雑誌が創刊され、これが芸術家達の酒飲み集会?
「パンの会」発足のきっかけになります。この本の創刊には石井柏亭、山本鼎(槐多
の従兄)等がたずさわりました。「方寸」は創作版画、画、画論の他に詩やエッセイ
などを盛り込んだ12〜3ページの雑誌で、「方寸」に参加していた画人達が田端に
住んでいたこともあって翌年には「パンの会」が作られました。
 ここで美術家達と文学者達が親しい交流を持つようになりました。「パンの会」は
20代前後の芸術家たちで構成され、みんなで月に一度集まっては酒を飲み、互いの
芸術論をたたかわせる場でした。飲み、歌い、大騒ぎをしていたようです。

 「パンの会」はさておき、その頃の田端周辺には日本画、洋画、彫刻、陶芸などの
あらゆる芸術家が住んでいました(詳しくは転入歴を参照)。田端に山手線が開通
し、美術学校のある上野と地続きで近いこと(現在自転車で15分くらい)緑の多い
閑寂の地であったことなどが理由なんですが、きっとみんな貧乏で助けあっていた
ので、自然と近所に住み始めてしまうのが自然な成り行きだったんでしょうね。

 小杉未醒の発案で、田端西台に「ポプラ倶楽部」なる画人達のクラブハウスが建設
されたのが明治43年のこと。塀代わりにポプラの木を並べて植えた300坪程の
土地にクラブハウスを建ててテニスコートがありました。槐多もここでテニスの腕を
ふるったそうです。下駄履いたままやっていたんでしょうね(笑)きっと。槐多は裸で
田端の道を闊歩し、沢山の友人と飲んで騒いでここでの生活を楽しんでいたはずです。
 ポプラが風そよぐ田端に住まう画人達は、文人達との交流で刺激され詩や小説等に
挑戦する人も多くて、高村光太郎が詩人として有名ですよね。光太郎は田端から
歩いて20分ほどの千駄木に住んでいました。光太郎は槐多をとても可愛がって
いたようで、槐多も千駄木の彼の家にちょくちょく寄っていました。光太郎はのちに
槐多についての詩を書いています。

 槐多が田端に来た大正3年に、当時帝大生だった芥川龍之介が転居してきます。
龍之介はポプラ倶楽部の勉強会「老荘会」に出席しています。この会はは公田連太郎を
師として「荘子」「詩経」「文選」などの漢文の勉強をする会で、仲川一政、岡本一平
かの子夫妻(彫刻家・岡本太郎の両親)、木村荘八、石井鶴三等が参加していました。

 その他にも「交換晩酌会」なるものもあって、とにかく田端のポプラ倶楽部を中心に
芸術家達の交流は深く保たれていたのです。そんな田端芸術村を暖かく見守ってくれて
いたのが鹿島組(現・鹿島建設)の御曹司鹿島龍蔵でした。龍蔵は自分も唐升という
俳名を持つ文人で、洋画、日本画、彫刻とあらゆる分野の芸術家たちに分け隔てなく
協力をしてきた人です。彼が主催したのが「道閑会」という田端村芸術家達の交歓会で
芥川龍之介は道閑会の有力メンバーでした。道閑会は田端にある「天然自笑軒」という
会席料理屋でよく開かれました。ここは龍之介が結婚式を挙げた場所でもあります。

 当時の田端はアトリエ付きの住居は当たり前、コールテンのズボンにルバシカ姿という
のも珍しくなく、駅の陸橋から飛び降り自殺をするのは「画家風の男」と相場が決まって
いたくらい、芸術家と田端の町は一体化していたんですね。

 最後に芥川龍之介の「東京田端」の一文を紹介します。
 
  時雨に濡れた木々の梢。時雨に光つてゐる家家の屋根。犬は炭俵を積んだ上に眠り、
 鷄は一籠に何羽もぢつとしてゐる。
 庭木に鳥瓜の下つたのは鑄物師香取秀眞の家。
 竹の葉の垣に垂れたのは、畫家小杉未醒の家。
 門内に廣い芝生のあるのは、長者鹿島龍蔵の家。
 ぬかるみに道を前にしたのは、俳人瀧井折柴の家。
 踏石に小笹をあしらつたのは、詩人室生犀星の家。
 椎の木や銀杏の中にあるのは、---夕ぐれ燈籠に火のともるのは、茶屋天然自笑軒。
  時雨の庭を塞いだ障子。時雨の寒さを避ける火鉢。わたしは紫壇の机の前に、一本八錢の葉巻を啣へながら、一游亭の鷄の畫を眺めてゐる。


参考資料:田端文士村記念館発行「田端文士芸術村しおり」

     産経新聞大阪本社発行「きらめくモダン−大正ロマンの画家たち展」

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