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| 懐かしい匂いだった。
そして、カウンターの中には、町野弘美がいた。
その光景はむしろ自然で、僕は緊張すると同時に安心もした。
にんじん色のエプロン姿で、カウンター内で雑誌を読んでいた彼女は、僕のほうを静かに見つめた。
僕はゆっくりと店内へと入る。
「あら、おかえりなさい」
その言葉は、僕にとって何よりも替えがたい言葉だった。
「いらっしゃいませ、だろ」
僕のそういうと、彼女は、読んでいた雑誌を閉じ、レジの下へ隠すように投げ入れた。
一瞬、その雑誌の表紙が僕の目に写った。
それはバイクの雑誌だった。
それを見たとき、僕は確信した。
みんな自分の生き方を知っている。
町野も、聖も、彰も、暁子も。
気付いていないのは僕だけだった。
「先輩は」
「釣りか、煙草を買いにいったか」
そのどちらかしかないの、といったいいかただった。
「何か食べる?」
「そうだな」
そういえば腹が減った。というより、今そのことに気付いた。
「じゃ、焼きそばを」
「はぁい」
同級生の作った料理を食べるという僕のささやかな優越感。
その感覚をずっと忘れていたような気がする。
町野は、ワンカップの空き瓶の水を差し出すと、手際良く調理の準備をはじめた。
先輩も、彰も、服部もいない時は、いつも暁子の話をしていた。
しかし、今はもう彼女が二人の話題になることはないだろう。
「そういえばね」
心の中で話題を探していたのだろうか。キャベツを洗いながら、町野が切り出した。
僕はカウンター越しに、彼女の調理の様子を眺めながら、次の言葉を待った。
「ボート部の全国大会ね、話きいた?」
「いや」
そういえば、そんな話もあった。終業式のときに全国大会の日程について伍長が話をしていた。
僕の懐を温めてくれた一件である。結果ぐらいはきいてあげてもいいだろう。
「遅刻でもして失格になったのか」
「なら、いいんだけどね」
町野は笑った。
「それがね」
「もったいぶるなよ」
「最下位だったんですって」
「ふうん」
いつもなら「ざまあみろ」とか「そんなことだろうと思った」という言葉が、僕の口から出てくるはずだった。
しかし今回に限って、僕の頭のなかでいくつかの言葉が頭の中をめぐるのがわかった。
勝負(ゲーム)、試合(ゲーム)、戦い(ゲーム)、ゲーム。
絶対的な結果を残せなかった者たち。
参加することに意味がある、という言葉がある。しかし、本当にそうだろうか。
それはその対象への侮辱ではないのか。
参加することは大前提であり、そのことには全く意味はない。
戦って勝つことにだけ意味がある。負けたら無意味だ。次回への教訓とか、勝者への賛美とか、そんなものは負け犬の遠吠えだ。
「そんなことよりさ」
僕は大きな声でそういった。ボート部のことなどどうでもよかった。
それよりも、不意に茶話会での、神崎君と一条さんの会話を思い出したのだ。
「『単コロ』ってどういう意味?」
茶話会で神崎君がいっていた言葉だ。バイクに関係している言葉なら、町野も知っているかもしれないと思ったのだ。
「何よ、突然」
町野は目を伏せて、両手をエプロンで拭いた。
「東京できいた言葉さ、バイクの用語だろ」
「まあ、用語というか」
町野は遠い目をして言葉を選んだ。
「単気筒エンジンのバイクのことよ、わかる単気筒って」
「いや」
「気筒、つまりシリンダーが一つしかないってこと。シリンダーはわかるわよね」
「うーん、エンジン中で上下に動いている筒のこと?」
「そうそう、つまり・・・・つまり」
「他のと比べて何が違う?」
「あ。違うところ?そうね」
町野はまた少し間を置いて言葉を選んだ。
「燃費がいいとか、音がいいとか、かな」
「音」
「そう、音ってバイクのエンジンって方式によって全然違うものなの」
「そうかな」
街角でバイクを見掛けても、そのエンジンの音なんて気にしたこともなかった。
「二気筒とか四気筒とかはパンパンって軽い音がするの。単気筒はドッドッっていう心臓みたいな音」
「そうなのか」
「クランクが、こう上下に動くでしょ」
町野は左手でシリンダー、右手でクランクの真似をしてみせた。
「四ストロークだったら、ガソリンの燃焼はクランクシャフトが二回転するあいだに一回しか起こらないわけ・・・・」
右手を回してその指を広げて爆発を表現する。
「だから燃焼と燃焼の間隔が大きくて、独特のトルク感が生まれるわけ」
「ふうん」
よく知っているな、と僕は素直に感心した。
もちろん聖のバイク好きによるものだろうが、それにしても詳しい。
それから町野は、高回転のときにはどうなのか、とかどんな乗り方をする人に向いているのかなどを、わかりやすく話してくれた。
その間、調理が止まってしまったわけだけど、僕にはそれでも満足だった。
こんなに楽しそうに話をする町野を見たのはひさしぶりだったからだ。
話が一区切りついたところで、彼女の前髪がはらりと左目の上へと落ちた。
身振り手振りで話してくれたので、まとめていた髪が乱れたのだ。
そのとき、僕は町野の顔がいつもの彼女でないことに気付いた。
町野は薄く化粧をしていたのだ。
その肌と、髪で隠れた目には、いつものボーイッシュなイメージとはかけ離れたインパクトがあった。
「それでね」
話を続ける彼女は、言葉が途切れないようにあわてているようにも見えた。
ひょっとして町野と聖の間に何か進展があったのだろうか。
「よくわかったよ」
僕は切りかけのキャベツを指差して、続きを作ってくれるように頼んだ。
そして、振り向いて通り扉の向こうのゲームコーナーを眺めてみる。
「ゲームするの?」
町野がいった。
「いやいい。ちょっと見るだけさ」
僕は椅子から離れると、通り扉の奥へと入った。
電源は切られていたが、かすかな電子臭と硬貨の匂いが残っている。
冷房も切られているので、蒸し暑かった。
やはり「ギャプラス」は、あの日のままの場所にあった。
僕はここで日々をただ通り過ぎるように過ごしていた。将来について今まで真面目に考えることがなかったように思う。
三五才を過ぎても独身の教師、将来役に立ちそうにもない古語、暴走族と付き合いのある女子生徒・・・・。
何とかそんな生活から逃れたかった。
彰は一〇〇〇万点に挑戦した、だから町野のおにぎりを食べることができた。
僕は彰を助けた。だから町野の下着姿を見ることができた。
そして、もう二度と彰とは行くことはないと思っていた、あの川岸へ降りることができた。
何かをしなければ、当然のように何も起きない。
「やっても報われないかもしれない。しかし、しなければ必ず報われない」
一条さんの言葉が脳裏をかすめた。
一人でできないことなら仲間を探せばいいのだ。ちょうど「UPS」のみんなのように。
彰が一〇〇〇万点に辿りついたときに感じたことと同じだ。
何かをやりとげようしている人間が正しい。そしてそこに辿りついた人間だけが、そのことについて語れるのだ。
「おまちど」
町野が焼きそばができたことを知らせた。
僕と町野は共にここで生きた仲間だ。
僕は、踵をかえしてゲームコーナーを出た。 |
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