部落共同体論 第八回 部落共同体論―形成期の社会構成体と差別の原点

 

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 共同体について本文で詳しく述べるが、これまで日本の部落問題として考察された諸問題を前提に「部落共同体」と言えば、そこには一定の既成事項がある。それは人種や民族問題ではないということ。渡来者の子孫やその技術が混入している可能性はあると思われるが、この問題はこの国の特性、体質から生まれている。したがってこの共同体は、言語あるいは一定の地域環境を前提にした文化や生活形態の差異によるものではない。また、この共同体は、先行的で伝統的ともいわれる農村漁村山村(以下・村落共同体)や、それらの共同体を前提に発展する政治都市や商業都市の諸共同体とは異なって、一定の政治的イデオロギーを契機にして先行的なそれらを母体に形成されている。

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部落共同体論8回

2016/04/1更新

 

【遅れていた第二部を掲載します。これで「部落共同体論」の完成です。全体として原稿を書き進めるにあたって、新しい史料などが発見できてうれしいことなのですが、そのためこれまで発表した部分も加筆・訂正があり、時間がかかりました。また、HP掲載にあたって、加筆・訂正のたびに掲載をやり直すのはあまりに煩雑であり、不可能と判断しました。したがって、掲載文の全体に文脈の乱れがあると思いますが、しかし私の趣旨に変更はないので、このまま掲載することとしました。なお、加筆・訂正し少しわかりやすくしたものは、雑誌『部落解放』2016年6月号〈5月末発売〉から連載しますので、そちらを見ていただければ幸いです】

 

部落共同体論―形成期の社会構成体と差別の原点

 

第二部 部落差別の原点と構造―逆転・対立・差別の構造
目次
はじめに
第一章 仏教の「鎮護国家」の始まりー逆転の構造―
一、蘇我・物部抗争の仏教的背景
二、金光明経の教義と戒律―差別構造の原点
@国王、天皇のための経典
A護国と十善戒、そして差別教義

 

三、女性史の「逆転の構造」―変成男子
四、「法華経」と「仁王般若経」
@非人と鬼霊、屠児、漁師、賣女色と救い
A仁王護国般若波羅蜜多経

 

第二章 共同体内部の差別―差別の構造(中世的職業差別と身分差別の端緒)
一、国家祭祀のイデオロギーが民間に浸透する
二、年中行事と宮座ー清斎と殺生禁断
三、穢を排除する宮座と「イエ意識」
四、村落の宮座と皮田、河原者、芸能者
〔都市的商工的座〕〔奥州・白河〕〔近江・守山宿〕〔播磨・宍粟郡神戸村〕
〔田楽・猿楽・相撲〕
五、農民と斃牛馬と不殺生戒
六、屠者と武士=「屠膾の類」

 

はじめに

 

神仏習合によって、国家仏教の戒律としてより具体的で多くの場合生活に密着する「不殺生戒」―政治的には「殺生禁断」―を基にした罪業・罪穢・輪廻観と、天皇制祭祀の「忌穢・触穢」の両方を一体的に見ながらそれを差別的観念連合と言ってきた。そしてそこから生まれた一定の生態、職種への排斥と差別、しかもそれらの職種職業が「社会的に必要なのに否定する」社会構成体的差別として現代に繋がる部落差別の社会的構造を見て来た。
第二部では、そうした排斥と差別の原点の一つとして、国家仏教の主要な経典「護国三部経」と呼ばれるものを取り上げ、それがどのような教義なのかを見ていく。一方、天皇制による国家祭祀としての「忌穢・触穢」はこれまで多くの場合、その典型として「延喜式」の神祇で規定された「穢忌・触穢」であった。これまで私も取り上げてきたし、多くの研究者が取り上げて来たものだ。したがって、天皇制の「忌穢・触穢」について部落問題で様々に引用されてきたのでここでは要点を指摘することにとどめ、これまであまり取り上げられなかった国家仏教の主要な経典と教義を見ることとする。
とはいえ延喜式の「忌穢・触穢」はこの後具体的事例となるのでその要点を挙げておく。
「忌穢」としては「人死限三十日。産(出産)七日。六畜(牛・馬・羊・犬・猪・鶏)死三日。其喫肉(その肉を食う)三日」。
「触穢」は「甲處有穢(甲所に穢あり)。乙入其處(乙そこに入る)乙及同處人皆為穢(乙と同じ場にいる者皆穢)」(『新訂増補 国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前編』吉川弘文館68p・69p)である。ケガレに触れた者はそのケガレが丙まで続く。これをケガレの三転という。第三者の何人かまでケガレが伝染すると言ってもよい。ケガレが伝染した人は「忌穢」の対象として祭祀に参加できない。これまで私はこうした観念が、主には神仏習合を体現した密教系修験者によって全国に拡散されるとともに、民間の生活に大きな影響を与えた「服忌令」などで民衆に広がったとしてきた(拙書『部落差別の謎を解く』モナド新書参考)。こうした認識が間違っていたと思わないが、ここに仏教の「罪業罪穢」「輪廻」が加わることで一層厳しく根深い「負の観念」となり「差別の構造」あるいは江戸時代の「身分差別」に繋がるのを、改めて知ることとなる。

 

 

第一章 仏教の「鎮護国家」の始まりー「逆転の構造」

 

一、蘇我・物部戦争の背景

 

国家仏教の始まりは、五八七年、用明天皇が仏教を信じて天皇政治に取り込んだ時からだ。神仏習合政治の始まりとも言われる。この始まりは「日本書紀」に詳しく書かれているのでそれを参考とする。
用明天皇が即位して二年目の四月、天皇は疱瘡を患って病床にいた。四月九日に亡くなっている。その直前の四月二日、天皇が「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したい」という。「三宝」とは仏教のことである。この時天皇側近の大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋が相談した。物部守屋は「どうして国神(くにつかみ)<天神地祇の地祇のこと・川元>に背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体このような事は今まで聞いたことがない」と反対する。一方、蘇我馬子はすでに仏教を重んじており、天皇の「詔に従って御協力すべきである」と主張。これをきっかけに「蘇我・物部戦争」と言われる武力闘争が起こり、物部氏が敗北する。
勝者の蘇我側に聖徳太子ー当時、厩戸の皇子ーがいた。彼はこの争いに勝つため仏教の守護・四天王の像を作り、「今もし自分を敵に勝たして下さったら、必ず護世四王のために、寺塔を建てましょう」と仏に願をかけた。蘇我馬子も「諸天王・大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」と願をかけていた(『日本書紀(下)』講談社学術文庫74・75p)。結果として蘇我馬子・聖徳太子が勝つことで、神仏習合の国家仏教、つまり「国家鎮護」の仏教が始まるのである。
ここではまず、そうした国家仏教の具体的経典や教義の内容を知るため、彼らが願をかけた四天王、護世四王、諸天王と大神王を参考にする。「日本書紀」などの原文の漢字を忠実に再現する岩波書店の『日本書紀 下』(日本古典文学大系)の「頭注」はこの四天王を「仏教の守護神。金光明経四天王品・最勝王経四天王護国品によれば、東方は持国天王、西は広目天王、北方は多門天王、南方は増長天王」としている。また、こら諸天王について、金光明経序品にある「『大弁天神、鬼子母神(略)大神竜王』」などと同じで「四天王と同じく仏教を護持するもの」(前掲書164p)としている。
つまりここでいわれる四天王、諸天王は「金光明経」と言う教典によるものなのがわかる。その「金光明経」は正式に「金光明最勝王経」と呼ばれるものである。その教義では、この経典の教義を国王が受持すれば、たちまち国王を守護する四天王「持国天・増長天・広目天・多門天」が現れ、最後に戦に勝つ「最勝王」になれる(『西大寺本 金光明最勝王経古點の国語学的研究』前掲書31p)と説いている。
実際にその効果があったかどうかは別として、仏教を国政に取り入れるかどうかの争いの時、すでに特定の仏教経典が活用されているのがわかるのである。ちなみに、大阪の四天王寺はこの時の願掛けの約束を果たすため聖徳太子と蘇我馬子が建立した寺で、別名「金光明四天王大護国寺」といわれる。

 

二、金光明経の教義と戒律―差別構造の原点

 

@国王、天皇のための経典

 

国家仏教は「護国三部経」といわれる三つの経典から始まる。「法華経」「仁王般若経」そして「金光明最勝王経」である。前二つはよく見聞きする経典だと思うが、最後のものは普通の生活空間ではあまり見聞きしない経典ではなかろうか。
しかし、古代の神仏習合政治では「金光明最勝王経」が最も重視された。そしてこの経典は「日本書紀」など記紀編纂より前に我が国に入っていたと言われている。その時の経典の漢文の原文写真を載せながら、日本語翻訳をする文献『西大寺本 金光明最勝王経古點の国語学的研究』は「金光明最勝王経」について「所謂護国の三部経として尊ばれるに至ったが、就中その国家的色彩の最も濃厚な點を以て、常に他の二経を厭した」(春日政治著作集・研究篇7p)という。
用明天皇の提案によって武力闘争までした蘇我入鹿や聖徳太子が、戦に勝つために「金光明最勝王経」の教義に依拠した様子からも、経典の政治的位置がうかがえるところだ。
「金光明最勝王経」の「最勝王」とは、最高の勝利者という意味であり、各国の王のために、日本では天皇のために創られた経典とでも言えるものだ。ここで説く教義と戒律を諸国の王や天皇がよく守れば、国政はうまく行く、そうした教義である。逆に守らなければ国は亡びる、というもの。もっとも、守れなかった場合、仏の前で懺悔することで許され、やり直すことができる。こうしたところが「金光明最勝王経」の特徴ともされている。ともあれ、この教義と戒律は諸国の王、あるいは天皇が守るべき、とするのが第一義だった。とは言え、現代から言うと、それを守ったからといって簡単に結果・効果が得られるはずもないものであろう。しかし現代とはちがって、呪術的祭祀と政治が一体的であつた当時、体系的な教義と具体的な戒律をもつ仏教的な教義は、結構新鮮なものだったかも知れない。しかもそれらが文字化されていることから、効果がなければさらに効果を求めて、厳しい修行や学習などが求められる。そしてさらにそうした動向が、王・天皇は言うまでるなく、国家のため、あるいは天皇のために出家した僧をはじめ、貴族や地方の行政官など、そしてやがて、その効果を求めて、民衆のあいだに根深く広がって行く。そうした傾向だったのではないだろうか。

 

A護国と十善戒、そして差別教義

 

「金光明最勝王経」(以下「金光明経」とする)が示す教義の主要なところは次のようだ。<>内は川元意訳。
「世尊、若所在の処に是の如き金光明王微妙経典を講<の>べ説かば<金光明経を講ずれば>、其の国土に四種の利益有るベカリケリ。(略)一者<利益の一つは>国王は軍衆強く盛んにして、諸の怨敵無けむ。疫病を離れて、寿命延びて長からむ。(略)二者<二つ目の利益は>中宮の妃后王子諸臣は和悦して争い無けむ。(略)三者沙門婆羅門及諸の国人は、正法を修行せむ<仏教関係者及び民衆がこの教義と戒律を守れば>。病無くして安楽ならむ。枉<よこしま>に死する者は無けむ。諸の福田を悉く皆修立せむ<大地の生命も回復する>。四者三時<インドの三季、熱時・雨時・寒時。又は農業に大切な節季、春・夏・秋>の中に四大<四天王=持国天・増長天・広目天・多門天が現れ>調適ならむ。常に諸天の為に守護増加せられむ」(『西大寺本 金光明最勝王経古點の国語学的研究』春日政治著作集―別巻・勉誠社刊31p〜32p)。
金光明経が鎮護国家の経典として最も重視された理由がわかる部分だと思う。
さらに、同掲載本の「研究篇」では「この経は全部を通して鎮護国家の思想を説いてあるが、殊にその四天王品<本経典の文節の一つ>には、若し国王があって、この経典を流通したならば、護世の四王が來たってその国家を擁護し、以て常に国土を安泰にあらしめる旨を説いてあるのである」(前掲書「西大寺本 金光明最勝王経古點の国語学的研究 研究篇」6p〜7p)と解説するのである。ちなみに、聖徳太子たちが建立した大阪の「四天王寺」とは、天皇がこの経典を流布すれば護国のために現れる「四天王」のことである。
この教義の中で「善行」「戒行」「正法を修行」とは戒律を守ることである。「金光明経」はそれを「十善戒」と呼ぶ。これを守らないのが「悪業」「悪行」であり、すべての効果は逆になる。つまりこの「金光明経」の戒律が国家仏教、強いては天皇制国家の規範だったのである。戒律は次のようだ。
不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫をしない。
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪(ふけんどん) 異常な欲を持たない。
不瞋恚(ふしんに) 異常な怒りを持たない。
不邪見(ふじゃけん) (善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない。(『<仏典講座?> 金光明経』壬生台舜・大蔵出版112p)
「不殺生」が最初にあるが、この戒律以外は、どんな人でも普通の生活で親や教師、友人たちとの交流で身に着くものではないかと思われる。しかし「不殺生」だけは突出した意識的な戒めといえるのではないだろうか。金光明経だけでなく、主には大乗仏教といわれる他の多くの経典と宗派が「十戒」「五戒」などとして戒律を持つが、内容はほとんど同じでありいずれも「不殺生戒」が第一に挙げられる。

また、「不殺生戒」は動物だけでなく人間を対象にした戒律であるが、侍、武士が台頭することで、彼ら独特の「弘法利生」(現生利益)が方便的に述べられる。「不殺生戒」に違反したことを懺悔し、喜捨し、あるいは寺や仏像を建立すること、あるいは「放生会」を行うことで「悪業」「悪行」を免れるのである。
しかしそれでもなお「不殺生戒」の対象になる人々がある。それが動物の殺生である。この場合でも、やはり寺や仏像を建立することとともに「放生会」を行うことで救われる。しかし、動物を積極的に殺害して生活し、生業とする猟師や漁師、神への動物供犠を担う屠者、あるいは「ハフリ」(これはこの後明確になる)など、つまり直接的行為者、生産者は、自分の食料であるとともに、当時はすべて共同体的存在であり、その共同体の生活を維持し、あるいは共同体に賦課される租税として毛皮などを上納するためにも、それを簡単に辞めることは出来ないのである。そのため国家仏教の戒律とそれまでの生活様式との「対立構造」が発生し、長く続くのであるが、だんだんとその行為を辞めるよう迫られることとなり、直接的行為者のそれぞれが人生の岐路に立たされる。また、家畜の屠畜と肉食を特別に禁ずる項目も存在する。次にそれを見る。

 

B「殺生」は救われず―政治的イデオロギー

 

「金光明経」には、「不殺生戒」に直接かかわる人について述べた教義がある。主には家畜の殺生・屠畜、肉食に関するもので「金光明経」の終巻、あるいは「懺悔編」ともいわれる「金光明経懺悔滅罪伝」である。そこでは、次のように述べられている。
「養う所の鶏・猪・鵞・鴨、肉用の徒、みな悉く放生す。家々に肉を断じ、人々善念して屠行を立てず」がその一つである。その意味するところは、食用の家畜をすべて「放生」するよう説き、肉食禁止、屠畜禁止を説いている。
そしてさらに、最後のところで、次のように説く。「一切の衆罪は懺悔せば皆滅するも、唯、殺生のみは懺悔するも除かれず。怨家あって専心<恨むものがあってひたすら>に訟対するが為なり」(『国譯一切経』大東出版社307・308P)である。
つまり、家畜の屠畜、肉食を禁じた上で、「殺生のみは懺悔するも除かれず」と言うのである。金光明経の特徴の一つとして「懺悔」があり、懺悔することで「悪業」「悪行」がリセットされる。金光明経だけでなく多くの宗教がそうした教理をもつと思うが、ここで強調されているのは「殺生」はリセットできないとしていることだ。これは非常に大きな影響をもたらしたのではなかろうか。日本では、「不殺生戒」の一部の対象としての侍・武士には寺や仏像の建立、あるいは「放生会」の祭祀による救いが示されていた。そのために建立された寺や仏像が今も各地に残る。「放生会」も残っている。鎌倉の大仏、あるいは鎌倉八幡宮の放生会などはその典型である。鎌倉八幡宮だけでなく、「放生会」を行う寺社は今でも多い。
この「放生会」とは本来、庶民が捕獲・狩猟で獲得した生き物を買い取って放すものだったが、しかしそれが出来なかった人がいる。手放さなかった人もいるだろう。それは、経済的に出来なかったと言うだけでなく、租税負担などのため共同体や地域の社会的分業、あるいは専業者として殺生を続けた人もいるのだ。つまり、このようにして、社会的価値観が国家のそれと、長い歴史の中で自然と共存しながら続いた地域の文化・価値観が対立した。そのような「対立構造」が各地で起こっていた。
しかも、この時期、日本列島はほとんど無文字文化であり、多くの人は文字文化を自ら理解することはほとんどなかった。その意味で「対立構造」は後の部落問題のみならず、日本人にとって今日も潜勢的問題として残る深刻なものだと私は考える。現代それはダブルスタンダードとして現れていると思われるし、これを根本的に考えるには、沖縄、アイヌ文化と共に、それらの同異をあわせながら和人の間の価値の二重構造、あるいは部落問題などを考察しなければならないと考える。
さて、本題に戻ると、こうした「金光明経」の教義が、当時文字を活用した社会的上位の者、貴族や僧によって、生活観を欠いた記録や随筆、あるいは辞書などに書き留められ、「上意下達」として流布した状況も見逃せない。
脇田晴子はそうした状況を「殺生に従事する者、なかでも『屠児』『餌取』とよばれた牛馬屠殺、斃牛馬処理に従事する人々は、殺生禁断を犯すことの最も甚だしいものとして、指弾されるにいたった」(『部落の歴史と解放運動』前掲書87・88p)と述べる。脇田が指摘する「屠児」はやがて「屠者」とも呼ばれるようになり鎌倉時代中頃には「エタ」と呼ばれるようになる。
仏教では戒律を破ることを「罪」「悪」とする。「悪人」とも言う。一般的にそれは「懺悔」によってリセットされ再生可能であるが、ここでみた金光明経終巻の教義では、懺悔しても救われない人がいる。そして、そうした人が宿業観や輪廻転生観によって「罪業・罪穢」とされたと考えられる。また、天皇制祭祀では「罪」は「穢」と同義である。こうした価値、観念が神仏習合の中で国家を護る「鎮護国家」の政治イデオロギーとなって人々の生活を規制していく。
これが民衆の生活の深く浸透していく具体的な過程は、次の第二章「内部の差別」で詳述する。
金光明経のこうした教義や戒律が流布し、民間に影響する初期的な原因は、金光明経そのものが説く「若し国王があって、この経典を流通したならば、護世の四王が來たってその国家を擁護し」であろう。そしてその教義を読経し、弘法・流布する当初の、そして最大の契機は、七四一年全国に建立された国分寺である。「金光明最勝王経」によって国政をよく運ぶために国分寺が建立され、この経典がそこに配布され、定期的に読経されたのである。だから金光明経を別名「国分寺経」とも呼んでいる。

 

三、女性史の「逆転の構造」―変成男子

 

「金光明経」は女性に対する差別も決定的な影響を与えたと考えられる。金光明経巻二「夢見懺悔品」は次のように説いている。戒律を守らず悪業をした場合にあっても、仏の前で懺悔すればすべての願いが叶うと説きながらも、しかし女性について、その救いがまったく異なった様相になっている。私はそれを女性に対する「逆転の構造」と呼びたい。例えば、天皇制以前は、倭国の女王・卑弥呼のように女王はたくさんいた。「日本書紀」神武東征では、大和に侵攻する場面で「このときにそほの県<あがた>(添県)の波?の丘崎(膚山の崎か)に、新城戸畔という女賊があり、また和珥<わに>(天理市)の坂下に、居勢祝<こせのほふり>という者があり、臍見の長柄の丘岬に、猪祝<いのほふり>という者あり、その三カ所の土賊は、その力に恃(たの)んで帰順しなかった」(『日本書紀(上)』講談社学術文庫・前掲書106p)などとあるが、
谷川健一はこの「猪祝」について「神武帝が大和を平定したとき、(略)『猪祝』という土蜘蛛がいて、強く抵抗したので、殺したとある。猪祝というのは猪を山神として祀り仕える巫女のことであろう。つまりは狩猟民族の神を奉斉する女酋長である」(『賤民の異神と芸能』河出書房新社61p)としている。的確と思う。またここではくしくも狩猟民族、肉食文化をもつハフリ・祝が実在的にしめされており、本稿全体にとっても重要な意味をもつところなのだ。
こうした歴史をもつ女性について、「金光明経」は、その救いを漢文・原文で「女人変為男」(『西大寺本 金光明最勝王経古點の国語学的研究』前掲書39〜40p)としている。「女人変じて男とせり」と読む。この熟語的な漢文は仏教関係の本の中で何回か出会った感じがするのであるが『<仏典講座?> 金光明経』はこれについて「変成男子の思想の流れにあるものである。つまり女人の形では成仏はできない。一度、男子に生まれかわり、その後に始めて成仏できるとする」(前掲書121p)というものなのだ。これは女性に存在を否定するものだ。
「金光明経」にみるこうした思想は多くの仏教教学における女性差別の典型であり、その影響は現代にあっても、あるいはまた直接仏教にかかわらない場にあっても、潜勢的、あるいは下意識的な影響をもっているのではないだろうか。

 

四、「法華経」と「仁王般若経」

 

@非人と鬼霊、屠児、漁師、賣女色と救い

 

「法華経」は「金光明最勝王経」とまったく異なって、民衆、一切衆生に視点を置いている。そのうえで「自利・利他」の教え、悟り=大乗仏教の悟りを説いている。大乗仏教の経典として今でも典型的なのかも知れない。本稿はここで、漢語原文と日本語読み下し、さらにサンスクリット語原典の口語訳が載っている岩波文庫の『法華経』(坂本幸男・岩本裕訳注・岩波書店。以後、当書とす)を参照とする。
すべての人、あるいは一切衆生を救おうとする意図は様々な表現によって様々な局面で語られる。当書「妙法蓮華経序品」冒頭で示される世尊・釈迦の言葉「最高の目的(さとり)に導く入口を教え示し、偉大な道である『正しい教えの白蓮』(サンスクリット語で妙法蓮華経・川元)を、衆生のために、余は説くであろう」(前掲書・上9p)からそうだ。「無量の衆を度脱(すくい)て皆、悉く成就することを得せしめ小欲・懈怠(けだい)のものと雖も漸く当に仏と作らしむべし」(前掲書・中102p)とも説く。こうした中で「非人」の救いも多くの局面で示される。
「諸の天・竜王・乾闥婆(けんだつば)・緊那羅(きんなら)・摩喉羅伽(まごらか)と人と非人等に恭敬(くぎょう)せられ囲遶(いにょう)せらるるを見」(前掲書・中34p)などだ。これは漢語原文にあるもので、サンスクリット語の日本語訳では「八部神衆ならびに人間や鬼霊たち」(35p)となり、漢語の「非人」はサンスクリット語で「鬼霊」と表記される。
この「非人」について当書「妙法蓮華経 注」で「八部衆と同じ」としている(前掲書・上328p)。そして、ここに現れる八部衆は、サンスクリック語の「八部神衆」でもわかるが、日本の『総合仏教大事典』」(法藏館)で「@緊那羅(きんなら)八部衆。A人に対して天・竜・八部・悪鬼などをいう」とされ「仏教を守護する異教」であり、インドで仏教以前の諸神を現わす言葉なのはよく知られるところだ。ここに引用した部分では、八部衆と非人が重複していることとなるが、そうした可能性も含めて、「法華経」ではそれらが排斥されているようには思えない。
金光明経でしばしば強調される「十善戒」としての「不殺生戒」もほとんど語られないが、そうした戒律を否定しているわけではなさそうだ。最初に引用した世尊・釈迦の言葉の解説として語られる阿羅漢(最もよく悟った人・川元)について「完全な自制によって心に迷うことなく、あらゆる心の動きを制御して、六波羅蜜を完成している」としているが、ここにある「六波羅蜜」に戒律がある。当書「妙法蓮華経 注」はこれについて「悟りに到達すべき六種の修行の徳目で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慈をいう」(前掲書 上332p)とする。この中の「持戒」について当書「正しい教えの白蓮 注」で「本来は『戒』の意。これは身体(身)・言語(口)・意志(意)の三者による悪業を避けることをいい、特に身体による悪業とは殺生・?盗・邪淫をいい」(前掲書 上363p)としている。
したがって「殺生」は悪業としてとらえられている。そして当書漢語原文の「妙法蓮華経普賢菩薩勘発品」では、それを「屠兒」(屠児・川元)などと具体的に書いている。次のようだ。「諸悪者。若屠兒。若畜猪羊鶏狗。若猟師。若衒賣女色」。これを読み下して「諸の悪しき者の、若しくは屠る児、若しくは猪・羊・鶏・狗を畜うもの、若しくは猟師、若しくは女色を衒い売るものに親近することを喜(ねが)わざらん」(前掲書 下332p)とし、金光明経ほどの否定はないが屠児、漁師への近親感が持たれていないのがわかる。
とは言えここでは「親近することを喜わざらん」に続けてすぐ後で「この人は心意(こころ)、質直にして、正しき憶念あり福徳力あらん。この人は三毒(貪欲・愚痴・瞋恚<さかうらみ>・川元)のために悩まされざらん。亦、嫉妬・我慢・邪慢・増上慢.のために悩まされざらん。この人は少欲にして足ることを知り、能く普賢の行を修せん」(332p)とするのである。
この発想は平安時代初期の天台宗の僧侶・慈覚大師による「法華経」の解釈とされている(前掲書363p)が、この発想は非常に大切なものと思う。鎌倉新仏教とされる法然や親鸞、あるいは日蓮などに影響を与えたのではないだろうか。私はこの発想に親鸞の「悪人正機説」の源流を感じるがどうだろうか。
とはいえ一方で、先の「賣女色」だけでなく女性一般を悟り」から排除する教義もある。当書「妙法蓮華経薬王菩薩本事品」では漢語読み下しで最も悟りの深い仏・菩薩の世界について「女人・地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の等、及び諸の難あることなし」(前掲書 下174p)としている。これは、地獄・餓鬼など抽象的な存在とともに、人類の生存を男とともに支えている女性について、悟りの邪魔になるから仏、菩薩の世界にいてはならない、とする発想なのである。
だが「法華経」は一方で、こうした「悪業」「悪者」をそのまま救う発想も示している。仏、菩薩の涅槃(悟りを得て生死の苦を超越すること=「広辞苑」)を「滅度」と言うが、このことについて当書「妙法蓮華経如来神力品」は漢語原文で「於我滅度後 應受持斯経 是人於佛道 決定無有疑」とし、読み下しは「わが滅度の後において、応にこの経を受持すべし、この人は仏道において、決定して疑い有ること無からん」(前掲書 下164p)。
ここでの「わが滅度」「仏道」の「決定(けつじょう)」は重要な概念のようだ。「妙法蓮華経 注」で「わが滅度」について「これは十界(迷いの地獄など六道と覚醒に向けた四種・川元)の衆生は、即ち地獄は地獄ながら、餓鬼は餓鬼ながら、本来成仏の妙相であることが、決定という意味である」としている。

 

「法華経」は国家仏教と言いながら、民衆・一切衆生を見ており、そのためであろうか、みずから多様性と柔軟性をそなえた経典であるようだ。とは言え、それでも厳しい差別性を持っていた。それは「法華経」への批判者、誹謗者への対応と言えるだろう。
渡辺照宏は『日本の仏教』において「法華経」の特質を次のように述べる。「すべての大乗経典は、多かれ少なかれ小乗を否定する立場にたつが、『法華経』ほどに排他的、闘争的なものは少ない」(岩波新書184p)と言う。指摘している特質はさまざまな局面で現れると思うが、差別的体質で言えば、次のような場面だ。
当書「妙法蓮華経普賢菩薩勘発品」では法華経を受持する者を軽んじたり誹謗することを「罪」「過悪(あやまり)」とし、そうした言説への応報とも言える事態が説かれる。漢語、読み下し、サンスクリット語訳すべて同じであるが、比較的分かりやすいものとしてサンスクリット語訳を引用する。ここで最高の経典とは法華経のことである。
「このように最高の経典を護持する僧たちを迷わす者たちは、生まれながらの盲目となるであろう。また、このように最高の経典を護持する僧たちの悪口を言いふらす者たちは、この世において、身体に病斑が生じるであろう。このように最高の経典を書写する人々を嘲笑したり怒鳴りつけたりする者たちは、歯が折れたり、歯が抜けたりするであろう。また、忌わしい唇を持つようになるであろうし、低い鼻の持主となるであろう。また、手足が逆となり、眼が逆さとなるであろう。また、身体が悪臭を放ち、身体は水泡や腫物や痂に被われ、癩病や疥?に罹るであろう」(前掲書 下335p)。
このように、法華経の受持者の悪口を言い、嘲笑したり謗ったりする者は身体障害者となり、癩病・ハンセン病者になるとするのである。独善的な排他性であるが、それでも「法華経」を受持すれば救われると説く(前掲書 下335〜336p)。

 

A仁王護国般若波羅蜜多経

 

護国三部経のもう一つ「仁王般若経」は単に「仁王経」とも言われるが、正式には「仁王護国般若波羅蜜多経」(この後「仁王経」とする)である。書いて字のごとく「国王のために国を護る経」である。「波羅蜜多」は法華経でみた「六波羅蜜」とほぼ同じであるが、「六」が「十」になってより多くの「戒」を示すことがある。いずれにしろそこには「授戒」「受戒」があり、それらを含めて修行し悟りをひらいた「仏」や「菩薩」が多くいて、この経を受持し信じる国王を護るという論理である。『日本歴史大辞典』(小学館)は「仁王経」について「律令国家体制の樹立に伴い、金光明経とともに護国経典として国家により重視され、以後仁王会が宮中や諸寺で頻繁に催された」とする。ここに言う「仁王会」は諸国国分寺を中心に、地域諸寺によって行われ、金光明経の十善戒とともに国家仏教が大衆の間に浸透する大きな要因になった。このことは、次の章で改めて詳述する。
仁王経と金光明経の体質はよく似ていると思うが、金光明経が国王・天皇に直接語りかけるのと違って、仁王経は一切衆生を視野に入れた上で、彼らから尊敬され、さらには彼らを領導することができる仏や菩薩が国王を助け国土を護るとする論理構造と言えるだろう。「仁王経」の「護国品第五」の冒頭で次のように説く。
「爾の時に世尊,波斯匿王(はしのく王。インド中部の王・川元)等の諸の大国王に?げ給はく、(略)汝等がために国を護る法を説かん,一切の国土若し乱れんと欲す時、諸々の災難あり、(略)汝等諸王慶に當に(まさにまさに・川元)、此の般若波羅蜜多経を受待し読誦すべし,(略)百の仏像と百の菩薩の像と百の獅子座を置き、百の法師を請して、此の経を解説せしめ、(略)毎日二時にこの経を読誦せしむべし」(『国譯仁王護国般若波羅蜜多経巻下』近代デシタルライブラリー・国訳密教経軌・塚本賢暁国訳402p)。
つまり国王が国を護るために仁王経を受持することは、百の仏像と百の菩薩像を作り、百の獅子座(仏又は高僧の座・川元)を用意し、百人の法師(仏教徒又は出家・川元)を招いて毎日二時に仁王経を読誦することから始まる、とすのである。
仁王経の多くは抽象的な言説と思われるし、そのため教義的な差別が直接説かれることはあまりみられないものの、経典の題名が「波羅蜜多」を大前提にしているのと、具体的な教説の場では金光明経とセットになっている様子がわかっていることからして、そこでは仏教の戒律などは、「語るまでもない」とする状況が想定される、と私は思う。
また、これら「護国三部経」を見ているだけなら、それらが民衆、大衆にどのように影響したかわからないのであるが、さきの「日本歴史大辞典」が指摘しているように、これらは諸国寺院や、あるいは諸国神社を通して、人々の生活や生産活動に広く、深く浸透していくのである。次にその様子を「内部の差別」として詳しく見る。

 

 

第二章 共同体内部の差別ー差別の構造

 

脇田晴子は次のように指摘する。「鎌倉末期から南北朝期、商工業の座、職種別結合の座が組織体として明確に形成される。それは営業独占権の行使によって、職種が確定されるのである。被差別民の共同休も、職種の分化(分業化・川元)は、独占権の行使を前提としている。そしてそれはまた、職業的差別の強化とも結びつく」(『部落の歴史と解放運動』部落問題研究所95p)。
部落共同体の基本的三職種が職業的集団化していく過程は第一部で見たが、ここでは、脇田が指摘する「職業的差別の強化」の具体性に触れることとなる。
これまで見て来たように、戦国時代末期に形成される部落共同体と、それを支える基本的三職種は、ここで言われているように都市的な様々な職種、職業の分化と職種別結合の動きの中で発生している。そしてその動きは「独占権の行使」が前提なのだ。この場合の「独占権」は言うまでもなく、国家体制(公領体系)、あるいは荘園領主、在地領主など、具体的にいうと何かの公的機関、あるいは寺社権現に帰属し、何かの労働力として、あるいは金銭又は生産物の上納などの義務を負うことで成り立つ権利なのである。いわばこれが中世的労働形態といえるものだ。江戸時代によくいわれる「部落の特権」もまた諸職人と同じに、そのように始まっている。
とはいえ部落共同体の場合、本来「同じ職種」とはいえない三職種が一体的なのであり、それが「差別」の論理、「負の観念」からなのも見て来た。脇田はここで、それら三職種が「職種別結合」を強め権利を主張することによって、いわば比例的に差別が強化されるとしている。差別によって同一化された職種であれば、その特権を強調すればするほど差別の強化に繋がることはわかるというものだ。
ところで、そこで言われる「差別」とは何か、三業種を一体的にする「差別」とは何か。その原点はあらかじめ見て来た。しかしそれは六世紀後半に天皇制政治として始まる神仏習合政治であり、国家の治世の一環だったのだ。それがどのように民衆化するのか。「延喜式」の施行に象徴されるように、十世紀以降、それまでの「対立の構造」が崩れ「差別の構造」が始まると言ってきたが、その内実をこれから見ていく。

 

一、国家祭祀のイデオロギーが民間に浸透する

 

鎌倉時代の記録とされる「吾妻鏡」の文応元年(一二六〇)六月十二日年の条に、鎌倉幕府が全国の寺社に発令した祭礼がある。カッコ内は川元意訳
「諸國寺社大般若經轉讀事(諸国の寺社において大般若経を転読すべしこと)」としながら「爲國土安穩疾疫對治(国土の安寧疾病疫退治のため)」。「可被轉讀大般若最勝仁王經等也(転読されるべきは大般若経、最勝王経、仁王経などなり)」。「其國寺社之住僧。致精誠可、轉讀(その国の寺社の僧、清く誠をつくし転読致すべき)」(『新訂増補 国史大系<普及版>吾妻鏡 第四』吉川弘文館刊742p)。
井原今朝男はこの政令を取り上げて鎌倉幕府が「疾疫退治のため祈?を諸国守護人に命じ、諸国寺社に大般若・最勝王経(金光明最勝王経・川元)仁王経等の転読を行うように地頭等に触れ、守護人らの知行所でも実施するよう下知した(『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房196p)と言っている。
これまでの地域諸国の祭礼と国家の関係は主に朝廷だったが、「天下」を統一した武士政治もまた、自然を支配しようとしてきた王政、天皇制の一端に食い込もうとしている、と言えるものだ。
特にここに言う「仁王般若経」転読は、天皇の一代一度の仏教的祭祀であり同時に国家祭祀であった「仁王会」のことで、これを全国の寺社に拡大し、民衆の生活に国家祭祀を浸透させ、天皇制政治を一層安定させようとする、大きなきっかけであった。これを部落問題に引き寄せて一歩踏み込んで言うなら、これまで大きな概念として言われた「延喜式」の「忌穢・触穢」や、鎮護国家として天皇の政治のために導入された仏教の教え、特にわかりやすい「戒律」の「不殺生戒」などが、民衆の生活に浸透していく最大の契機は、天皇による国家祭祀が、地域の、特に自然を対象に労働・採取し、生活してきた民衆の間の自然神・地祇の祭り、あるいは「祖霊」として先祖を祀る祭りに、この国家祭祀が食い込んでくることからはじまる。
こうした歴史的実態を井原今朝男は天皇による「年中行事」と、民間の祖霊神、自然神地祇の同質化ーといってもそれは天皇制国家祭祀が民衆化する現象であるが―として次のように言う。
「中世国家は理念としての安邦治民=儀礼による天下太平、五穀豊穣の実現を国家目標とし、それゆえ年中行事の勤行を重視していたものといえよう。(略)奈良時代の鎮護国家の思想は、律令制解体とともに衰退したのではなく、むしろ鎌倉時代に入って社会の中により浸透し年中仏神事興隆という中で定着しつつあったと理解すべきではないのか(略)。中世の王権は、天皇自身のためだけではなく、天下太平、五穀豊穣という社会や国家のための儀礼をも営んでいたことになる」(前掲書177p)。「年中行事」について『日本国語大辞典』(小学館)は「もと宮中で行われるものを言ったが、後に民間の行事・祭礼を言うようになった」とする。
天皇による国家祭祀が仏教をともなって地域諸国、殊に地域の神社、仏寺、村堂などを通して諸国民衆に浸透する比較的早いものは八六〇年(貞観二年)清和天皇による仁王会の諸国への指令のようだ。「日本三代実録」貞観二年四月廿九日条で次のように言う。
「齋會を設けて仁王經を講じ、京師より起りて爰に諸國に及び惣べて百高坐なりき」「講期日を卜し、法會辰を擇び、朝廷より始めて海内におよび、予め薫染(良い効果・川元)を徹し先に漁猟を禁ず」(『訓読 日本三代実録』武田祐吉・佐藤謙三訳・臨川書店刊86〜87p)というもの。
井原今朝男はここにある「漁猟を禁ず」を「殺生禁断」と解釈している(前掲書183p)。私も的確な解釈と思う。
また、中世鎌倉時代になって鎌倉幕府が諸国の神社に布告した「諸社禁忌」があるが、そこで禁忌の対象とされているのは「産穢・死穢・触穢・服暇(暇は忌と同じ・川元)・五鉢不具・失火・傷胎・妊者・月水・鹿食・六畜産と死」であり、この禁忌が全国の主要な神社に布告され(『続群書類従第三輯』「神祇部」巻第八十・続群書類従完成会706〜720p)、それは当然その末社に及び、さらに地域の小社に及んだと思われる。これら禁忌は個々の神社でより具体的となる。例えば京都の北野神社は「産穢三十日。死穢三十日。触穢甲乙」などと独自な日数など取決めているが、この禁忌の基本が「延喜式」の規定にあるのは否定できないだろう。
また中世中後期になると人の「死穢」を管理排除する「服忌令」が盛んに出される。服忌令は古代律令制の時代から国家的にあったが、中世になると神社が個別に出すようになる。そうした神社のものでより早いのは「日吉社服忌令」と言われており、こそでは「高祖父の項に『服一ケ月、暇十日』」(『近世服忌令の研究』林由紀子・清文堂9p)などと定められると言う。
こうした神社固有のものとして中世社会により広く影響を与えたのが十三世紀に出来た吉田神道の「神祇道服忌令」とされる。この原文の解釈書と言われ江戸時代初期一六四五年に書写された「神祇道服忌令秘抄」が残っていて『続群書類従第三輯』に掲載されている。いうまでもなく人の父母を始めすべての親族の死に関する「服忌」であり、「死穢」の管理であるが、その中に吉田神道の国家的体質が現れる。次のようだ。「神祇道之神事者。一朝の法令也」(前掲書742p)(神祇道であるが、これは朝廷の法令である・川元意訳)。これについて林由美子は、「一神社の服忌令ではなく、ひろくすべての人がこれを尊守すべきものであると宣言している」とする(『近世服忌令の研究』前掲書11p)。
中世から近世、江戸時代を通して神道に大きな影響を与えた吉田神道の服忌令で言う「一朝の法令也」は、古代律令制にあった服忌令はもちろん、それを集約した「延喜式」の「忌穢触穢」が背景なのはわかるだろう。鎌倉幕府の「諸社禁忌」もまたこれら服忌令と均質であるのも考えておかなくてはならない。
林由紀子はこうした服忌令について「その他神社の服忌令の穢に関する規定や、朝廷の服假(忌・川元)制に付随するさまざまの触穢規定を取捨選択して、将軍家にかかわる社参仏参の際に適用しようとしたものともいえるものである」(前掲書55p)とする。的確な認識と思う。つまり、諸社、あるいは寺も含めて、その服忌令が朝廷、あるいは当時の将軍の「穢」の回避の意向によるものなのが指摘されている。これが神仏習合政治の国家イデオロギーとしての「忌穢触穢」「罪業罪穢」の排除に繋がることも認識できるだろう。つまり「穢」を排除することで国家が栄えるというものだ。鎌倉幕府の「諸社禁忌」も同じイデオロギーであり、「ケガレの国家管理」の具体性でもある。
特に服忌令はすべての人に関連するものだ。乳母、親族を持たない人はいないのだから。

このようにして国家祭祀のイデオロギーが民間の神事・祭祀に合流し、大きな影響を与える。これまでも言及したが、それまで民間に神事・祭祀がなかったのではない。しかしそれは国家・天下が対象ではなく、人々はすべて目前の自然環境に対応し、そこからの豊かな恵み、五穀豊穣、山の幸、海の幸、地の幸を願って自然神・地祇あるいはそれぞれの先祖を祀る産土神を祭ったのである。国政への仏教の導入によって、こうした地域の祭祀の多くが呪術的として排斥されるのであるが、それでもそれらが一気に消えるのではなく「対立の構造」が続いた。しかし主には十世紀を境にそれら祭祀の祭司(多くはハフリ)が排斥・差別される傾向が強くなって行く。これは第三部でも述べる。
こうした時期と、国家祭祀が民間に浸透していく時期が、重なっている。その背景を詳細に分析する余裕は今の私にないが、「逆転の構造」から「対立の構造」が生れ、それが崩れて「差別の構造」にいたる、その歴史過程と、「差別の構造」が民間に浸透するプロセスはここでみておかなくてはならない。
「服忌令」がすべての人にとって抜き差しならない状況を生むのはわかると思う。しかしそれだけでなく、「諸社禁忌」が各地神社の祭祀に直接影響したのと同じ意味で、それはさらに各地神社を支え、祭祀を運営する「宮座」、後に「氏子」と呼ばれるようになる人々、その集団に影響してくる。それはより具体的に、人々が定期的に行う「年中行事」を通して現れる。
現代にあっても、生理中の女性は祭りの神社境内に入ってはならないと言う声を耳にすることがある。また現代各地の神事行事の場に「女人立入禁止」と書かれた木札や石碑があるのはよく見かける。「不浄者立入禁」の石碑も結構たくさんある。これらは国家祭祀が地域に浸透する先駆であった。

 

 

二、年中行事と宮座ー清斎と殺生禁断

 

八六〇年清和天皇による仁王会の諸国への指令などをきっかけにして十世紀頃に諸国に浸透し始めたとされる年中行事であるが、地域社会にあってそれを実施する主体は地域の農山漁村町など村落共同体であり、古来から自主的主体的に運営していた地域の祭り、例えば先祖を祀る祭や、自然を対象に豊作や生活の安全を祈願する祭など、私がここまで「自然神・地祇」と言ってきた祭祀に直接結びついてくるのである。
そうした地域の祭祀を行う組織は当然神仏習合以前から存在した。それを平安時代中頃から、「株」とか「座」と呼ぶようになる。本来、祭祀的職能や共同体内分業、あるいは一定の技術を維持する組織として、「血族」あるいは技術をもとにした「株」組織が先行していたと言われるのであるが、当初何かの頂点を中心にした席順のように用いられていた「座」が祭祀組織に応用されるようになり、神社祭祀、神事を行う「宮座」と言う言葉が盛んに使われるようになったようだ。そこで本稿は「宮座」の内実から考える。
肥後和男は宮座の原点について
「一般的にいへば我が国の神社も村落も既に数千年の?史を経過してゐる。よし原古の時代には純粹なる氏神氏人の關係が全般的に見られたとしても(略)文献的に見て宮座の觀念の発生したのは恐らく平安時代の末からであろう。(略)從ってここに多くの氏族が協同して祀る神社、共同して営む宮座も発生せざるを得ないのである。これは大多數の神社並に宮座のもつ性格であるが、その中にもそれぞれの一族が各自の座をもつものと、互に相混じて一座をなすものが存在する」(『宮座の研究』弘文堂52〜53p)とする。
こうした意味で一つの事例を参考に考えてみる。
朝廷の第一義的祭祀としての「祈年祭」は、「延喜式」で最初に挙げられる神祇であり、その祝詞によって「祝部・ハフリ」が神祇官から白き馬・白き猪・白き鶏を預かり、自国に持ち帰って動物供犠あるいは「殺牛馬雨乞」を行うべき役務があったのを先にみてきたが、この「祈年祭」は、本来地域の農民・百姓が自然神・地祇として「豊作」「雨乞」祈願として行っていたのである。このことは既に多くの人が認め論じているので解説はしないが、肥後和男がいう氏族の「座」の原点としての氏族の神社に関連する祭祀の中に「祈年祭」があったのは間違いないところだ。こうした時代背景を考えると、神仏習合による国家祭祀、その中の「殺生禁断」と、地域の氏族の祭祀が対立関係、対立構造にあったのがわかると思う。しかしその対立構造が、ここで示す「年中行事」と、それを行う「宮座」によって崩れていくのである。そして、つまりこれが「差別の構造」が地域社会の村落共同体内部に浸透する最大の契機なのである。
地域の自然神・地祇が国家祭祀、神仏習合の国家イデオロギーに侵される具体例を一つ挙げておく。関東の戦国大名として知られる後北条氏のそれである。高牧實は次のように書いている。
「後北条氏が、伊豆一宮三島神社の祭礼銭を伊豆一国平均役とし、武蔵守護代兼目代の大石氏を臣従させて惣社六所宮造営料を武蔵一国平均役として課したこと、六所宮神官の猿渡氏を被官(小机衆)とし、猿渡氏は後北条氏の神社政策に協力していたこと、後北条氏は、また、鶴ヶ岡八幡宮.など諸大社の造営に尽力し、神国思想を導入して領国経営を進めていた」(『宮座と村落の史的研究』84p)。
短い引用文なので分かりにくいが、要するに後北条氏は戦国大名として地域を支配した時、主要な神社である三島神社と六所宮にいる従来からの宮司を入れ替えて自分の配下を配置して課役をかけ、大社である鎌倉八幡宮などを増築し、その権威に取り入って、中央の神国思想を地域に浸透させ支配のイデオロギーに活用したのである。同じことは各地の戦国大名が行ったであろう。

 

三、穢を排除する宮座と「イエ意識」

 

井原今朝男が指摘しているとおり、地域民間の「年中行事」が、国家祭祀と同質化し、地域が古来から自分たちのため行った五穀豊穣の祈りの中に国家や天下太平の祭祀が組み込まれ、同時にそこに神仏習合政治のイデオロギーとしての「忌穢触穢」「罪業罪穢」が入ってくる。つまり民間の年中行事に穢を排除する社会的構造が生れることとなる。それはそのまま宮座の組織運営に反映された。
宮座とは今日の氏子の原型と考えられており、神主を頂点にして頭屋、氏子などで構成されるが、特に神主には厳しい禁忌があった。そしてその禁忌の中心が「触穢」の禁止だった。これについて肥後和男は「神主はたとひ親戚と雖も葬式に行くことができない」とし、さらに「死を避ける心の強さは生を欲する望のさを示すものであるが、死は更に広くいへば穢れであり、穢一般の中の最大なるものである。(略)そこで死を避けるためには更に広く穢を避けなければならぬ。そこに神に仕へるものが一切の穢れから遠ざかるべき理由がある」(前掲書285p)。肥後はここで神主について述べているが、この禁忌の構造は年中行事としての祭の時間と空間の中で、その神事行事全体、そこに参加する者全員におよぶものであった。
例えば女性について考えるとその様子がよくわかる。鎌倉幕府が諸国に布告した「諸社禁忌」でわかるとおり、「月経」をもつ女性は神事から排除される場合が多いが、宮座の構成員として認められる事例もある。高牧實は「女房座」などがあったのを指摘している。しかし神事行事には参加できなかった。それを次のように示す。
「女性と宮座の問題を検討してきたが、たしかに女房座の事例は少なく、宮座は専ら男性の独占するものであったかにみえるし、女性の血穢・産穢などの問題がかかわっているかのようにみえる。しかし、巫女など女性が祭祀に加わっていることはまぎれもなく、また、(略)伊勢地方の当屋宿(頭屋・川元)の女房が当屋宿から排除されてはいない事例もみられるのである。(略)とはいえ、女性を排除しようとする意識が座衆の間になかったとはいえないであろう。それは、近世における家の主(家長)を中心とした秩序、家の主が座衆であった問題、さらに、村の構成員が家々であった問題と関連して形成されていたと思われる」(『宮座と村落の史的研究』吉川弘文館269p)と言う。これも的確な指摘と思う。
そしてこの指摘は非常に重要だ。女性の「女房座」が宮座の構成要素でありながら宮座の主体ではなく「脇役」であり、女性が神事行事から排除される原因は、宮座を構成する「家」の主体が「家長」であり、それが家父長制に基づくものだと指摘しているのである。宮座が村落共同体の諸個人ではなく、「家」によって構成されていたのはよく知られるところだ―宮座の一つの要素として「村座」は個人の参加があったが―。
つまり、宮座による女性差別は「ケガレの排除」だけでなく、家父長的家制度が原因でもある認識なのだ。こうした排除の構造は、現代にあっても部落差別の社会的要因として日本人の「イエ意識」が指摘され状況からして、それらの差別が同質的で重複するのを示しているだろう。

 

四、村落の宮座と皮田、河原者、芸能者

 

宮座は神主、頭屋などを代表に村落共同体の全員が参加する。その意味で「平等」な組織のように言われる場合があるが、しかし、女性への差別を含めて、その運営には上下があり、しばしば「身分」「階級」も指摘されている。
肥後和男は宮座の上下、身分などを次のように指摘している。宮座は神主や頭屋などを頂点として様々な役職を持つが、それら役職も「神供、神饌、等に関するものは高く楽曲等に関するものは低いのである。更にいへばこれら全部はその上に侍座とか殿村とか禰宜株とか本座とかを頂いてゐることが普通である(略)そこでここに血縁とか地縁とか職能とかの外に身分による座の区別が存することを知る(略)特にそれは武士的なものについてそうであった」(前掲書67p)としている。この武士とは在地領主、戦国大名などのことであり、そこにはすで明確な階級ができていたのである。そうした状況の中、彼らと同じ村落共同体、あるいは戦国時代の「惣村」に共存していた皮田・河原者はどのように「宮座」に参加していただろうか。
本章冒頭で引用した脇田晴子の文章では、鎌倉末期から南北朝期に商工業の座が発達し、寺社権現などとの帰属関係で職種別結合の座による営業独占権が主張されるが、皮革生産者の共同体が独占権を主張すればするほど職業的差別が強化された、と述べていた。しかしそれは主に奈良や京都など、政治経済の中央意識の強い政治、経済都市の傾向であり、地域社会でそれが同じとは限らない。少なくとも戦国大名は皮田を鍛冶と同じに武器製造の技術者として重視している。この時代、つまり織豊政権による分離分断以前の村落共同体、郷村あるいは惣村の中で、中世的差別はどのように現象していたのか、当時の地域で最もはっきりした差別構造、忌穢・忌避の構造をもつ年中行事の宮座を通して、その一部の事例を見ておく。

 

〔地方都市的商工座〕
第一部で見た事例であるが、一六〇八年、分離分断前の近江国甲賀郡の二つの村落共同体を職場にした皮田の職業共同体「郡中惣皮田 」も、経済的意味をもった「株」または「座」の一形態と考えられているが、これも都市的、商業的「座」の事例と言えるだろう。とはいえこの後すぐ始まる兵農、職、商、皮田の分離分断によって始まる部落共同体の前身なのは間違いないところであり、こうした地域都市の職業共同体が、中世的職業差別の構造の中で発生していたのは確かなのだ。宮座ではないが、一つの「座」の形態として見逃してはならないと思う。
次に、そうした傾向が首都から遠く離れた地域社会でどうだったか、少ない事例をみておく。

 

〔播磨・宍粟郡神戸村〕
旧・宍粟郡神戸村(現・兵庫県宍粟市一宮町)の島田村という部落共同体は、江戸時代初期の「村切り」=分離分断以前は、神戸村という大きな村落共同体の中にあった。『兵庫県の地名U』で「島田村」を見ると「寛文三年(一六六三)普請奉行内田加兵衛や代官神部小右衛門らの立会のもとに神戸村から分村した(略)旧領取調帳には神戸村とみえる」となっている。つまり分村以前は共存の時代だ。そして、その島田村に現代もある産土神・七社神社について「産土神は七社神社。弘化三年頃には神戸大明神と称されていた」(日本歴史地名大系29U・平凡社801p) と解説している。
この村に生まれ部落解放運動を続けた亡き稲田耕一は、村に残った古文書や聞き取りで詳細な生活史を何冊も書き残している。その中に「殺牛馬雨乞」について書いたものがあり、第三部「ハフリの世界」で具体的に紹介するが、神戸村に共存していた頃の宮座についても書いている。分村前の神戸村は神戸大明神をもつ島田を含めて五ケ村からなっている。この五ケ村が昔から五穀豊穣を祈る「大神岩」「カンコ岩」「イザ岩」のある聖地が島田の地にある。稲田はこのことについて「大神石には新らしい注連縛がかけられ、水をそそいで清浄にしてある。神部の村の神請人(かみこうひと)たちはカンコ岩の所に集り供物の用意をする。供物の者は捧げ物を持ってイザ岩の所へ行き大神石に向って供物をならべる。供物が終ると神と人の中を取り持つ人、即ち神官がイザ岩の所へ進み、呪文を唱え祈りを捧げる。そして神の告なりと唱する言葉を人々に伝え神事は終る。この神の告を『ことだま』と人々は尊んだ」(『二百足の草履』稲田耕一・播磨国神社縁起研究会・一九八二年)というもの。ここにある「神請人」たちが宮座の構成員なのである。ここに共存時代の皮田の姿がある。

 

〔奥州・白河〕
中山太郎の『座源流考』では旧奥州白河(現・福島県白河)の「白河舊事記」を取り上げて「奥州白河のエタ某が、町の事に就いて大功を立てたことがある。領主が、此の者を表彰しやうとしたが、特殊部落の者とて、沙汰のしようがなく,町人の上座たるべしとの、格式を与へたと云ふことである。此の種の表彰は詮索したならば、まだ此の外にも類例のあることゝ思ふが、今は此の位にして止めて置く」(『座源流考』ウェヴ版・近代デジタル・ライブラリー 日本民俗学〔第一―四〕歴史篇・大岡山書店123p)。残念ながら今私にはこの年代を確定できないのであるが、「エタ」という言葉が使われていることからして江戸時代の事例かと思うが、彼らが町人の座に組み込まれているのは間違いないだろう。この事例はその座の上位に位置づけられた、と理解できる。

 

〔近江・守山宿〕
一五七二年(元亀三)から一五九二年(天正十九)までの守山宿(現・滋賀県)・天満宮の宮座の役務の名簿と思われる六十八人の名を書いた「えぼしの御なおり帳」が、高牧實の『宮座と村落の史的研究』に掲載されている。そこにある商工業名は次のようだ。()内川元。「かちや(鍛冶屋)」「つつや(筒屋)」「うおや(魚屋)」「だいく(大工)」など多くは商工業者であり、その中に「川はた」が三人書かれている(前掲書228〜229p)。これを「かわはた」と読むべきかも知れないが、他のすべては武士などの個人名か、商工業の職業名で書かれているので、その場合「かわた(皮田)」と読むのが妥当と思われるがどうだろうか。もしそうなら、ここにも宮座に参加する皮田がいる。

 

〔田楽・猿楽・相撲〕
高牧實は『宮座と村落の史的研究』において紀伊国伊都郡隅田荘の隅田八幡宮における放生会に参加する神事芸能者や相撲について史料を挙げている。
一三四〇年(建武五)八月十五日の放生会では「田楽頭(猿楽頭)、相撲頭、御酒頭、伶人頭(楽頭)(略)舞童、流鏑馬三番の担当が前年の八月十三日に定められて営なまれる」(前掲書110p)としている。
さらに一三四三年(康永二)放生会では宴の善の予算計上の中に「神子八人八前、けんこ(巫女)五人五前、禰宜一〇人一〇前、舞人九人九前、田楽二前、猿楽二前、相撲二前」などあるのが示されている(前掲書116p)。
このような芸能者は、共同体内に不在の場合、外部から招くこともあった。こうした神事芸能者は、人と神の媒介者として祭に不可欠だったからである。

 

このような事例によって、織豊政権による分離分断の前、共同体内分業として共存していた皮田、あるいは河原者、清目、細工などと呼ばれた人々、あるいは仏教から「淫祠邪宗」とされ排斥されていた呪術的神事芸能者もまた、一定の村落共同体あるいは惣村を構成した他の分業者、武士・農民・職人・商人とともに「座」又は「宮座」の構成員だった可能性は高いと思われる。例えば分離分断の後の部落共同体が、「本村」「枝村」の関係を保ち、本村の祭礼でキヨメ役―神輿の先導や「聖の時空」を形成する役務を持つ事例、あるいは「的射神事」に皮革製品を持って参加する事例や祝福芸なども、共存時代の「宮座」で行っていた役務だったと想定することが出来るだろう。

 

五、農民と斃牛馬と不殺生戒

 

江戸時代初期、三河国の農民が農耕生活を詳細に記した『百姓伝記』(岩波文庫)という本がある。作者不明なのであるが、稲作を軸に五穀耕作の知識、技術、生活環境が当事者の視点で書かれているので、さまざまに活用されて定評がある。その中に「不浄集」という巻がある。その不浄は主に便所や生活排水、ごみ、牛馬や鳥の糞尿などである。その特徴はこれら不浄物を稲作、畑作のためにどのように使うか、その知識・技術を具体的に書いていることだ。そのためこの本の範囲では不浄物を「忌避」していない。それら不浄物を積極的に利用し、土壌を肥やす肥料としている。次のようだ。(カッコ内川元)。
「土民の馬屋は一疋立(一匹飼う)たり共、九尺四方・二間四方にすべし。せまきは徳すくなし。地形よりも馬の立処を三尺も四尺もふかくほりて、つねにわら・くさを多く入、ふますべし」(前掲書上162p)だ。たとえ一疋飼うとしても馬屋を約二間四方にしワラや草を多く入れて踏ませ肥やしを作るのである。さらに「牛馬を野飼にする事なかれ。こやしを野山に捨ては、諸作毛(作物)なりがたし。手間隙を入て、かや・草をかり取、馬屋に入、牛馬にふませ(略)こやしとすべし」(182p)。苦心した伝統がうかがえる。しかし私からすると一つ欠けるもの、あるいは書かれなかったかも知れないものがある。それは家畜としての牛馬の死と、その死体の処理、あるいはその再生の知識や技術である。
牛馬も生き物だ。病気もするし、怪我もする。そして必ず死を迎える。大切に育て、肥料を踏ませ、力仕事もさせた。この牛馬が死んだらどうするのか。しかも牛馬の皮革製品は古代からよく知られる。租税として国家が徴収してもいた。その時の牛馬の皮革製品の原材料は農民たちが飼育した牛馬だった。『百姓伝記』にはそれに関する記録が全くない。なぜなのか。

 

一方全国的に見て、このような場合、都市では比較的早く十二世紀ころから、農村部では地域差があって十五、六世紀から、牛馬の病や死に対応し処理したのが皮田・キヨメ・細工なのである。そこに共同体内分業が成り立っていた。よく言われる「ケガレのキヨメ」がそれである。分離分断の後、それが天下に統一されるとはいえ、農山漁村町皮田の分業関係は基本的に代わらない。これら分業は人々の生活、社会構成にとって必要不可欠なものなのだ。このように必要な社会的分業が分離分断された後の形態を、兵庫県で部落解放運動をする池田勝雄は「共同体間分業」と言う(「共同体論からみる日本型カースト制度」『社会理論研究 第14号』社会理論学会編23p・二〇一三年十二月)。

 

『百姓伝記』の成立が分離分断の前なのか後なのか確定できないが、いずれの時代にしても、江戸時代初期の三河国であるなら、この分業関係、あるいはそまの技能が存在しないわけがない。
このような場合について、つまり農家の死牛馬を処理する技能・分業について、兵庫県宍粟市の旧神戸村の宮座について書いた稲田耕一が『かわた村は大騒ぎ』(部落問題研究所)と言う本で詳しく書いている。そこでは―いや全国同じであるが―農家の牛馬の病気治療や死牛馬処理を皮田が行い、その仕事を「掃除」と呼んだ。 (カッコ内は川元)。
「私の村には死牛馬並びに獣類を解体するための解体小屋と、『掃除』をするための掃除場と二カ所あり(略)又この『掃除』も二種あって、病傷牛馬のいる先方(農家)の厩へ出向いて手当をする『掃除』(外回り)と、村の掃除場へ牛馬を引いてこさせて手当をする『掃除』とあった。 (略)牛馬が死亡した場合(飼主の農民)は一切動かすことが出来ず、皮多頭の差図によって処理したが、息のあるうちは、飼主に処理権があり」としている。
『百姓伝記』の三河と播磨の比較では少し遠いという人がいるかも知れないが、江戸時代の身分制度は職業・身分・居住地が一体化しており、これは全国でほとんど均質なのだ。部落差別の特徴でもある。
引用文で、農家の牛馬が死んだ場合、その飼主が一切手を出せないのがわかる。ここに制度化された「忌穢・触穢」の観念がはっきり現れている。そして、部落差別の観念的原理が、分業関係も含めてこうした現象に見出すことが出来る。

 

稲田耕一の記述でもわかるのであるが、農民は「穢」に触れなかった。なぜだろうか。先の宮座による神事行事でも穢を忌避していた。そこにはケガレにあれることが社会悪であるとする、神仏習合の国家イデオロギーの大きな要因があるものの、実は、さらにその背景として「不殺生戒」「殺生禁断」が、自然を対象として生産活動する人々、特に農民にとって、逃れ難い要因があったのである。五穀豊穣を願うために自然との調和を考える農民にとって、「不殺生戒」は特別のものだったと思われる。例えば、殺生をしたら「天変地異」が起る、と説かれたら、農民ならずとも耳を傾けることとなるだろう。
そして、実際にそうした仏教的思想があり、実行されたのだ。
六七五年天武天皇が肉食禁止と稚魚の保護を布告したのはよく知られるが(『日本書紀 下』講談社学術文庫268p)、この時はその目的などは示されていない。しかしその後いろいろな天皇が布告した「殺生禁止」「肉食禁止」令は、主に天候不順、特に旱魃を防ぐためだったのである。
例えば七二二年元正天皇による「殺生禁断」は、明らかに天変地異が原因であり、旱魃を無くすのためである。その勅は次のようだ。「この頃、陰陽が乱れて、災害や旱魃がしきりにある。そのため名山に幣帛をささげ、天神地祇をおまつりしたが、恵みの雨はまだ降らず、人民は業を失ってしまった。恩赦を行なうことにする。国司・郡司に、無実の罪で獄舎につながれている者がないか詳しく記録させ、路上にある骨や腐った肉を土中に埋め、飲酒を禁じ、屠殺をやめさせ、高齢者には努めて憐れみを加えよ」(『続日本紀 上』講談社学術文庫241p)だ。現実の旱魃を防ぐために布告されているのがよくわかる。
諸国の王は、自然現象を支配する必要があった。いうまでもなく呪術であるが、日本の天皇も同じ自覚をもっていたのである。そうした自覚に立って、天変地異を防ぐのが天皇の徳であり、そのために仏教の「戒律」取り込まれている。これが当時の天皇政治の一つの特徴であろう。そしてそのための人民への「屠の禁止」「殺生禁断」考えてよい。
七七〇年光仁天皇になると少しニュアンスが異なって、「天の意向」に奉仕できなかった自分を恥じている。この場合天の意向とは、生命や天候の順調なことを示すが、その異変が起こった時次のように布告する。
「朕は重い任務を負い、薄い氷を踏み、深い淵に臨むように恐れ慎しんできたが、上は天の意向に先だって時勢に奉仕することができず、下は民をわが子のように慈しみ養うことができず、常に徳の薄いことを恥じ、まことに心に誇れるところがない。衣食を簡約にして身を節し、一曰一日を慎んでいる。殺生禁断の法を国家に立て、罪を赦免する法を朝廷に頒布したが、なおも疫病は生き物を損ない、天変地異は物を驚かしている。(略)天下に布告して五辛・肉・酒を断ち、それぞれの国の寺において『大般若経』を転読させよ」(『続日本紀 下』講談社学術文庫』39p)というもの。
仏教的教義によってこうした禁令が出されたのが分かるのであるが、この光仁天皇の布告は単に旱魃を防ぐための「殺生禁断」と違って、それが「天の意向」として発想されていることが重大だと思う。「天の意向」に添うために「殺生禁断」「五辛・肉・酒の禁止」を布告しているのである。

 

中国の明時代(一三六八〜一六四四)の代表的仏教学者・蓮池大師?宏は不殺生戒に対応する積極的法会として、日本にも伝わった「放生会」を強く広く進めた人として知られる。自然界の生き物すべてに対して殺生の罪を説く七ケ条の「戒殺文」を発表している。その中に「災いを払うのに殺生は不可である。世間では、もし病気にでもなれば、殺生して犠牲を供え、神を祭って、幸福になるように祈る。神を祀って、死を免れ、生を求めんと思つてのことである。そうであるのに、他の命を殺して、自分の命を延ばそうとするのは、まことに、天にさからい、道理にもとること」(『中国仏教全集 三』道端良秀・株式会社書苑445p)とする。これはつまり呪術的な動物供犠を批判しているのであるが、ここにある「天にさからい、道理にもとること」が、「殺生は天の理に反する」とする仏教的思想になって広がった側面がある。「中国仏教全集」の著者・道端良秀はこうした株宏の思想について「?宏の『戒殺放生文』や『自知録』の日本文化に及ぼした影響の大なることは、まことに想像以上のものであることを、ここに附記せねばならぬ」(457p)と言うのである。
中国の明時代は日本の南北朝時代以後に当たるが、ちょうどその頃広く盛んになったとされる日本の年中行事としての「修正会」「放生会」―どちらも仏教の行事―を通してこうした仏教思想が、自然の循環を対象に生産・採取活動する農民、狩猟者に大きな影響を与えたと思われるし、そうだとしたら、これは農民にとって抜き差しならない問題ではなかろうか。光仁天皇の布告と?宏の思想は時代がかなり離れているとはいえ、しかし、両者は類似しており、こうした思想が繰り返し民衆に語られたと言っても過言はない。
「放生会」は殺生の「罪業罪穢」を逃れるために動物を買い取ってでも自然に返す行事であるが、今でも各地神社や寺で年中行事として行われているものだ。そうした祭祀をとおして光仁天皇や?宏の思想が伝承された可能性は高いであろう。そしてその場合、ことに天候に左右されることの多い農民が、その思想を受け入れる可能性が高いかも知れない。

 

先に書いた警察機関の「忌穢触穢」「罪業罪穢」による差別の構造を含め、このようにして神仏習合の国家的イデオロギーとして始まる「不殺生戒」「殺生禁断」が大衆化していくのである。そして私はこの現象を仏教の罪業罪穢を含めた「穢の国家管理」と呼ぶ。その管理は、各地の祭りで唱えられる祝詞の「罪穢を祓え清め」に典型化されると思うが、それは国家祭祀として体系化された年中行事において象徴化され、にもかかわらず人の生命活動として不可避に起こる殺生や死穢など、あるいは人の生殖や誕生に見る穢などを対象にして具体的に処理する「ケガレのキヨメ」を担当する専門的職能者が必要不可欠なのだ。そこに社会構成体的差別が生れ、「差別の構造」を形成する。そしてやがてその構造が世襲的身分と職業・居住地の一体化として近世的な「身分差別」となる。

 

光仁天皇や?宏にある「殺生」に繋がるその自然観、思想は、現代的課題としても無視しても無視できないと思う。そのため改めて私の自然観を述べる機会をつくるが、この時点で一言加えると、現代、自然と人の共生が人類的課題とされる時代にあって、人類も自然の一環にあるのを認識しながら、エコシステム、あるいは生態系として「食物連鎖」は避けられないと認識されている。私もその認識をもち、その上での自然と人の共生を考察する、そうした立場を私は維持している。
とはいえここではさらに、仏教による「不殺生戒」がどのように民衆に浸透していくか、もう少し実態的なところを見て行きたい。

 

六、屠者と武士=「屠膾の類」

 

「屠膾(とかい)の類」という熟語がある。屠者は「和名抄」でいう「屠児」であり「屠膾」は「牛馬を屠(ほふって)その肉を売る者」の意味であるが、その「類」とは殺生をする「武士」を意味する。「宮座」を精神的基軸として自立性を持つようになった農村など村落共同体、あるいは惣村であるが、その宮座は最初にみたように国家祭祀と直結することで成立していたのである。そこに大きな矛盾が生れるのであるが、部落差別の社会的構造から言えば、神仏習合の国家仏教による不殺生戒と対立構造にあった地域の祭祀、自然神・地祇が崩壊して、国家的イデオロギーとしての「差別の構造」が民衆化する契機でもある。
この様子を戸田芳実は、平安時代末期以降の武士と農民の対立として把握している。そしてまた、その対立がやがて、殺生を生業とする百姓(共存する皮田・川元)、あるいは職人でもあった人々を被差別者へ追い込んだ、としている。非常に的確な時代把握と思う。
武士は最初、天皇制王朝国家の諸機関の警備役として現れる。平安時代初期からである。したがって武士同士が覇権を争って戦うことがあっても、彼らの頭上には常に朝廷があったと言えるだろう。そうしたことを前提に戸田は十世紀尾張国の郡司百姓の上申書「解文」を取り上げている。
戸田はその解文が、「公領の田堵百姓らにたいする国司の支配と抑圧と収奪において、国司配下の武士がいかなる役割を演ずるかを如実に示す文書である」とし、「郡司百姓らはこの解文の各所で国司子弟郎従(武士・川元)の行為を弾劾している」そしてその中で国司配下の武士を「屠膾の類」と批判・蔑視しているのである」とし、さらにその内実を「郡司百姓らが国府近辺に集住する国司郎等ら軍事集団を『屠膾之類』と呼んで蔑視したのは、直接には彼ら国司直獅フ武士たちが日常的に鹿狩・?狩・川狩など狩猟.漁労などの殺生を業としているからであった。屠膾の類とは生物を殺してその肉をさきとることを業とする者の意味にほかならないが、かかる意味での武士の集団は騎馬の射手たる武士を中心にして、そのもとに犬飼・鷹飼から賤しい餌取(屠児)までを含むものとして存在していた」(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会137P)としている。
この解文の中には「蔑視」だけでなく、権力を笠にした武士の強権的な収奪・徴税などへの批判があると思うが、それを「屠膾の類」として批判・蔑視したつもりになる郡司百姓(在地の百姓・川元)の精神構造は「屠児」を蔑視の対象とするのが前提であり、それが在地百姓の間で共有できるからこその言語活動である。そうでないとこの「解文」の意味はない。しかも戸田はそこに「生物を殺してその肉をさきとる」「犬飼・鷹飼から賤しい餌取(屠児)」が存在するのを指摘している。つまりそこでは、在地百姓の間にこそ仏教的「不殺生戒」、政治的「殺生禁断」による価値観、私が「負の観念」と言った精神構造が浸透しているのが示されている。
そして戸田は次のように結ぶ。「百姓の現実的利害から生じた武士罪悪視の意識は、他面で勤労生産者として殺生を業とする人々、あるいはその悪報をうけたとみなされる人々を嫌悪し差別する意識の形成.強化へとつながる。来るべき荘園体制下の底辺をなした被差別者大衆を生み出す思想的基盤の一つは、平民百姓と武士との闘争過程の内部において形成されたのではないだろうか、ということが以上の考察から導かれた私の新しい疑問である」(141P)。
ここに現れる農民たちの、共有された差別的精神構造は、都市的と思われた十三世紀後半の『塵袋』にある「キヨメ=エタ=餌取=屠者=人マジロイモセヌ」の
精神構造と同じである。
このようにして神仏習合政治に始まる中世的な「差別の構造」は民衆の中に浸透する。そしてこの構造が分離分断後、近世・江戸時代の世襲的な身分制度に結びつき固定的な「身分差別」へと繋がっていく。そしてそこではさらに、惣村など自立の経済的要件だった共同体内分業が失われ、分離分断によって諸々の職業共同体が共同体間分業として「天下」に支配される構造も生まれている。

 

 

 

 

 

 

川元祥一の著書集