1975年SSM調査とアメリカ留学

戦後日本におけるSSM調査のスタート
 1955年4月、私が東大社会学の大学院に入った時、私が指導教授をお願いした尾高邦雄先生が「社会階層と社会移動」(Social Stratification and Social Mobility, 以下SSMと略記する)を主題とする全国調査のプロジェクトを立てられ、私は先生に言われてこの調査研究のお手伝いをすることになった、ということは前に書いた。社会階層と社会移動の調査とは、日本社会における社会的地位の不平等構造と、その不平等構造の中で個人が移動していく過程を、社会調査の手法によって調べるものである。社会階層とは、人びとの社会的地位の構造を、職業、学歴、所得の三つの指標によって測定すること、社会移動とは、それらの社会的地位の世代内(初職と現職)および世代間(父と子)による移動を測定することである。それらにさまざまな主観的意識に関する項目(階層意識、階級意識)を加えることよって、SSM調査の質問票が構成される。
 当時私は大学院に入ったばかりの最年少者であり、プロジェクトの中での私の役目は書記ということだったから、はじめは調査委員会に出席して議事録をつくればよいといわれ、たいしたことはないと思っていた。しかしその後しだいにプロジェクトが進むうち、イギリスとアメリカのSSM諸文献を読んで社会的地位や社会移動を測定する方法論を学び取ること、学生をオーガナイズして4000サンプルもある質問票の職業のコーディングをすること、そして調査報告書の一部を分担執筆することまでが私の仕事になっていったので、ただの書記といってすませていられなくなった。
 このプロジェクトを創始したリーダーは尾高邦雄先生(故人)であったが、統計数理研究所の西平重喜さんが、研究所の全機構を背負うかたちでキイ・パーソンの役目を引き受けておられた。1953年に尾高・西平の連名で、六大都市を対象にパイロット調査が実施された。これを全国調査に拡大したものが1955年のSSM調査であった。アメリカは国土が広大なので、ブラウとダンカン(Peter Blau & Otis Dudley Duncan, American Occupational Structure, 1967)以前には全国調査はなかったが、イギリスではグラス(David Glass, ed., Social Mobility in Britain, 1954)の全国調査が行われ、日本の第一回調査の前年にその調査報告書が出版された。これは独自の方法論を開発した素晴しいものだったので、尾高先生はこのグラスの編著を絶えず話題にされ、彼らが開発した方法論にいろいろの点で依存しておられた。
 尾高先生は1950年代はじめ、このテーマの調査が世界社会学会議(World Congress of Sociology)に集まった欧米諸国において発展していることを見て取り、日本でSSMの全国調査を行うことをめざして、ロックフェラー財団から研究費を得てアメリカから帰国された。先生は日本社会学会にSSM調査委員会をつくり、調査の実行委員長としてオーガナイザーの役目を引き受けられた。しかし学会理事の調査委員会メンバーたちにはSSM研究の経験者は誰もおらず、林知己夫氏を中心に日本の世論の大規模な全国調査をやってこられた統計数理研究所(数学者たちによる国立の研究所)から西平さんが参加された以外には、具体的に調査作業のできる人はいないという心細い状態だった。グラスの本が頼りになったとはいえ、この本はマニュアルではないから、誰もが手探りであった。何の経験もない私に、単なる書記以上のいろいろな仕事がかぶさってくるようになったのは、このような事情の産物であった。
 1955年といえば、敗戦から10年目、経済白書が「もはや戦後ではない」という有名な言葉を記した、高度経済成長の始まりの年である。当時、日本社会の40%はまだ農民で、その大部分は戦後改革で農地を解放された零細規模の小農であった。1950年代初頭には、農村出身の子弟が都市の企業に就職できる比率はまだ低かったが、朝鮮戦争特需と、企業の技術革新ブームによって、まもなく企業求人の急激な拡大が始まり、中学・高校ごと、地域ごとの一括雇用が行われるようになって、「集団就職」という語がカレント・ワードになった。1955年の一人当たり実質GNPは、戦前の最高であった1934~36年をはじめて上まわった。これらのことは、1955年に日本の第一回SSM調査をやったということが、結果として絶好のタイミングであったことを意味した。
1955年(第一回)と1965年(第二回)のSSM調査
 日本社会学会は、全国に500人規模の会員をもつ学会であったので、学会理事によって構成されたSSM調査委員会メンバーは、みんながこの調査を分担し、それぞれ自分のゼミのメンバーである多数の学生を面接調査員として動員して、全国調査の実査をオーガナイズした。社会学者のほかに、西平さんの努力によって、統計学者も参加した。調査は1955年10月を調査月として進められ、三割ほどの調査不能者が出たのはやむをえなかったが、作業はほぼ順調に進行して、記入済みの質問票が東京に変送されてきた。
 日本社会学会調査委員会編『日本社会の階層的構造』(有斐閣, 1958)と題する、全400ページのうち文章がついているのは100ページだけという表ばかり並んだ調査報告書と、尾高邦雄編『職業と階層』(毎日ライブラリー, 1958)と題する職業構造の解説に重点を置いた本の二冊が、1955年調査のデータにもとづいて出版された。私はそのどちらにも、執筆者の一人として参加することになった。
 このような有意義な調査だから、やりたい人がたくさん集まったと思いきや、実はそうではなかった。日本共産党員であることを公表していた北川隆吉さんという東大社会学研究室の助手が、「SSMはMSA(日米相互安全保障条約)である」といって反対運動を起こしたからである。これは、尾高先生がロックフェラー財団から研究費を得ておられたことと、アメリカの何人かのSSM研究者と親しいということを理由にしたものであったが、これに共鳴した大学院生たちのあいだに反対運動が組織され、院生は私以外に誰も参加しなかった。私はそんなことを問題にもしていなかったが、私がそれに参加していることは、他の院生たち(全部ではなかったが)から非難されたのには閉口した。
 1955年の第一回SSM調査は、これらの出版によってその成果が出されたことで一定の影響力をもち得たが、この時点ではまだ、それ以後10年ごとに全国調査を継続するプランが具体化していたわけではなかった。第一回調査が日本の高度経済成長の開始年と一致したタイミングのよさには、歴史的偶然の要素もあり、尾高先生ご自身は第二回調査以後をどうするかについて計画をもっておられなかった。しかし日本における計量社会学の創始者であった安田三郎先生(故人、当時東京教育大学助教授)が、SSM調査を一回限りに終わらせるのはもったいないと、1965年に第二回SSM調査を計画されたことによって、SSM調査がデータベース化される可能性が開けてきた。私は第二回調査の当時、東大で専任講師であったので、第一回調査に引き続いてこの第二回調査でもお手伝いをしたが、自分自身の学位論文を執筆中であったので、十分なことはできなかった。とはいえ私は、10年後にめぐってくる第三回調査のことを考えないわけにはいかなかった。第一回調査および第二回調査でとられた方式によって、今後のSSM研究を継続していくには、解決を要するいくつかの困難な問題がある、と私は考えた。
 第一に、サンプリング方式の面接調査によって日本全国の実査を行うためには、少なくとも4000サンプルくらいの被調査者数を確保しなければならない。第一回調査および第二回調査でとられた方式では、地点を抽出し(例えば一地点20サンプルとすれば全国で200地点)、各地点の住民票から個人(上記の例でいえば20人)を抽出する。全国の大学の社会学の教授・助教授に依頼して、ゼミの学生に調査員になってもらい、地点ごとに抽出されたサンプルを自宅に訪問して、質問紙法によって答えを得、記入された質問紙を返送してもらう。仮に一人の教授が10地点を受けもち、各20人の学生を動員するとすれば、20人の教授と400人の学生に、多忙な中でそれらの作業をやってもらわなければならない。薄謝はもちろん支払われるが、基本的には大学での教員と学生のあいだの好意の関係が前提とされた。しかしそれだけでなく、全国調査だから全国の社会学者を動員しなければならないが、従来の方式では彼らは質問票の作成に参加しておらず、これが不満の源泉になっていた。第一回調査では、学会がやっているというかたちをとることによってこの無理を押し通したが、第二回調査では学会調査というかたちをとることはできなかったので、僅か数人の委員だけで専門ネットワークに頼りながら全国調査を強行し、一部のサンプルに歪みが生じたように思われた。日本には社会調査を外注によって請け負う調査機関ができつつあったから、私は第三回調査では、実査を外注に委ねる方式に切り替えることが必要であると考えた。
 第二に、質問票に書き込まれた答えをコーディングしなければならない。すべての答えがプリコードされた質問票を作れば、この作業の労を省くことができるが、SSM調査の質問票にはたくさんの職業名(現職、初職、職歴、父職、配偶者の職業など)があり、それらは詳細な分類を必要とするので、職業のアフターコードがどうしても必要である。それらの職業コードには、国勢調査用の280カテゴリーほどある職業小分類を使わねばならない。これらのこまかいカテゴリー化が、職業の分析を困難にしている。ブラウとダンカンは職業カテゴリーを威信スコアによって数量化することにより、職業を計量分析に乗せるという工夫を考え出した。第三回調査では、この方式に準じたものが採用されたが、もちろん職業小分類のコーディング作業は欠かせない。
 第三に、大量のデータの集計と分析をやらなければならない。第一回調査の尾高先生も、第二回調査の安田先生も、SSMデータの分析にコンピューターを導入せず、手集計によってそれらを分析する方式をとられた。日本における計量社会学の創始者であった安田先生が、この時期までSSMデータ解析のコンピューター化を決意されなかったというのは意外であるが、安田先生は相関係数計算用紙をデザインして印刷され、「キミ、データ解析というのはね、こういうふうに舐めるようにやるものだよ」といった調子であった。これにはたしかに、趣味的な問題も含まれていたであろう。しかし分散分析や回帰係数や相関係数は手計算で可能であるとしても、きわめて多数回やるとなれば手計算では処理できないし、重回帰分析や因子分析やクラスター分析になればますますそうである。私は第三回調査において、コンピューター体制を作る決意をした。
 第四に、計量社会学の専門家を養成しなければならない。1960年代までの東大社会学科には、数理統計学を教える専任スタッフはおらず、数学者の林知己夫氏や西平重喜氏に非常勤講師をお願いしていたが、非常勤では計量分析の方法論を訓練するゼミは不可能であった。社会調査法にコンピューターを導入するには、数理統計学の知識・技能を身につけた人が多数いることが前提になる。社会学にそういう人が育っていないため、SSM調査に社会学以外の人を入れてこなければならなかったが、社会学以外の人は社会学の知識が十分でない。だから第三回調査までに、それらの知識を身につけたSSM専門家をできるだけ多数育成し、それらの人びとが調査を集中的に担うようにしなければならない、と私は考えた。
 第五に、高額の研究費を調達しなければならない。尾高先生がロックフェラー財団から得られた研究費は、一回限りのものであった。当時の文科系の文部省科学研究費では、億はもとより、数千万といった高額の研究費は到底望み得ないものであった。第二回調査には、安田三郎氏と西平重喜氏が連名で文部省科学研究費を申請されたが、終始研究費不足の問題がつきまとい、そのため報告書の公刊もなされなかったし、基礎集計表の印刷さえなされなかった。これではいけない、SSM調査が先細りになってしまわないためには、第三回調査では文部省から十分な科学研究費を得る工夫がなされねばならならず、調査チームのメンバーを大幅に広げなければならないと私は考えた。
1975年(第三回)のSSM調査と私のアメリカ留学
 1975年第三回SSM調査のプロジェクト・リーダーの役割は、心配されたとおり、私にオハチがまわってきた。私が前二回のSSM調査の経験をもっており、年齢も40歳を越えたからである。それらの経験にもとづいて、私は上記の五つの問題、とりわけ第三から第五までの問題を解決しなければ、日本のSSM調査は先細りになって、未来はないであろうと考えた。
 しだいに迫ってくる第三回SSM調査を前にして、私はそのプロジェクト・リーダーを引き受ける準備をしなければならなかった。私がまず取り組んだのは、計量分析の方法(統計学)を自分がマスターすること、そしてコンピューター使用をマスターすることであった。自分がまずそれらをマスターしなければ、人にそれらを要求することはできない。私はそれまで東大社会学科の中で理論社会学の研究者であったので、計量分析やコンピューターを学ぶ機会はなかったし、そのような機会は東大社会学科の中にいたのでは望めなかった。安田三郎氏は物理学の出身であったが、私にはそういう経歴はない。1960年代の東大では、大型計算機センターは本郷キャンパスの外に理科系の共同利用施設として作られていた。文科系の人間はよほど自分から求めて出て行く努力をしない限り、その中に入って活動できるような体制にはなっていなかった。
 折から1968年、私は慶應義塾大学から、慶應‒イリノイ・プロジェクトに参加させていただいて、アメリカのシャンペン‒アーバナにあるイリノイ大学に一年間留学する機会を与えられた。折から慶應‒イリノイ・プロジェクトで来日中のソロモン・レヴィーン教授が、私のSSMについてのヘタクソな英文論文をご覧になって、この作業を続けるためにアメリカに勉強に来なさいと仰ってくださり、バーナード・カーシュ教授と慶応サイドの委員の諸先生方が賛同してくださったからである。これは本当に願ってもないことであった。イリノイ大学には大きなコンピューター・ラボラトリーがあり、そこでは「フォートランVI」によるコンピューター入門の講義と実習が行われていた。私はそれらの講義をとり、宿題と取組み、自分が持参した日本のSSMのデータ・カード(当時はまだカードの時代であった)を用いて、私のイリノイ留学のちょうど前年に出版されたばかりのブラウとダンカン(Peter Blau & Otis Dudley Duncan, American Occupational Structure, 1967)の「パス解析」(path analysis)を使った計算を自分で実際にやることができた。
 イリノイ大学の社会学科には、学部に数理統計学の講義があり、大学院に Computer application to sociological analysisと題するゼミがあったので、私はそれらの授業をとる一方、クルマを運転してシャンペン‒アーバナから北へシカゴを越え、SSMの専門家がたくさんいるマディソンのウィスコンシン大学に何度も行って、ハラー(Archbold Haller)、トレーマン(Ronald Treiman)、フェザーマン(David Featherman)、ハウザー(Robert Hauser)など、SSM研究をやっている計量分析の専門家たちと接することができた。彼らは、私がやろうとしていることを説明すると、「ブラウとダンカンを読んだか」と一斉にたずねた。「いいえ、あれは去年出たばかりだからまだ読んでいません」。「それを最初に読むことが先決だ」。さあ大変! 私はイリノイにかえってそれを夢中で読み、ウィスコンシンとのあいだを往復して、彼らに自分が日本から持参したデータ・カードを示して、わからないことを質問した。彼らは親切に答えてくれた。のちにフェザーマンとハウザーは、職業威信スコアを用いたパス解析の代わりに、職業カテゴリーをそのまま使うログリニアー・モデル(loglinear model)を適用する分析方法を開発した(Featherman & Hauser, Opportunity and Change, 1978)。しかし当時は、ブラウ-ダンカンの「パス・モデル」が最新の方法であった。
 新しい知識を習得することは楽しい。イリノイ大学キャンパスでの楽しい思い出は、いまも忘れることができない。イリノイ大学のコンピューター・ラボでは、カードがいくらでも自由に使用できた。キャンパスは冬季には最低零下20度以下に下がり、根雪があって、窓が真っ白に凍りついていた。昼間はラボの駐車場が満員だったので、私はいつも夕食後を利用した。コンピューター・ラボでの作業に疲れると、毎晩のように車を運転して温水プールに泳ぎに行った。1968年当時、このようなことは日本ではまだ到底考えられない贅沢であった。
 これらの経験が、私がプロジェクト・リーダーをつとめた1975年の第三回SSM調査の背景になった。私は帰国後、東大の大学院ゼミで、アメリカで学んだことを講義し、また私がアメリカで読んだ英語文献をテキストにしたが、第三回SSM調査を中心的に担ってくれた直井優、原純輔、盛山和夫、安藤文四郎、今田高俊、友枝敏雄君らの若い世代の諸君(盛山君は当時アメリカ留学中であった)は、私がアメリカへ行って計量分析やコンピューターについて学ぶよりも先に、それらをマスターしていた。
 もちろん計量分析やコンピューター化は、分析の手段にすぎない。それらの手段は、SSMの社会学的分析と結びつけられねばならない。1975年SSM調査で中心的に用いられたのは、それ以前から使用されてきた、世代間と世代内の移動表(mobility table)から粗移動率、強制移動(構造移動)率、純粋移動(循環移動)率を求める移動表分析に加えて、上述したダンカンによって開発された重回帰分析を逐次的に連ねるパス解析の方法であった。
 パス解析は、階層的地位達成(status attainment)が、先行する諸変数によって決定される度合いはどのくらいであるかということを明らかにすることを目的とする逐次的重回帰方程式モデルである。パス・モデルを使用すると、世代間移動と世代内移動の区別を立てる必要はなくなる。父学歴、父職業、本人学歴、本人初職、本人現職は、この順に時間的に並べられ、先行変数が後続変数を決定する度合いが、パス係数(重回帰係数)の大きさによって比較される。現在では、1955年、1965年、1975年、1985年、1995年の五時点データがすべて揃っているから、パス係数の異時点間比較、また同時点での世代間比較によって、父学歴が本人学歴を、父学歴が本人現職を、父職が本人現職を、本人学歴が本人現職を、本人初職が本人現職を、それぞれどのような度合いで決定しているか、またそれらは日本の高度経済成長とともにどのように変化してきたか、という階層的地位達成の変化を知ることができる。
 パス解析は重回帰分析だから、パス・モデルに投入されるすべての変数は、数量化されていることが必要である。学歴は学歴年数によって数量化され、職業的地位は職業威信スコアによって数量化される。1975年調査では、この目的のために、すべての職業小分類について威信スコアを得る職業威信調査が、本調査とは切離されて実施された。しかし職業威信スコアは長期的にほとんど変化しないことが知られているから、1975年調査によって得られた職業威信スコアは、1985年データ、1995年データなどにも、そのまま適用することができる。このようにすれば、パス係数の比較によって、日本の高度経済成長が階層的地位達成のパターンを、どのように変えてきたかを知ることができる。
SSM調査における1975年の位置
 1975年(第三回)SSM調査の報告書は、文部省の出版助成金を得て、富永健一編『日本の階層構造』(東京大学出版会, 1979)として、A5判520ページにのぼる大きな本になった。第一回調査の報告書は表ばかりで文章がついていたのは100ページだけであり、第二回調査は報告書が出なかったのであるから、これは本当に嬉しいことであった。文部省の出版助成金が必要であるという東大出版会の判断は、SSM調査報告書がそうしなければペイしないという考えによるものであったが、この本は思いがけない売れ行きを示し、1995年に第8版が出た。
 この調査の実査は、1973年の石油ショックによって、日本の高度経済成長が突如として終了した直後になされた。しかし高度経済成長の終了によって、日本人の生活水準がただちに悪化したというわけではなかった。当時の日本人の生活水準は、高度経済成長の真最中であった1965年SSM調査の時期よりも、急速によくなっていたと思われる。SSM調査の有名な質問項目の一つとしてあげられてきた「主観的階層帰属」を見よう。「かりに現在の日本社会全体を、上、中の上、中の下、下の上、下の下という五カテゴリーに分けるとすれば、あなた自身はこのどれに入ると思いますか」という質問がこれである。この五カテゴリーのうち「中の上」という答えと「中の下」という答えを合計した「中流意識」は、1955年が42.5%、1965年が56.3%、1975年が77.0%で、1975年まで上昇を続けた。この結果は、1955年以来20年間の高度経済成長の効果が、1973年を越えて1975年まで持続したことを示している。しかし「中流意識」のその後のトレンドを見ると、1985年が71.3%、1995年が72.3%と後退し始めており、1975年がピークであったことがわかる。すなわち、日本人の中流意識は、高度経済成長によって20年間高められ続けたが、この上昇は1975年で終わったのであり、それ以後は上昇が止まっているのである。
 1975年という年を日本の戦後60年(1945年から2005年まで)の広がりの中に位置づけて考えると、そのちょうど中央に位置する。すなわち戦後60年は1975年で二分されるのであり、中流意識の増加がその1975年をピークにして止まったということはきわめて示唆的である。言い換えれば、戦後60年のうち前の30年間は、自分が中流にまで上昇したと感じている人が増えたが、後の30年間は、自分が上昇したと感じている人は増えなくなったのである。ごく大ざっぱな言い方をすれば、前の30年間には日本社会はよくなったが、後の30年間には日本社会はもはやよくならなくなった、と言えよう。
 「よくなる」というのは、自分の暮らしむきがよくなったと思う、という個人の観点に立った主観的な概念であって、客観的な基準によって規定された概念ではない。しかし主観的な観点は非科学的であるとしてこれを排除してしまうことは、自然科学では当然であるとしても、社会学では適当ではない。なぜなら人間は主観的な判断によって、生活がよくなった、わるくなったということを日常生活の中で判断し、そのような判断によって行為するからである。上述した「階層帰属」という考え方も、個人の主観的判断に関する概念である。
 これに対して、社会移動という概念は、客観的な基準がはっきりした概念である。社会移動は、「粗移動」と「強制移動」と「純粋移動」に分けられてきた。強制移動(構造移動)とは、社会移動がなぜ起こるかという原因に着目して、構造変動が生じたことによって強制的に押し出されたり吸引されたりしたことによって起こったと説明される移動である。これに対して純粋移動(循環移動)とは、そのような構造変動効果を除去し、純粋にシステム内的に生じたと説明される移動である。粗移動とは、強制移動と純粋移動を合わせたものである。五時点の調査ごとにこれらの社会移動率を算出してみると、強制移動率は1975年をピークとしており、その前も後も1975年より低いことがわかる。しかし純粋移動は1955年から1995年まで、傾向的に高くなっており、粗移動も同様である。強制移動は構造変動によって引き起こされた社会移動であるから、それが1975年まで高まってきたということは、高度経済成長が強制移動率を高めてきたことを示す。しかしそれが1975年以後低下しているということは、高度経済成長が終了したことによって、強制移動率が低くなったことを示す。これらの意味で、1975年調査は、戦後日本における一つの転換点をなしているということができる。
 SSM調査プロジェクトにおいては、第一回調査のリーダー尾高先生、第二回調査のリーダー安田先生とも、一回のプロジェクトを終了されると身を引かれ、次回のリーダーを次世代に委譲する慣例を作られた。私もこの慣例に倣って、報告書『日本の階層構造』が1979年に刊行され、その翌年にハワイでアメリカのSSRCと日本の学術振興会の共催によるSSM日米会議の日本側を私が主催したのを最後に、プロジェクトから身を引いた。有難いことに、次世代のSSM研究の受け皿としては、この時までにすでに厚い層が形成されていた。コンピューター入力されていなかった第一回と第二回のSSMデータは、次世代の人びとが引き継いでコンピューター入力を完成してくれた。1985年(第四回)調査のリーダーは直井優氏、1995年(第五回)調査のリーダーは盛山和夫氏が、それぞれ引き受けてくれた。コンピューターを自由に駆使できるSSM専門家の厚い層の形成が進んだことによって、SSM調査の参加者は雪だるま式に増加した。調査報告書も、1975年調査では520ページの一冊本であったが、1985年調査では四巻本、1995年調査では六巻本になった。SSM調査は、かくして日本を代表する継続的なデータベースとして、世界に知られるようになったのである。
 1968年のアメリカ留学による統計学とコンピューターの習得から始まった私のSSM研究は、1981年に私がドイツ留学の機会を得て理論に復帰したことによって終了した。しかし私はヨーロッパで、イギリスのSSM研究者ジョン・ゴールドソープ、スウェーデンのSSM研究者ロバート・エリクソン、ドイツのSSM研究者ワルター・ミュラーとカール・ウルリッヒ・マイヤーらと、SSM関連のおつきあいを続けた。私のあと、日本でSSM研究の規模が広がって、現在まで続いてきたのは本当に嬉しいことである。欲を言えば、1979年の第三回SSM報告書が英訳されなかったこと、1980年のハワイ会議に提出されたペーパーが論文集として英語で出版されなかったことが、残念であった。それらが英語で出ていれば、第四回、第五回のSSM報告書も、全部は無理としても、部分的に英語で出版する努力がなされたかも知れない。しかし私の非力によって、それらは実現に至らなかった。またやってくれる人がいれば、ブラウ-ダンカン、フェザーマン-ハウザー、エリクソン-ゴールドソープの日本語訳が出版されると、それらの影響が日本に定着したかもしれない。私自身は、SSMの次に『社会学原理』や『経済と組織の社会学』など、その他いくつかの本を書かねばならないと思っていたので、これ以上SSMに時間とエネルギーをあてることができなかった。残念というほかはない。

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