19世紀
ナショナリズムと帝国主義

<ナポレオン戦争以後>
 ナポレオン失脚後、
タレーランの主張した正統主義にのっとって「ヨーロッパの政治体制をフランス革命以前に戻す」という原則のもとウイーン体制という国家体制でヨーロッパ世界はまとまりを見せました。しかし王侯貴族が国家を支配するという古い政体はナポレオンによって広められた自由・平等というフランス革命の精神と相反することとなり、ヨーロッパ諸国で自由主義を求める市民運動がおこるようになります。オーストリアのメッテルニヒをはじめとした保守主義者たちは反動的な政治を敷いて一連の自由主義運動(ドイツでのブルシェンシャフト運動・イタリアのカルボナリの反乱・ロシアのデカブリストの乱など)を弾圧しますが、1830年7月にフランスで革命がおきて(七月革命)ブルボン王朝が倒されます。そして1848年2月にフランスで再び民衆蜂起(二月革命)がおこり、その余波でベルリンやウィーンでも暴動がおきました(三月革命)。その結果、ウィーン体制を主導していたメッテルニヒはイギリスに亡命し、ウィーン体制は崩壊してヨーロッパの国際体制は新しい方向に向かいます。


<国民国家の形成>
 ヨーロッパの国々は
ナショナリズムをスローガンに、統一された強大な国家を形成するようになりました。いちはやく産業革命を経験して、ナポレオン戦争にも勝利したイギリスはアフリカやインドに進出して世界帝国の道を歩みはじめます。ナポレオン戦争に敗北したフランスナポレオン3世が強力な指導力(ボナパルティズム)を発揮し、産業革命を成功させてアジア・アフリカ諸国に進出するようになりました。

 それに対してドイツ地方では
プロイセン王国オーストリア帝国がドイツにおける主導権争いを展開します。イタリアでもいまだ多くの小国が乱立し、ロシア帝国は自由主義と帝政の矛盾が生じて社会的に不安定な状態でした。

 ドイツ統一を巡る争いは、
ビスマルクの指導のもとプロイセン王国が勝利してドイツ帝国を形成します。オーストリア帝国は1867年のアウスグライヒ(妥協)によってオーストリア・ハンガリー二重帝国となりました。イタリアはサルディニア王国が1861年イタリア統一に成功しました。1853〜56年にかけてロシアは黒海のクリミア半島でトルコに戦いを仕掛けますが(クリミア戦争)、トルコの援軍であるフランス・イギリスの軍に敗れます。ロシアは1861年農奴解放令を出して近代化を推し進めますことになります。

<帝国主義の時代>
編集中

フランス軍 歩兵

ナポレオン戦争を終えたのち、フランスは再び王政に戻りますが、1830年の七月革命、1848年の二月革命を経て1852年にナポレオン1世の甥であるルイがナポレオン3世を名乗ります。ナポレオン3世はクリミア戦争イタリア統一戦争などの対外戦争に積極的に参加して国際的地位を高めますが、1861年メキシコ遠征に失敗してその権威は失墜します。そして1870年に普仏戦争に敗れてナポレオン3世は退位しました。

当時の歩兵は弾丸約100発、銃剣、背嚢,雑嚢、水筒、外套、食器、スコップなどを装備し、総重量は25キロ前後になりました。

フランス軍はナポレオン時代のように青の上着に赤色のズボンを身につけていました。小銃は
「シャスポー・ライフル」を装備していました。この小銃は性能においてドイツ軍の「ドライゼ式撃針銃」をはるかに上回っていました。


フランス軍はまた
機関銃を早くから装備していましたが、大砲と同じように扱ったため、その威力が発揮されることはありませんでした。
オーストリア軍 歩兵

メッテルニヒの主宰するウィーン体制の中心的存在となったオーストリアでしたが、民族主義が吹き荒れる中、多民族国家であったがため様々な問題を帝国内に抱え込むようになります。またドイツの統一を巡ってプロイセンと対立するようにもなりました。

そのプロイセンと領土問題によって1866年に開戦しますが(
普墺戦争)、サドヴァの戦いで大敗してしまいます。わずか7週間で戦争の決着がつきました。これ以降はドイツ帝国(プロイセン)のよき同盟者といった役割を果たしてゆきます。

軍装はナポレオン時代とほとんど変わりません。
ドイツ軍 歩兵

名宰相ビスマルクの鉄血政策によって軍備と国力を強大化させたプロイセンは普墺戦争に勝利したのち、1870年フランスとの戦争に踏み切ります(普仏戦争)。ときの皇帝ナポレオン3世はビスマルクの挑発(エムス電報事件)にのって10万の大軍でプロイセン軍を迎え撃ちますが、セダンで捕虜となってしまいました。パリに入城したプロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝を名乗ります。ドイツの統一はいちおうここで決着がつきました。

プロイセン軍は普墺戦争で後装式の小銃
「ドライゼ式撃針銃」を装備していました。単発式でしたが連射性に優れていて、前装式小銃を持ったオーストリア軍を圧倒します。
頭にはスパイクのついた軍帽をかぶっていました。また軍服の色は出身地方ごとに異なり、バイエルンは水色、ザクセンは暗緑色、プロイセンは暗青色でした。
イギリス軍 歩兵 19世紀中ごろ

ナポレオン戦争の勝利によって世界各地に領土を得たイギリスは、そこを拠点に世界中に植民地を広げて市場の拡大を目指します。1868年から何度も首相になったディズレーリは、スエズ運河の買収や、インド帝国の建設など積極的にイギリス帝国主義を推し進めます。

イギリスの歩兵は"トミー"という愛称で呼ばれていました。
イギリス軍 歩兵 19世紀後半

世界各地で植民地戦争を展開するイギリス軍は赤い軍服は目立つとして、次第に地味な色の軍服にシフトしてゆきます。
19世紀後半から20世紀初頭にかけてイギリスは近代化された最新兵器を持って
マフディーの反乱アフガン戦争ボーア戦争など一連の植民地戦争に勝利します。

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