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©見原みるを
Upload : 02/06/19


第四章


 柚木さんから次の仕事の依頼が舞い込んだのは、それから一週間後のことだった。急な話ですみませんとしきりに恐縮しながら、彼は私に十日程先に迫った大学の発表会での客演を要請した。その辺りに演奏会の予定は入っていなかったし、気晴らしが欲しかった私はすぐに承諾をした。

 次の日授業を終えると、私は打ち合わせとレッスンを兼ねて柚木さんの大学へ寄った。彼が籍を置く音楽大学は、専門学校の時代から数えると百年以上の歴史をもつ大学で、日本は元より海外からも大勢の留学生を迎えている。日本の音楽教育の金字塔として、多数の名だたる音楽家を輩出していることで有名だった。校舎の大半は近年建て替えられた現代風の鉄筋建築であるが、正門を初め構内の数箇所に創立当時の校舎も残っており、百年の風雪に耐えてきたそれは時間が作り出す重厚さを醸し出していた。私の実家も東京で百数十年続いている旧家で、鹿鳴館華やかなりし頃、当時の海王家当主が西洋人建築家に設計を依頼し建てた物だった。その家は修復を重ね今に至っている。そんな環境で育った影響からか、私はこういった歴史の重みを感じさせるものに惹かれるところがある。
 午後の大学構内は、ひっそりと静まり返っていた。古い建物と対峙していると、時が止まっているかのような錯覚に陥る。

 柚木さんのレッスン室は新校舎の一角にあった。
「すみません、お忙しいところお越し頂いて」
「構いませんわ。柚木さんの大学、本当に歴史を感じますね。私歴史的な建造物が好きなんです。冗談でなく、純粋に感動していますわ」
「お気に召していただけて良かった」
 嬉しそうに彼は微笑んだ。
「音大って、もっとあちらこちらから楽器の音が聞こえてくるのかと思っていましたけれど、とても静かなんですね」
「外部から初めて来られた方は、皆さんそうおっしゃいます。それぞれのレッスン室は防音設備が施されていますから、学内は案外静かなものなんですよ。みちるさんも将来ここで学ばれてはいかがですか。あなたなら推薦で入学できますよ」
「先のことは、これからゆっくり考えます」
 それも悪くないと思った。私に将来があればの話だが。

 一通りの世間話をしてから本題に入った。最初に相談したのは曲目。私の弾く曲については、期日に余裕がないので、先日の演奏会の中から数曲をピックアップすることで話がついた。その中で彼はバッハのアリアを提案した。
「あの時のあなたのアリアは実に素晴らしかった。僕はあんな情感溢れるアリアを聴いたことがない。アリアの真髄に触れた思いがしました」
 褒められて悪い気持ちはしないが、彼の感動とは裏腹に、私はあの演奏会で弾いた曲の中で、そのアリアだけが自分の中で納得のいかない出来栄えだった。あの曲だけ調子が悪かったわけでも、思うように弾けなかったわけでもない。ただ弾き終えた後に、奇妙な違和感――それは物足りなさのようなもの――が残っていたのだ。だから私はあの時、アリアが終わった後で深呼吸を入れ、強引に気持ちを切り替えねばならなかった。

「お気に召して頂けて嬉しいですわ。どうもありがとうございます。でも実は私、あの曲だけが何かしっくりといかなかったような気がしているんです。何が不満だったのか自分でもよくわからなくて、上手くお伝えできないのですけれど、アリアだけは今でも何か納得がいかなくて」
 柚木さんはもどかしげな私の説明を黙って聞いていたが、二三度頷くと、「それでは今から合わせてみましょう」とレッスンを促した。

 柚木さんの伴奏で、私はアリアを奏でた。一通り弾き終えた後、演奏会の時と同じ違和感が私の中に残っていた。
 やはり何かが足りない――。些細なことのようで、それはとてつもなく大きなもののような気もした。

 大きなもの――。思考の焦点が一点に合わさり、その人物を浮上させた。天王はるか。私の身体の中にはるかとのアリアが蘇る。無限学園のレッスン室ではるかと一緒に弾いた時ほど、自分が乗ったアリアは後にも先にも他に無く、それはあの日の演奏会でも例外ではなかったのだ。もう一度はるかの伴奏でアリアが弾きたい――、私は漠然とそんなことを考えていた。
 甘美な幻想は負の幻覚にすぐに侵された。私から逸らされたはるかの目線、私を見ようともしない余所余所しさ、ドアの向こうに消えていく二人連れの後姿。
 溜息が零れた。

「みちるさん」
 大きな声で名を呼ばれ我に返った。
「どうされたんですか?もう三度もお名前を呼びましたよ」
「ごめんなさい。少し考え事をしていて。」
「音楽のことですか?」
「えっ?」
「あなたの考えていたことですよ」
「あっ、はい。あの差し出がましいようですけれど、一音づつをもう少し気持ち長めに弾いて頂けないでしょうか」
 私は咄嗟にその場を取り繕った。柚木さんは私の思い付きを何の疑いもせずに真摯に受け止め、「解りました」と頷いて、目の前の譜面に視線を戻した。
 それから何度かアリアを合わせた。私はその都度彼に注文をつけた。彼の演奏を、私の記憶の中にあるはるかのものに近づけるために。しかし結局、その日それは叶うことがなかった。
「すみません。僕はあなたの求めるものが、上手く表現できないようです。もう少し時間をください」
 自分に非があると解釈し、本当に申し訳なさそうに頭を下げる彼を見て、私は胸が痛んだ。

 少し休憩を挟んで、他の曲を選ぶことにした。
「ツィゴイネルワイゼンなんて、いかがですか? あなたの技術力が余すところ無く発揮される曲でしょう。ヴァイオリン科の学生にも良い刺激になります」
「アリアとの組み合わせは、不自然じゃありませんか。それに今回の客演でツィゴイネルワイゼンは、ちょっと嫌味でしょう」
「そっか……」
 彼は心底残念がっている様子だったが、それはどことなくコミカルで、私は沈んでいた気持ちが少し上向いてきたのを感じていた。
「クライスラーなんて、どうかしら。『愛の喜び』や『愛の悲しみ』あたりは誰でも聞き馴染んでいる曲だから、一般のお客様にも喜ばれると思います。動きのある旋律ですしテンポも軽快ですから、アリアと組み合わせるとメリハリがあって良いんじゃないかしら」
「それはいい」
 それから彼は手をポンと鳴らして、
「じゃあ、クライスラーの『愛の喜び』にしましょう。喜ぶ愛が一番幸せだもんな。うん、それがいいよ」
 単純な発想を、それがまるで大発見であるかの様に瞳をキラキラさせて喜ぶ彼を見て、私は思わず吹き出してしまった。
「可笑しいですか」
「ごめんなさい。笑ったりして。でもあなたがおっしゃった理由がなんだか面白くて。柚木さんて、楽しい方ね」
「よかった」
「えっ」
「やっと笑ってくれましたね。今日のあなたは、ここにお見えになった時から何だか沈んでいらっしゃるようだったので、ちょっと気になっていたんですよ。あなたは笑っている方が可愛い」
 余り言われたことのない褒め言葉に、私は顔が火照っていくのを感じた。
「優しいんですね」
「誰にでも優しい訳じゃありません」
 その言葉をどう解釈すべきか、私は当惑していた。居心地の悪い沈黙が流れていた。この空気を早く入れ換えたくて、言葉を探す。先に沈黙を破ったのは彼の方だった。

「僕じゃ駄目ですか?」
 私は彼の言葉の意味するところのものが、咄嗟には理解できなかった。戸惑う私に彼は続けた。
「一人で苦しまないで下さい。あなたが辛い時や悲しい時、僕はあなたの支えになりたい」
 その瞬間、思いもよらない出来事が起きた。私の瞳から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出て来て、頬を濡らした。水がいっぱいまで入れられたコップの中に、ほんの一滴水を落とすと、それまで表面張力で辛うじて持ち堪えていたコップの水は、その僅かな刺激でコップから溢れ出す。彼の言葉は、そんな一滴だったのだ。
 泣くまいと思えば思うほど、涙は止めどなく溢れてくる。それが愛の告白なのか単なる同情なのか考えている余裕は無く、嬉しいのか悲しいのかも解らず、流れるものを止める術もなく、私はただ泣いていた。そんな状態でも泣き顔だけは人に見られたくなくて、俯きながら口許を押えて、私は嗚咽に耐えていた。小刻みに震える私の肩に、彼の手がそっと触れた。
 私の身体はそのまま彼の胸の中に引き寄せられた。背中に回された掌が、私の背中をそっと撫でる。まだ震えは止まらない。その腕に力を込め、彼は私を強く抱きしめた。彼の胸に顔を押し当てていると、その心臓の鼓動が聞こえてくるようだった。それは私のものだったのかもしれない。頭の上の方で再び彼の声が聞こえた。頼もしく、力強く。
「みちるさん、あなたが好きです。初めてお会いした時から、ずっと好きでした。芸術家としてのあなたを尊敬する以上に、一人の女性としてのあなたが好きです」
 今度ははっきりとした愛の告白だった。解ったのはそれだけだった。頭の中が真っ白になり、この状況にどう対処してよいか解らず、何かにすがるように顔をあげた。そこで私を待っていたものは、私に注がれる痛いほど熱い眼差しだった。それは慈愛に満ちていた。彼の顔が近づいてくる。その唇を、私は目を閉じて受け止めた。
 彼の口づけは、その穏やかな性質とは対照的に情熱的だった。唇をこじ開けるように挿し入れられた彼の舌が、私の舌を逃すまいとするかのように、私の中で激しく蠢いていた。私もそれに抗うことをせず夢中で彼を求めた。今思えばそれは正気の沙汰では無かったが、この時の私はそうせずにはいられなかった。
 唇を離した後、もう一度彼の胸に顔を埋めると、耳元で甘い囁きが聞こえた。

 みちる、愛している――。

 それが、静か過ぎる午後の出来事だった。

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