福博の街に秋の訪れを告げる

新たな季節の訪れは”秋祭り”とともに…日本の秋がもたらす恵み…美しい日本の秋にとこしえの祈りを込めて…生命、秋の実りに感謝する季節

 

 

 

 

秋来ぬと目にはさやかに見えねども    風の音にぞおどろかれぬる       古今和歌集 藤原敏行

命をいつくしみ チャンポンの音色に秋を知る

博多祇園山笠、博多どんたく港祭りと並ぶ九州の三大祭り

ナシもカキも放生会 (ほうじょうや)

9月12日〜18日

秋になると筥崎宮の放生会です。9月12日から18日まで……。1週間でおよそ150万人もの人出で、たいへんなにぎわいです。

よい季節にいいお祭りで、どんたく、山笠と、博多のお祭りの締めくくりが放生会です。

「放生会」のいわれ

「放生会」は、福博に秋の訪れをつげる秋祭りで「博多どんたく」「博多祇園山笠」と並ぶ博多の三大祭りのひとつです。この祭りは、万物の生命をいつくしみ、殺生を戒める神事で八幡信仰が広がるにつれて、各地の八幡宮で催されるようなり、「ほうじょうえ」と呼ばれていますが筥崎宮の「放生会」は「ほうじょうや」とよんでします。藩政時代は、祭りの間地元の漁を禁じたといいます。

 

放生会の御神輿行列は隔年(次回は2011年)に実施され9月12日がお下り、頓宮で泊られて14日がお上りの日。
 9月12日、錦旗、清道、絹傘などに守られて、神輿はゆるりゆるりと馬出、千代、吉塚、箱崎に下がられ頓宮へ。お上りは、逆コースになり頓宮から箱崎、本宮へと向かわれ午後9前に宮入り。 お上りは御神幸の距離も短くなるが、一の鳥居近くから楼門前まで、百数十メートルを神具、神輿とともに全力疾走。御神幸年の呼び物になっているがその淵源は明らかではない。参道を埋める黒山の観衆が見守る中、この奇習ともいうべき迫力満点の駆け込みが行われる。ちょうど季節の変わり目に行われる祭り。境内になんとなく哀愁を感じさせる初秋の浜風が吹き、博多の夜が深けてゆく のです。




現在は、18日の午後3時に鳩を境内に放つ儀式が行われていますが、これがいちばん大事な神事です。戦前は境内の放生池に亀を放ちました。戦後ひところ、スズムシを放ったこともあります。

 

また「ナシもカキも放生会」といわれるように実りの秋を迎え、山の幸、海の幸に感謝するお祭でもあり、境内ではハトや金魚を放す方生神事が行われその歴史は古く、延喜19年(919年)より千年以上も続いてこの地がいかに古くから開けていたかが分かります。世の中が落ち着いた江戸時代、筥崎宮は福岡藩主・黒田家の心のよりどころともなり、放生会は一段と盛んになりました。明治の神仏分離で放生会は「仲秋会」と改められましたが、福博の人々は以前通り「ほうじょうや」と呼び続け、これに応えて戦後、ふたたび「放生会」の名が復活しました。参道には七百件近くの露店がギッシリと並びます。

明治以降だいたい筥崎の放生会をメドにして、700軒くらいの露店が全国から集り立ち並びこれは西日本随一の露店数です。


ここから各地に散って次々に秋祭りを彩るわけで、秋祭りのトップで最大のものだといえます。

 

筥崎八幡宮

平安時代のはじめ、延喜21年(西暦921年)醍醐天皇はご神託により大陸・玄界灘に面したこの地に国家鎮護のため壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923年)御祭神を移し祀ったと伝えられています。祭神は八幡大神(応神天皇)及び応神天皇の母である神功皇后、そして玉依姫を祀っています

本宮は、筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つといわれ鎌倉以降は武神として武家の尊崇を集めました。

本殿の正面には「敵国降伏」と少々穏やかならぬ額が掲げられています。

特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名です。

一の鳥居は黒田長政、この形式は全国で一つだけですから、国の重要文化財になっています。

楼門は小早川隆景、ご神殿、拝殿は大内義隆で、結局、三代の筑前の支配者が、並ぶ形になります。為政者の信心の深さとは別に、政治的にお宮にそういういいものを奉納することによって、お宮を通じて領地の民心をつかみたかったようです。

 

筥崎宮は、その社伝によると、現在の場所に鎮座したのは延長元年(923)です。それまでは、今の嘉穂郡の大分(だいぶ)という山の中にあり山の中で、川も海もなく、放生会に便利が悪いということも一つの理由になって、今のところに移ったということです。それまでも延喜19年(919)いらいちゃんと行われています。

神功皇后が応神天皇を産んだ後、その胎盤(御胎衣=おえな)を箱に収めて埋め、そこに松を植えた「筥松」が本殿のすぐ脇にあり、この筥松のある岬ということで、「筥崎」と呼ばれるようになったといいます。

御胎衣=おえなの箱が流れ着いたのがちょうど年の暮れで、その箱を埋めたりして忙しく、餅をつくことができない。そこで、正月に餅のかわりにナマコを食べたということです。そういう伝説から、今でもナマコ餅という行事が大みそかにあります。昔は夜おそくにやっていたのですが、今は夜9時からで箱崎の氏子が境内に集まって餅をつく。ついた餅をこねる場所まで運ぶのに、5人くらいで長い樫の棒の先に支えて持っていくのですが、途中で落としたら、その年は不漁といいます。うまく持っていき、ナマコのようにこねて、それを筥崎の神さまに供えて新年を迎えます。

筥崎宮は、表参道がそのまま箱崎の港まで続いているように、海と深い関わりを持っている神社です。古代から中世にかけて大宰府の外港として、中国や朝鮮半島との貿易の拠点ともなったようで、『今昔物語集』などには箱崎の賑わいが描かれています。中国や朝鮮半島と近いがために元寇(モンゴル帝国の侵入事件。1274年、1281年)の際に社殿が焼き払われ、このことからも、筥崎宮は良くも悪くも海外との接点となった神社といえるでしょう。

鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大社の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。

正月の十一日に承天寺のお坊さんが筥崎宮に参って、お経をあげる儀式筥崎諷経(ふぎん)」【聖一国師報賽式】があります。

 

 

方生会一口メモ

「 幕だし 」

昔、放生会には町家の人たちの幕出し(まくだし)というのがあって、博多らしい情緒でした。

大正末頃までは箱崎宮一帯は松原に囲まれていて、 博多人たちは、商家や町内の単位で放生会に繰り出し、松の枝に思い思いにデザインした幕を張り巡らし料理や酒を持ち込んで騒いだそうです。

筥崎八幡宮で秋に行なわれる放生会(ほうじょうや)はマチの人々にとって最大の休日であり、娯楽でした。

町内、商店ごとに長持ち(ながもち)にごちそうや食器を詰めて、若い衆が肩にかついで、ずうっと博多の町々から箱崎松原まで繰り出していく。大正の半ばごろまでは、十里松とか千代の松原とかいって、みごとな松が並んでいました。

藩政時代の幕出しのにぎわい

文政4年(1821)脱稿の筑前名所図会

石堂川(御笠川)にかかる石堂橋を渡ると、お宮まで一本道ですから、その長持ちをかついだ列が後になったり、先になったりしながら続きます。ところどころで一服して、町内ののど自慢が長持ち道中の唄を披露したそうです。

長持ち道中の唄は、今でも保存され博多の古い民謡の保存会・那ノ津会の人たちが唄い継いでいます。

「梨も柿も放生会」といい習わされ、1年の楽しみをこの日まで残しておくという風習があったそうです。

ごちそうのメニューは、堺重という組み立て式のお重箱に糸ごんにゃく、がめ煮、このしろと大根のおなますなどでした。

幕出しが町内の融和、連帯感を育てるのに非常に役立っていました。

その後、松が枯れ、昭和初期に電車が通るようになって姿を消してしまいましたが、
博多の古き良き風習を残そうと活動している博多町人文化連盟によって、1974年に復活されました。

「千代のナーエー 千代の松原」―。多くの参拝者でにぎわう「筥崎宮放生会(ほうじょうや)」(福岡市東区箱崎)で14日、博多町人の心意気を伝える「幕出し」が行われ、博多町人文化連盟(長谷川法世理事長)の会員が着物姿で参道を歩き、放生会参りの「博多長持唄(うた)」を披露 し今では恒例の行事になっています。

千代のナーエー

千代の松原 月さへおぼろ

名島ナーエー名島名どころ

エー 波の上にナー

 大正時代、放生会の期間中に博多の人々は、家族、店、町内で寄り合って幕と炊事道具を入れた長持ちを担ぎ、筥崎宮へもうでた。社前の松原に幕を張り巡らし、終日宴を開く、この秋のレクリエーションを「幕出し」と呼 ました。

 

放生会着物(ほうじょうやぎもん)

戦前の放生会の話を聞くとそれはにぎやかで派手だったようです。

 放生会着物(ほうじょうやぎもん)といって7月の山笠に出た旦那衆が、

山笠でいろいろごりょんさん(商家の奥様)に

お世話になった慰労に着物を買ってあげる習慣があったそうです。

幕出しのとき、男衆は飲み食いして騒ぎ、女衆は着飾るわけで“放生会ぎもん”と呼ばれ、このときに着物をいっせいに新調する。ちょうど衣替えの季節でもあり娘のいる家などは、通りからちょっと見えるように、廊下にずらーと着物を掛けて飾っていたそうです。年ごろの娘のいるところなど、嫁入り縁談の示威運動も兼ねていたのではと伝えられています。

博多の男にとって、その放生会ぎもんを妻や子供たちに買ってやれないというのは、最大の恥とされていました。福岡市内の呉服のほとんどが売れてしまうほどだったらしいです。明治のころは1年の呉服の売り上げの半分ぐらいが、放生会ぎもんで占められたと聞いています。「人を見るなら宰府の祭り、衣装見るなら放生会」ということわざもあったそうです。

その放生会の着物は、夏物は着たらだめで暑くても、放生会からは単衣を着なければならないと伝えられています。

幕出しでの女性たちの楽しみは、もっぱら晴れ着を着ることで若い娘など、晴れ着を2回も3回も着替えて、浮かれて遊んだといいます。社会的にみて当時は主婦とか、嫁入り前の娘は、戸外に出るチャンスは少なかった時代ですから、楽しいレクリエーションだったのです。

 

「 新ショウガ 」

昔、箱崎の農家ではショウガを栽培しており、採れたばかりの新ショウガを露店に並べた。

放生会に博多のものが、忙しくて参られないときは、近所の人が行ってきたおしるしにと、あの葉のついた新ショウガを買ってきて配ったそうです。

以来、濃い緑の葉がついた新ショウガは、博多の秋に彩りを添える”必需品” なのです。

 

放生会の青空に爽やかな音色を響かせる

「 チャンポン 」

喜多川歌麿の浮世絵「ビードロを吹く女」が、

記念切手になったのが昭和30年この”ビードロ”がチャンポンのこと。

ラッパのように、吹いたり吸ったりすると、薄い底がペコペコと音を立てますが、あれをチャンポン、チャンポンと聞いたのですね。耳で聞いたのだから、戦前にはチャンポンという人とピンポンという人がありました。同じおもちゃが江戸にも伝わって、歌麿の描いた浮世絵に「ビードロを吹く女」というのがあります。「ポッピンを吹く女」と呼ばれた時期もありました。ポッピンというのは江戸の言い方で博多は、チャンポンとピンポンです。音のおもしろさがうけたようです。

戦後、小川勝男さんが復活されて、マスコミがチャンポンと統一して呼んだから、ピンポン説は消えましたが、お年よりのなかには、ピンポンという人が、今もおられます。
 

ギヤマンあるいはビードロと呼ばれるガラス自体が大へん貴重なもので高級なもので、幼児に買って与える、いわゆるおもちゃではなく10人お参りに行って10人とも買えるような値段ではなかったようです。

ポコペン、ポコペンと愛らしいメロディーを奏でてくれます。

チャンポンは中国から伝来したガラス細工玩具で、ビードロ、ポッピンと呼ばれ江戸末期に流行り、

放生会で売り出されたと記録がありまが、大正時代にいったん姿を消しました

その後、昭和46年小川勝男さんの手で再び放生会に復活しました。

6月より筥崎宮の巫女(みこ)さんの手によって絵付けが始まります。

天保3年(1832)、福岡の上名島(いま中央区舞鶴)の醸造元・小川宇平がガラス製造を始めたのがそもそもの起こりです。放生会にはチャンポンを卸して人気を集め「びいどろ屋宇平」と呼ばれました。チャンポンは、あまりたくさんはつくれないこともあって、放生会にだけ卸したので、たちまち名物として喜ばれ昔は、1メートル以上の大きなものもあったそうです。

 

「 放生会おはじき 」

近年、放生会で人気を呼んでいるのがこの「放生会おはじき」です。
おはじきは直径2cm程の土を素焼きしたものに色付けを施したものです。

 

「放生会おはじき」は博多人形とまったく同じ工程で製作され小さなおはじきでも感動を与えられるようと博多人形師の団体「白彫会」により昭和54年から毎年テーマを変えて会員のひとりひとりが一つ一つ心込めて描いています。

 

放生会行事日程

九月拾弐日 午前 0時 初日祭
午後 6時 お神輿行列(おくだり) 約8キロ、4時間の大行列

ご神幸は2年に1回行われ、 次回は2011年

九月拾参日 午前10時 朝御饌祭
午後 1時 献菓祭
午後 3時 夕御饌祭
九月拾四日 午前10時 朝御饌祭
午後 1時 夕御饌祭
午後 3時 博多町人文化連盟幕出し
午後 7時 お神輿行列(おのぼり) 約2キロ、1時間の大行列 基本的に「お下り」の逆を行くが吉塚駅方面には行かない
九月拾五日 午前10時 放生会大祭
午後 3時 献華祭
九月拾六日 午前 9時 五日祭
午前11時 献茶祭
九月拾七日 午前10時 六日祭

九月拾八日

午前10時 納祭
午後 2時 放生神祭

稚児行列、童児育成祈願祭の後、鯉の放生、鳩の放生等が行われる。

筥崎八幡宮大祭
福岡市東区箱崎1−22−1

放生会のあと社日祭が続きます博多のものにとっては、社日祭も大切で、このときのお潮井(清浄な真砂)がいちばん効き目があるそうです。
社日というのは、春と秋のお彼岸にいちばん近いつちのえ(戊=土の兄)の日です。年に2回ありますが、放生会のあとが秋の社日です。放生会のあと1週間目ぐらい、遅くても20日目ぐらい。暦で決まるので、必ずしも一定していません。おもしろいのは、中風にならないからと、社日ダコといってタコを食べる風習があります。明治の末ごろ、煮出し屋をしていた博多奥の堂(御供所町)にいた小平(こへい)という人が放生会に、台風で海岸にタコが打ち寄せられているのをみてさっそく、これを社日に売り出そうと思いつくのですが、ただ売ってもつまらないので、「社日ダコを食べたら中気にならない」とキャッチフレーズをつけて売り、大当たりしたという話があります。

箱崎は電車通りを境に、近年まで海の岸側が浜部といって漁村で、岡部の方が農村。タコが浜部の、ショウガが岡部の名物だったようです。

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