箕子朝鮮              

 

「箕子」

 姓は子、名は胥余(しょよ)。商王朝最後の紂(ちゅう)王の叔父。官職は太師(後世の宰相)。封国が箕(山西省大原市太谷県)であることから箕子(きし)と呼ばれる。箕子の子を商の王族の姓だとする説もあるが、子箕ではなく箕子とされることから、孔子、老子、荘子、孫子などと同様に一般的な尊称だろう。

 周によって滅ぼされた商王朝の遺民は各地に分散させられるが、箕子を尊敬する周の武王は箕子を臣下とせず、諸侯として朝鮮国に封じたとする伝説がある。これが箕子朝鮮だとされるが、八百年後に到るまで中国の史籍に一切登場しないことから、通説では伝説上の国家だとされる。箕子の時代に遡って、この点を考察してみよう。

 

「商(殷)」

 国号は商(しょう)。商の漢字は、女性の股を象意する「内」、女性の生殖器を象意する「口」をもって成立しており、おそらく女神信仰をもった民族だったと推測される。

 かつては山東省から江蘇省の辺りにいたと解釈されたが、商文化の伝播経緯から考えて、河北省を拠点として農業を発展させた部族で、領域拡大のため南下し、他部族を服属させたが、帰服した部族を奴隷にせず、開拓入植させる作邑(さくゆう)という画期的な支配制度を採用して強勢になったとする説がある。

 ちなみに、邑(ゆう)というのは四方を城冊で囲んだ領域(村=国)の意味。

 強大となった商族の首領「湯王」は鄭州商城(河南省鄭州市)を築き、夏王朝を滅ぼして亳(河南省偃師市)を都とした。その後、何度か遷都を重ね、盤庚の時代に殷墟(河南省安陽県)に遷都し、滅亡までの約三百年間の都城としたことで殷(いん)王朝とも呼ばれるが、商の人々は殷墟を「大邑商」と呼んでおり、殷の呼称は周王朝によるものと思われる。

 組織体制は大邑・族邑・属邑(小邑)が結びついた連合体で、大邑は王城、族邑は血統単位の集落国家である。商代初期の王城遺構とされる鄭州王城は奈良時代の藤原京を凌ぐ規模があり、大邑内には祭壇、骨角器や陶器の製作所、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあった。

 紀元前11世紀頃、周と羌族を中心とする西方の部族に牧野の戦いで大敗し滅亡した。

 

『新華社通信』2004722日版

「中国の考古学者が商代最初の都城とされる河南省の偃師商城内で、大規模な人工池の遺跡を発見し、商代の帝王の池苑が確かに存在していたことが実証された。『史記』には商の紂王(ちゅうおう)の『酒池肉林』の記載があるが、発見された池は研究の結果、史籍の記載に近く、商代の帝王の娯楽に供された『池苑』であるとされた」

 

 商の最後の王は紂王(帝辛とも)。「酒池肉林」の故事を残したほど酒色に溺れて王朝を滅亡に導いた元凶とされるが、中国王朝の正史は儒教思想が根底にあり、教祖の孔子が殷の三仁(さんじん)と尊称した箕子らは有徳の賢者とされ、易姓革命は王の徳の衰退によって生じるとする終始五徳論からも、紂王は悪逆非道な不徳の王にされた可能性がある。

 

「殷の三仁」

 紂王の叔父にあたる「比干、箕子」、異母兄の「微子啓」、この三人の尊称である。

 三人は紂王を諌めたが、比干は紂王に虐殺され、微子啓は商の祭祀の神器を抱いて周に亡命、最後に残った箕子にも危機が迫り、狂気を装ったが捕まって幽閉された(一説には逃れて朝鮮国王となった)。

 史記は周の武王は箕子の収監を知って商打倒の軍を決意したとするが、祭祀権と統治権が不可分一体の時代に、微子啓が商の神器を周に持参したことが易姓革命の口実とされたものと推察する。

 

『比干の墓』(『新華社通信』2002411日版)

「中国河南省衛輝市にある殷代の比干を祭った廟の石碑に彫られた殷比干莫(殷の比干の墓)の4文字を、専門家がこのほど中国に現存する唯一の孔子の真筆と鑑定した」

 

『微子の墓』(『東大新報』20021125日号)

「本学の松丸名誉教授が調査の結果、河南省商丘で発掘された貴人墓(長子口墓と仮称)が、人骨鑑定等から文献上の微子(『呂氏春秋』は長子と記す)の墓であると断定した」

 

 上段は、殷の遺跡とされる衛輝市の墳墓の発掘現場から、殷「比干」莫と彫られた碑文を発見。文献では孔子の親筆だとされており、その調査をした結果に関する記事。

 下段は、墓道を持つ大墓のなかで、墓主の腰骨の辺りに死者の世界へ案内をする犬と、その犬の世話係の骨が発見され、墓誌名からも「微子」と推定できる典型的な殷の王侯貴族の墓だが、墓主の人骨の鑑定で死亡年齢が60歳前後と文献上の微子と一致したとの報告。

 

 上記二件の記事から、比干には立派な霊廟があり、微子も貴人墓であることから、往時から人々に尊敬されていたようだが、なぜか中国国内に箕子の霊廟がない。

 箕子朝鮮伝承は、孔子の儒教が朝鮮半島に浸透した三世紀頃、楽浪郡豪族の韓氏が箕子伝承を利用して、韓氏の系譜の粉飾を図ったことで広がり、高麗時代に民族主義的な高揚感から平壌に箕子陵や霊廟が建立されるほど信奉されるようになったとされる。

 

『通典』東夷上

 周封殷之太師之國。太師教以禮義、田蠶、作八條之教、無門之閉、而人不為盜。其後四十餘代、至戰國時、朝鮮侯亦僭稱王。始全燕時嘗略屬焉、為置吏、築障塞。秦滅燕、屬遼東外徼。秦遼東郡、今安東府之東地。

 周王朝は殷(商)の太師(箕子を指す)をこの国に封じる。太師は礼儀や農業、養蚕を教授し、「八条の教え」を作ったので、門戸を閉めなくても人々は盗むことをしない。

 その後、四十余代、戦国時代に至って朝鮮侯も王を僭称する。燕は全盛期の初めに(朝鮮を)侵略して属国とし、そこに統治官を置いて長城(燕長城)を築いた。秦が燕を滅ぼして遼東の外徼(外境=異民族)を帰属させた。秦の遼東郡は今の安東府の東の地である。

 

 通典』は古代から唐の玄宗皇帝までの諸制度を記録した史籍である。従って、ここに記された安東府とは平壌城を治所とした唐の全盛期の安東府(この後、秦の遼西郡に撤退)のことである。このことから通典』は、朝鮮を昔の韓四郡の支配領域に想定しているようだが、秦の遼東郡は唐代の遼城州府であり、安東府ではない。

 

「周の武王」

 周王朝の創始者で、初代王。諱は発。文王(姫昌)の子。伝承では、武帝は商を滅ぼした後、微子啓を「宋」、箕子を「朝鮮侯」に封じたとされる。

 紀元前11世紀、周の武王は父の死後、太公望や周公旦を左右に侍らせ国力増強に努め、牧野において十数倍もの大軍を擁した商の紂王を討ち破り、周王朝を立てた。長江流域まで支配地を広げた周は、東方の統治に適した洛陽の近くに副都として成周を築き、首都である鎬京(陝西省西安市西南)は宗周と改名した。

 

伯夷と叔斉」

 この武王の快挙を暴挙だと批判した兄弟がいた。孤竹国の王子だった伯夷と叔斉の兄弟は、父の服喪も終えないうちに位牌を馬車に載せて周を征伐しようとする武王を諌めたが、武王は聞き入れず、商を滅ぼした。この兄弟は、これを不徳な暴力革命と決めつけ、周王朝の支配下で生きることを恥じて首陽山に隠遁したが、周の粟を食すことを拒否して餓死したとされる。後世の儒教思想では、伯夷と叔斉は聖人として崇められる。

 現代人の感覚では、この兄弟を聖人だとする儒教の価値観が理解しづらいが、問題は餓死した兄弟ではなく、彼らの母国とされる孤竹国である。

 

『隋書』列伝三十二(裴矩伝)

 矩因奏曰:高麗之地、本孤竹國也。周代以之封于箕子、漢世分為三郡、晉氏亦統遼東。

 高麗(こま)の地、元の孤竹国なり。周時代、ここを以て箕子を封じる。漢の時代には三郡(遼西郡、右北平郡、遼東郡のこと?)に分かれ、晋の時代には平州遼東国が統べる。

 

 高麗の地とは南北朝から隋朝までの高句麗の広大な領地ではない。晋の平州は遼東の襄平に治所を置き「昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方」五つの国郡を統治した。その遼東国に関する部分である。そして、箕子を孤竹国に封じたと記している。

 

孤竹国

 商時代の画期は文字と青銅器文化の発展で、遼河上流の遼寧省朝陽市喀左県では商末から西周前期の青銅器が数多く出土する。そのなかに「箕候」「孤竹」と読める文字が彫られた出土品があり、箕侯とは箕子本人、もしくは彼の後裔ではないかと考えられている。

 儒教では聖人とされる伯夷は孤竹国の太子、孔子が殷の三仁と称賛した箕子は商の王族。箕子を封じる(あるいは亡命する)には孤竹国は順当な選択に思えるが、孤竹国は河北省の渤海沿岸(河北省唐山市)に在った国家である。なぜ遼寧省を流れる遼河の上流から孤竹が製造したと推定される青銅器が出土されるのだろう。

 

 199210月,抓髻山附近的馬哨村村民采沙時,竟意外地発掘出商代的一鼎一簋。鼎内壁有一“卜”字,簋中有一“ 箕”字。経考証,很可能是商末箕子所鋳,他身為商紂王諸父,当過太,曾封国于箕(今山西太谷附近)。按当時等級制,他有鋳造七鼎六簋之権。箕与孤竹,同為方国,将鼎簋作為国礼贈送,是合乎情理的。很可能孤竹得到箕子的贈礼,以后鼎簋成了孤竹長君的陪葬品。

 199210月、馬哨村の村民が採砂していて、偶然に商時代の鼎(かなえ)と簋(き)を発掘した。その鼎の内壁に「卜」、簋のなかには「箕」という文字があった。考証の結果、箕子が鋳造させた可能性が高いとされた。箕子は商の紂王の叔父で、当時は太の位に就いていた。彼の身分なら七鼎六簋を鋳造する権利を有しており、箕が孤竹国に贈答し、孤竹長君の陪葬品として埋葬されたと考えられる。

 

 これらの考古学的見地から、当時は朝陽市喀左県の辺り(遼西地方)まで孤竹国の支配下にあり、その城邑があった可能性が高いと考えられる。『漢書』は次のように記している。

 

『漢書』地理志(本文抜粋)

 遼西郡、秦置。屬幽州。縣十四。令支、有孤竹城。莽曰令氏亭(應劭曰:故伯夷國、今有孤竹城)。

 遼西郡は秦王朝が置いた。幽州に属す。県数は十四。令支県に孤竹城がある。王莽が言う令氏亭、應劭が言うには「昔の伯夷(聖人とされる伯夷を指す)の国、今は孤竹城がある」

 

 遼西郡の令支県に孤竹城があるとは、昔は孤竹国が令支国を属国として、その地に城邑を築いていた証拠になるが、令支国は令支県として存続したが孤竹国はどうなったのだろう。

 

『唐山市歴史』河北省唐山市人民政府

 殷商時代には龍慮の西にあった狐竹国と山戎国が唐山市の東北部の県域で活動していた。周朝になると大規模な封建制が実施され、大小の諸候が出現した。春秋時代、唐山市一体には「狐竹、山戎、令支、无終」などの諸候の国家が出現した。

 

『遼史』地理志

 平州は商時代の孤竹国、周時代は幽州に属し、春秋時代は山戎、肥子の二国で燕に属す。

 

 平州は時代によって位置が移動するが、ここでは五代十国時代(907979年)の遼国の領土であった平州(河北省の渤海沿岸)のこと。

 前段の唐山市歴史に記載されたように、周王朝の凋落で様々な諸侯が誕生したが、完全な独立を維持するのは難しい時代だったのだろう、「戦国七雄」の一国に成長した燕国が近隣に在ったことから、帰属させられていたのだろう。だが、孤竹国の名がない。

 

『故事:老馬識途』

 斉桓公23年、桓公率兵彙同燕国和无終国軍隊征伐孤竹国、并在孤竹国附近撃敗了逃往孤竹国的山戎大王和孤竹国大将黄花。到了晩上、桓公扎営休息、半夜里黄花前来投誠、環拿着山戎大王的首級、并説孤竹国君答里呵已逃往沙漠、孤竹国的都城是一个空城。

 春秋時代の斉桓公23年(前663年)、桓公は兵を率いて、燕国と无終国の軍隊とともに孤竹国の征伐に出動し、孤竹国の附近で惨敗し、山戎(さんじゅう)の大王と孤竹国の大将の黄花は孤竹国に逃げて行った。その晩、桓公が扎営で休息していると、夜半に黄花が投降してきた。しかも山戎大王の首級を持参しており、孤竹国の君主の答里呵はすでに沙漠に逃亡し、孤竹国の都城は空城だと述べた。

 

 老馬識途という中国では有名な故事の一節だが、後半では、この投降は桓公を砂漠で迷路に引き込むための孤竹国の偽計で途中まで成功したが、孤竹国から徴発した老馬が孤竹への帰路を記憶しており、桓公は危機を脱して孤竹国を討伐したという話である。

 皮肉なもので山戎は、この後も一世紀以上存続するが、この討伐によって孤竹国は壊滅的な打撃を受けて歴史から消える。おそらく燕国に吸収されたのだろう。だが、その一部分は東に逃れて朝鮮国に合流、あるいは朝鮮国を立てたのかもしれない。

 

『發(北發)』

『管子』軽重甲篇

 燕の紫山の白金、逸品なり。發(はつ)、朝鮮の文皮、逸品なり。

 發と朝鮮は朝貢してこないが、文皮の衣服をもって貨幣との交換を請う。豹皮を金の重さで容認すれば、しかる後、千里の發、朝鮮は必ずや参詣する。

『王恢傳』

 北發、月氏は臣従させてしかるべき。(中略) 發と朝鮮を連記することから、北發は朝鮮附近に在している。軽重甲篇に言う「發とは北發、その国は朝鮮に近い」これなり。文皮とは虎豹の毛皮のことである。

『爾雅』(中国最古の辞典)

「東北の美しきものは、斥山の文皮なり(斥山は山東省栄城県の南)。蓋登州をもって發、朝鮮の通商窓口とする」

 

 まるで發、朝鮮、文皮(虎豹の毛皮)がワンセットのような記述である。

 發は早い時期から中原諸国に知られていた部族だが、その全貌は謎である。だが、これらの記述から推察すると、發(北發)と朝鮮は隣国で、ともに文皮を特産品としており、友好関係にあったと思われる。さらに發の記載がある史籍を探してみると次のようになる。

 

『逸周書』王會解「燕人發。一名に北發という」

『軽重甲篇』「發、朝鮮、發は国名」

『史記』五帝本紀「北發、山戎、息慎」

『漢書』武帝紀に「海外(中華の外)に粛慎、北發、渠搜氐、羌徠服」

 

 どうやら中国の北方か東北にいた氏族のようで、河北省北部の燕国に帰属して北發と呼ばれたが、紀元前664年の山戎による侵攻で燕が危機的な状況になったとき、發として東北地方に移住して分立したものと推理する。

 北發は發の別名で、朝鮮の近隣に在る国家だとなるが、太子河の上流で後の高句麗の領域に先住していたようだ。秦時代には發の名が消えることから考えて、おそらく戦国時代の末期には穢系部族連合に吸収されたのではないかと思われる。

 

『朝鮮国』

『史記』蘇秦列伝

「燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡と楼煩、西に雲中と九原、南に呼沱と易水がある」

 

 燕国は河北省の北部を領有しており、その東に朝鮮と遼東があるとすれば、朝鮮は遼西だとなる。本来、燕の東隣の遼西には山戎がいるはずだが、山戎は紀元前475年に趙の侵略をうけて衰弱したとあり、すでに遼西から駆逐されていたのかもしれない。

 ただし、林胡・楼煩・東胡は『三胡』と呼ばれたが、燕の北にいたのは東胡で、林胡と楼煩は黄河を間にして蒙古自治区側に林胡、山西省側に楼煩がいた。従って、西の間違いであり、この記事の信頼性に疑問が生じる記述ではある。

 

『三国志魏書』馬韓伝

 魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。

 魏略には、昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周の衰退が見えると、燕が自ら王と尊号し、東の地を侵略しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称し、周室の尊厳をかけて、兵を興して燕を迎撃しようとした。その大夫の禮がこれを諫言し、止めさせた。禮を西に使者として派遣し燕を説得した。燕は進軍を止め、攻撃しなかった。

 後に子孫が少し驕慢で暴虐になったことから、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西方を攻め、二千余里の土地を奪い取り、満番汗(まんばんかん)を国境とした。朝鮮は遂弱した。

 

 燕が定めた国境を「満番汗」だと言っている。満番汗は平壌市に近い大同江北岸にあり、これでは一挙に遼東を突き抜けたことになる。従って、それまでの遼東地方は朝鮮国の領地だったということになる。

 

『漢書』地理志

 玄菟、楽浪、武帝時置。皆朝鮮、濊貉、句麗蛮夷。殷道衰、箕氏去之朝鮮、教其民以礼儀、田蠶織作。

 玄菟、楽浪,武帝の時代に置いた。いずれも朝鮮、濊貉、句麗などの蛮夷。殷(商)朝の徳が衰退し、箕子がこの朝鮮に行った。そこの民に礼儀や農業養蚕を教えた。

 

『括地志』

 高驪の都の平壤城。元は漢の楽浪郡の王險城、また、そこは古の朝鮮の地であるという。

 

 上記二編のいう朝鮮の位置は韓四郡のことである。遼西全域と遼東地方の大半を燕国に奪い取られた後の朝鮮の領域を、更に前漢が植民地としたということになる。

 

『総括』

 羌族の大王である呂尚(太公望)の娘を妻に迎えた武王が、太公望の知略と兵力を後ろ盾にして、商王朝を倒して周を立てたとされる。その太公望が「商の遺民を根絶すべきだ」と周王の発に進言したが、発は紂王の一族を「衛」、微子啓を「宋」に封じた。

 周は商を牧野で撃破したといっても、東夷討伐に専念していた商の東部の軍勢は無傷で、現実に彼らは周の軍門に下らず互角に周軍と戦っていた。従って、残酷な発言ではあるが、当時の知将としては太公望の進言は当然である(現に衛は周の内紛に乗じて反乱を起す)。

 太公望と周公旦は衛と宋の監視のため、姫鮮を両国に隣接する「管」の地に封じた。それほど当時の周王朝の中枢は知略に長けていた。そして、建国の元勲である召公奭(せき)が封じられたのは北方の燕(当時は匽)である。

 おそらく当時の河北省は周の支配権の及ばぬ辺境で、燕の監視下で箕子を朝鮮(すなわち孤竹国、またはその周辺地)に封じた、あるいは箕子が先に亡命していたので、そこの諸侯に追認したのだろうが、商の王族であった箕子を封じるには最適な位置だと思える。

 

『通典』

「朝鮮。晋の張華が言うには、朝鮮に泉水、洌水、汕水があり、三水が合流して洌水となる。定かではないが楽浪や朝鮮は、ここから名を取ったものだとされる」

 

 遼寧省には北から「遼河、太子河、渾河」の三本の大河が流れており、洌水は太子河に比定されている。太子河流域に遼陽市(古地名は嚢平)が在り、遼陽市の沖積平野で前漢代の村落遺跡が発見されており、清朝のヌルハチ一族の陵墓も遼陽市の太子河の東方の陽魯山にある。太子河の上流は、現在でも鉄や石炭の産地である。

 

 征伐自由の権利を得て山東半島に新天地を拓いた太公望の斉国が強勢になり、やがて太公望の末裔である斉の桓公に討たれて孤竹国が衰退すると箕子の末裔も一緒に渤海を北上し、遼東地方に侵入して定住したものと推察する。

 そして『通典』のいうように、その地で「朝鮮」を国号としたのではないだろうか。

 

『後漢書』弁辰伝。

 初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。

 初め、朝鮮王準が衛滿に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破り、韓王として自立した。後に準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になった。

 

 魏略に「否が死に、その子の準が立った」とあることから、朝鮮王否の子だとは分かるが、ここでも準の氏姓を記していない。ここで血統が途絶えるので、それ以上の探索はできない。この後に中国の正史に登場する朝鮮は衛氏朝鮮である。

 

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