高句麗の起源

 

 

「パンダと高句麗」

 貊族、貉族は穢系部族の部族名で、なかでも貉は高句麗の古称とされる。この「貊、貉」が世界中で人気を博しているパンダ(大熊猫)を意味しており、秦から晋時代までのパンダに関する姚政氏の研究論文『論・先秦至魏晋時期的大熊猫』に「貊、貉」の移住経緯が記載されているので、その抜粋を紹介する。

 

zgxqs.org/xqsyjdt/xqsyjdt_35/new_page_2.htm

 据詩経》:王锡韓侯、其追其貊、奄受北国、因以其伯。献其貔皮、赤豹黄郑笺:“貔、猛也。追貊之国来而侯伯总领之”。明冯复京《六家名物琉》:“涿郡方城侯城”。“古方城即今(明代)天府固安”。明固安即今河北固安。周宣王要侯督促追、貊等北国侯。”‘献其貔皮”。

『詩経』韓蛮の記載に、王は侯に追と貊を賜い、突然に北国に封じられ、その伯となる。そこのパンダの毛皮、赤い豹(ヒョウ)と黄色い羆(ヒグマ)を献じたとある。郑笺は「貔(パンダ)は猛獣なり。追と貊の国来貢し、侯伯これを総領す」。『六家名物琉』には「涿郡の方城県に侯城がある。昔の方城県とは(明代)順天府固安県で、明の固安とは今の河北省固安である。周の宣王は侯に「追、」など北国の諸侯に、そこのパンダの毛皮を献上することを督促するよう求めた。

 

 韓侯は周の武王の弟のこと。従って、周時代末期には良質なパンダや豹、羆などの毛皮を献納する蛮夷の小国として、の名が中原諸国に知られていたことになる。

 

 其六、最得重的是北。北有大熊猫、据有四:

 一是西汉扬雄《方言》:“貔、楚江淮之间谓之貅、北燕朝间谓之貊”。汉时北燕当今河北北部和宁一。朝指今朝北部。明西汉时期在河北北部、宁及朝北部确有大熊猫。

 その六(前文を省略した)、最も重視に値するのは北である。前漢から三国魏の時代、東北にパンダがいたことの証拠の根拠は四点ある。

 第一、前漢の雄が著した『方言』の解説では「パンダ、陳(河南省淮陽)・楚(江蘇省徐州)・江(江水=長江)・淮(淮水=淮河)の間ではと言い、北燕と朝鮮の間ではと言う」とある。

 漢時代の北燕は今の河北省東北部と遼寧省一帯、朝鮮今の朝鮮半島の北部を指す。説明では前漢時代、河北省東北部や遼寧省および朝鮮北部には確実にパンダがいたことになる。

 

 この論文では、現在は絶滅を危惧されるパンダだが、古代は中国大陸に広範囲に棲息しており、朝鮮半島北部にもおり、その毛皮が珍重されたようだが、濊貊(穢貊)の貊がパンダに由来するとは意外だが、扶余もツングース語の「鹿」、同じく沃沮も「鉱泉」に由来することから、部族と密接な関連事項を漢語に音訳して国名にしたものと推察される。

 

 二是汉许慎《文》:“貔、豹、出貉国。”古貊与貉音義同。貉国即貊国。汉时北的貊国是“北”之貊国迁去的。“北”之貊国、商周之一迁到山西和河北北部、向周王献貔皮。到西周末年为俨狁所逼、再迁到河北南部、“貊近”。到时为燕所、三迁到北建立貊国。貊出貉国、汉时之貉国在北、所以说汉代今北有大熊猫。

 第二、後漢の許慎の『説文』は「パンダ、豹に属す、貉国で産出」という。貊と貉の古音は同じ。貉国とは貊国。漢代の東北の貊国は「漢水(漢江)東北」の貊国が遷移したもの。

「漢水東北」の貊国は、商や周の時代に山西省と河北省北部に遷移し、周王にパンダの毛皮を献納した。

 西周末期、儼狁(犬戎)に追われ、再び河北省東南部に遷り、「貊は魯に近い」となる。

 戦国時代、燕に滅ぼされ、東北に三度目の遷移をして貊国を建国する。

 貊は貉国より出る、漢代の貉国は東北に在ることから、漢代には今の東北にパンダがいたことになる。

 

 中国古代の伝説に貔貅(ヒキュウ)という猛獣がいる。姿形は豹(ヒョウ)に似ており、牝を、牡をといい、軍事力として用いられたとされる。『説文』の「に属す」とは、この伝説上の怪獣と実物のパンダを混同しているものと推察する。

 実物の貔貅は「パンダ」のことで、長江流域では「」、北燕と朝鮮の間(河北省から遼寧省)では「貊」と呼ばれていたとする。そして、貊族はこのパンダを狩猟する民族だったことから貊と称されたことになる。

 

 一般にパンダは草食動物だと誤解されているが、元は凶暴な肉食獣で、環境変化に応じて笹竹を主食とするため牙を臼歯状に進化させだか、家畜やペットにできるような温和な動物ではない。中国の動物園では観客に襲い掛かったこともある。従って、ツングース族のように虎や豹、熊などの狩猟を糧とする部族でないと捕殺できなかったのだろう。

 また、貊と貉の古音は同じとあるが、現代音も同じ「MO」で、「東北地方の少数民族」と意味も同じである。従って、現代ではパンダとの関連性はみられない。

 

 この論文では漢水(漢江)の東北(河南省)の貊が東北に遷移して貊国を建国したとするが、おそらく貊を古代羌族か苗族、あるいは東夷族に属す部族だと解したのだろう。だが、後の濊貊は高句麗と言語が同じとされることからも、ツングース族、それも穢系部族だったことは確実である。ただし、穢系の支族が中原に進出し、後に故地に戻ってきた。そして、その支族の呼称を穢貊が国号に採用したとの想像は成り立つ。

 

 また、魯に近い場所に移住したとあるが、魯は済水(黄河)の東側で山東省に属し、河北省は済水の西側にあたる。済水下流域には高夷がいたはずで、魯の周辺から東北地方に遷移したとすれば、高夷の移動と奇妙に合致する。

 

 四是西武帝打渠、在沃祖地置玄菟郡、后改沃沮、治所在今朝。三国沃沮“臣属勾”。勾置使者“其租税:貊、布、、海中之物”。貊、布当是貊皮和麻布。既用貊布交纳贡赋、表明我国北地区和朝北部确有大熊猫生存。北和朝有大熊猫、至今尚无出土化石可、若以文献据、时東北和朝北部有大熊猫生存、完全可信。

 第四、前漢の武帝が衛氏朝鮮を征伐し、沃祖の地に玄菟郡を置いた、後に沃沮県に改めるが、治所は今の朝鮮咸興市。

 三国時代、東沃沮は「高句麗に臣属」。高句麗は使者(官名)を置き「その租税では、貊、布、、塩、海産物を課した」。貊、布とは貊皮(パンダの毛皮)と麻布のこと。貊と布を以て課税を納付することは、漢魏の時代には我国の東北地区と朝北部には確実にパンダが生存していたことを表明している。

 

「高夷氏北上説」

 西周初年(紀元前1046年)、周の武王が商を滅ぼすと、高夷氏は周の東方に居を置き、周王朝の属国となった。周の成王が洛邑(洛陽)を創建した後、諸侯を招いて大会を催したが、この会議に参加した東北の高夷が、高句麗族の源流であるとする解釈がある。

 

『逸周書』王會弟五十九成周之會

 北方臺正東、高夷嗛羊、嗛羊者、羊而四角。

 北方台地の東、高夷の嗛羊、嗛羊とは四角い羊である。

 

 この高夷に関して孔頻達(隋書を編纂した唐代の学者)は「逸周書に記された会議に参加した北方台地の東の高夷とは高句麗族の源流である」と注釈を記している。

 

王会篇

 皆大会諸侯及四夷事、云:“唐叔、荀叔、周公在左、太公在右。堂下之右、唐公、虞公南面立焉、堂下之左、商公、夏公立焉。”四公者、、舜、禹、后、商、夏即杞、宋也。又言:俘商宝玉亿有百万。

 四夷国名、古奥、畜亦奇崛、以稷真、濊人为秽人、浪之夷良夷、姑蔑姑妹、且瓯、渠搜渠叟、高句丽为高夷。

 (前略)四夷国名は、粛慎を稷真、濊人を穢楽浪の良夷、姑蔑姑妹、東欧を、渠搜渠叟、高句麗を高夷と記している

 

『高姓解析』(www.prc.net.cn/prc2004/zhxs/items/hrxs/xsjx/gxjx.htm

 第一支出自高夷族。相黄帝代已有高姓、高元黄帝之臣、明了房屋、此而姓高。相代的高阳氏颛顼帝和高辛氏帝之后裔中也有高姓、但是四千多年前的段高姓渊源无稽可。在夏商期、活豫大地上一支以鹄为图腾的高夷氏族、就是白天、高夷属于夷族。

 第一は高夷族より出る。相伝では黄帝時代すでに高姓があった。高元は黄帝の臣となり、家屋を発明し、これによって姓を高とした。同時代の高陽氏颛顼帝と高辛氏帝嚳の後裔にも高姓があるが、四千余年も前のこの種の高姓の淵源は調査できない。夏や商の時代に、魯や豫の大地で鵠をトーテムとする高夷氏族が活躍していた、鵠とは白天鵞(オオハクチョウ)で、高夷は東夷族に属していた。

 

 夷族的先祖是高辛氏帝、因此、高夷或直接出自高辛氏。高夷最早居住在今山、随夷族入主中原而向西、向南迁移、到商朝期、高夷已经进入了河南北部。

 東夷族の先祖は高辛氏帝嚳であることから、高夷は直系の高辛氏の出身かもしれない。

 高夷は最も早い時期に山東省莒県一帯に居住していたが、東夷族の中原進入に従って西や南に遷移し、商王朝の時代、高夷はすでに河南省北部に進入していた。

 

 公元前1046年、周武王商、高夷位于周朝的面、周的属国、史称高句、也是后来北的高句

 紀元前1046年、周の武王が商を滅ぼした時、高夷は周王朝の東に位置し、周の属国となり、高句史称したが、これが後世の東北の高句麗である。

 

 春秋以后、高夷逐北迁移、于冀北至支高姓至少已有四千年的史。支高姓到唐朝以后、主要向西北迁移、其中一部向北、再而入朝

 春秋時代以後、高夷は逐次東北に遷移し、冀州の北の遼東一帯に至った。この高姓の支族は少なくとも四千年の歴史を有している。この高姓の支族は唐朝以後、主に西北に遷移し、そのなかの一部は東北に向かい、再び朝鮮に進入した。

 

 これは中国全土に分布する高姓の集計を解析した文章の一節だが、高夷氏の移動によって朝鮮半島に高姓が分布する根拠としている。確かに高句麗の始祖とされる朱蒙の姓は「高」であり、高句麗は「高氏の句麗」を意味することから、ツングース族の穢系部族連合の一員である貉族に、高姓の氏族が混合したと考えるのは妥当である。

 

 商時代、山東半島にいた高夷は東夷族の中原進入に従って河南省に移動した。だが、商族の祭祀には多くの人命が生贄として神に捧げられた。犠牲になるのは戎や夷であり、羌族は毎回何十人も狩り獲られた。この怨念が羌族に周族の決起に合力させる結果となり、商王朝は滅びるが、高夷も狩りの対象とされた可能性がある。

 高夷は危険な中原を離れ、済水(黄河)を下れば渤海の菜州湾に至る。そこは故地の山東半島の東側の付け根にあたり、前掲のパンダを族名とする貊族が近隣にいたことになる。

 

 周時代、菜州湾一帯は斉国の所領となる。周建国の元勲で羌族の大酋長でもある太公望が封じられた国だが、周王の岳父でもある彼に「討伐自由」の特権を与えたことから、斉国は勢力を拡大し、やがて高夷は斉国に土地を追われる。同様に元勲の召公奭(せき)を封じた燕(エン)国も強勢となり、貊の領域を奪い、貊族を駆逐した。

 

 両者は済水を離れ、中原諸国の勢力が届かない東北に向かうことを余儀なくされ、ともに遼東湾沿岸を北上し、数百年の歳月をかけて大遼水(遼河)を遡上、支流の遼水(東遼河)に入って遼寧省撫順市から本溪市にかけて定住した。それが東北の高夷と貊(穢)である。

 

 また、箕子が孤竹国の領域に封じられたとする史籍の記述が正しければ、高夷、貊、箕子朝鮮の三者は同様の経路、あるいは行動を共にして北上したとの想像も成り立つが、問題は言語である。高夷氏は東夷族、箕子は商族(ただし孤竹国は姜族)、貊族はツングース族、三者間の会話には華夏族(漢族)の言語を使用したのだろうか。

 

『三国志魏書』高句麗伝

 東夷の古い話では扶余の別種だとするが、言語、諸事ともに多くが扶余と同じだか、気質や衣服に違いがある。

『晋書』扶余国伝

 その王印には穢王之印とある。扶余国に古穢城があるが、古の穢貊の城である。

『三国志魏書』穢伝

 言語や風俗も高句麗に似るが、服装には違いがある。

『三国志魏書』東沃沮伝

 言語は句麗と大同小異。

『新唐書』百済伝

 百済は扶余の別種なり。

 

 上記のように中国の史籍も「高句麗、扶余、濊貊、沃沮、百済」を扶余の別種(穢系部族集団)だとするが、紀元三世紀頃の高句麗の言語はツングース語系(高句麗語)だと解されており、華夏族(漢族)の言語ではない。これをどう解釈すればよいのだろう。

 

「粛慎地の貊」

 太古から中国東北のウズリー江沿岸(ロシア沿岸州)一帯にはツングース語系諸族の粛慎(しゅくしん)が分布としており、「粛慎地」と呼ばれた。その粛慎諸族のなかで、吉林省から遼寧省北部に移住した集団がいたと推測する。

 

『晋書』粛慎伝

 周武王時、獻其楛矢、石砮。逮於周公輔成王、復遣使入賀。爾後千餘年、雖秦漢之盛、莫之致也。及文帝作相、魏景元末、來貢楛矢、石砮、弓甲、貂皮之屬。

 周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王を補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢。

 

 粛慎は周王朝に朝貢していたが、その後は一千年も中原の王朝への来朝が途絶え、突然、三国魏の時代に来貢してきたとある。粛慎は後漢時代に挹婁(ゆうろう)に代替わりするので、この遣使が挹婁を指すのか、あるいは粛慎の残存勢力なのかは不明だが、周時代に朝貢してきた粛慎とは、粛慎地にいた穢系部族だったと想像する。

 

 後世、滅亡した高句麗の遺民と靺鞨(まつかつ)の部族が合流して渤海国を建国するが、後に渤海国人は「女真族」と改名。この女真族が清朝を立てるのだが、女真(ジェション)とは「粛慎」の音訳だとされる。

 

 清時代、女真族は信奉する文殊(もんじゅ)菩薩から借名して満州(まんじゅ)族と改名するが、清朝は高句麗発祥地とされる長白山(白頭山)一帯を聖域として入山禁止にした。このように信仰心が厚く、祖先崇拝を重んじる女真族が、族名に粛慎を用いる以上、彼らの祖先が粛慎であることは確実である。

 

 粛慎地から周都の宗周に行くには幾多の中原諸国の領域内を通過することになる。これを安全に通過できる経路や通過儀礼などを熟知していた穢系部族が粛慎から抜けたことで粛慎からの朝貢が途絶えたのではないだろうか。

 

 さらに、穢系部族が出現する吉林省から遼寧省東北部の土地は、周王朝への通貢途上で、その周辺に強力な部族もなく、風土にも恵まれており、移住するには適地だと目星をつけていた場所だったのかもしれない。

 

 だが、この穢系部族のなかから中原に進出した支族がいた。それが「漢水東北」の貊族だったと想像する。彼らは周都に近い漢江の東北(河南省)を拠点にして、パンダ、虎、豹などを狩猟し、周王朝で珍重される毛皮を献納(通貢貿易)した。

 

「貊族の回帰」

『管子』軽重甲篇

 發と朝鮮は朝貢してこないが、文皮(虎、豹、パンダのように模様のある毛皮)の衣服をもって貨幣との交換を請う。豹皮を金の重さで交換を容認してやれば、しかる後には千里の發、朝鮮は必ずや参詣する。

 

 管子は紀元前七世紀の政治家『管中』が記した史籍だが、發と朝鮮は文皮を交易の産品としていたようだが、記述に「千里の發と朝鮮」ともあり、すでに漢江の東北ではなく、中国の東北に移住している。ただし、千里の表現を「遙か遠く」と解した場合のことで、地理志としての千里であれば、河北省の渤海沿岸になる。

 

『管子軽重篇』新詮

 所謂發、朝鮮、發就是北發、發與朝鮮連言、可能就是漢武帝時的穢貊朝鮮。

 言うところの發、朝鮮とは、發は正しく北發であり、發と朝鮮が連記されるのは、きっと漢の武帝時代の穢貊、朝鮮だった可能性がある。

 

 この説の通りであれば、春秋時代の前期に貊は穢系部族連合に回帰しており、朝鮮国では彼らを「發」と呼んだのではないだろうか。ただ、發は遺跡の出土品から独自の北發文字を有していたことが判明しており、文字を持たなかった穢系とは異なる部族に思える。

 

 ただし、最終的に發は長白山(白頭山)の麓を領域としており、その北西隣りに穢系部族がいたことを考えれば、穢系部族と密接な関係があったことは想像できる。さらに言えば、漢江東北の貊族は中原の言語に通じており、彼らが朝鮮国や中原諸国との折衝窓口になった可能性は高い。だが、これだけでは高夷と貊との関連がみえない。更に考察を続けよう。

 

「遼寧式銅剣文化」

 北方のタガール文化(後期青銅器ないし初期鉄器文化 前十世紀−前三世紀)がオルドス地方(内蒙古自治区)で中国青銅器文化と混合した結果、出現した独特の青銅器文化を遼寧式銅剣文化(オルドス文化 前八世紀−前三世紀)とも言うが、その発展の原動力となったのが燕(北燕)である。

 

 燕は召方(西省と山西省の狭間)の首領である召公奭の封国だが、召方は商の諸侯国のなかでも別格の侯国で、商王朝から西史召と称され、西方の祭祀権の一切を委ねられた宗教的に特殊な氏族(シャーマンの系譜)だったが、召公奭が商王朝に背いて周の建国を援けたことから周建国の元勲の一人とされる。

 

 最初、召公奭を封じたのは河南省の匽(エン=燕)。その後、河北省の匽も所領になったことで後に「北燕、南燕」と呼ばれるようになる。だが、召公奭が周の政治(共和政治)に傾注している間に、故地の召方は攻め滅ぼされ、所領は匽だけになる(召公の末裔の時代には所領は北燕一国)。

 

 北燕はシャーマンの氏族の国家だけに、祭祀用青銅器の製造技術の発展に尽力したものと思われる。東胡、匈奴、犬戎などを通じてタガール文化を吸収し、刃部が独特な形態をした青銅の短剣を製作するようになる。これが遼寧式銅剣と呼ばれる刃子である。

 中国東北から朝鮮北部の無文土器人が使用していた青銅器は、この遼寧式銅剣文化様式とされるが、燕の青銅器が遼寧省凌源県や喀左県から出土することから、燕の勢力拡大にともない、春秋時代には大小遼河流域にまで拡散したのだろう。

 

 現在、穢系部族の領域から遼寧式青銅器が大量に発掘されるが、どうのようにして北燕の青銅器文化が伝達されたのだろう。

 

本溪市歴史』本溪市人民政府

 据《史·匈奴列期。“燕亦筑城、自造阳至襄平。置上谷、阳、右北平、西辽東郡以拒胡”。是本溪市区、本溪(指今所境域、下同)燕国辽東郡襄平境内;桓仁属燕国辽東郡外徼、高夷部族地。

『史記』匈奴列伝の記載によれば、戦国時代「燕もまた造陽から襄平に到る長城を築いた。上谷、漁陽、右北平、西、遼東を置いてを拒む」この時、燕国の遼東郡襄平境内とされたのは本溪市区、本溪(今境域を指す以下で、桓仁県は燕国遼東外徼(がいげき=外境=異民族)に属し高夷部族の管轄となっていた。

 

 遼寧式銅剣文化は燕国、孤竹国や山戎を介して、遼水(東遼河)上流の遼寧省本溪市周辺に移住していた高夷に伝わり、それを穢系部族が伝授されたことで、彼らの生活領域である中国東北から朝鮮北部に浸透したのだろう。そして、高夷と穢系部族の仲介役を努めたのが漢水東北の貊族だったと想像する。

 

『後漢書』高句麗伝

 地方二千里、多大山深谷、人隨而為居。

 土地は四方二千里、多くの大山や深い谷があり、人も地形に応じて居を構えている。

 

 なにやら山岳民族の様相を感じさせる風景だが、漢水東北の貊とは一種の山窩(さんか)で、村里に住まず、山中で特殊な集合体を結成して自給自足し、毛皮や薬草などを物々交換する時にだけ人前に現れる生活だったのではないだろうか。

 

 集落内ではツングース語、里人と交易するときは華夏語(漢語)を使用したとすれば、故地を離れて数百年を経ても穢系部族との会話に支障はなかったはずである。史籍には扶余や高句麗の土地では果実は採れないが、五穀の栽培には適していると記しており、穢系部族連合は青銅文化の吸収によって生活基盤を粛慎時代の狩猟漁労から定住農耕に転化していたものと推察する。

 

「結論」

 粛慎地に定住する粛慎諸族のなかから、吉林省から遼寧省東北部に移住した集団がいた。それが穢系部族連合である。さらに穢系部族から中原に進出した支族がいた。彼らはパンダの毛皮を物々交換の産品としたことから中原では漢水東北の貊と称された。

 

 西周末期、中原諸国が強勢となると、貊も高夷も中原から追われて北上を始める。両者は北上の途上で孤竹や山戎、あるいは箕子朝鮮と通交しながら、春秋時代には遼寧省本溪市桓仁県周辺に定住した。ここは後に「卒本扶余」建国の地とされる場所である。

 

『東北歴史地図』(黒龍江省人民出版社版)

 沸流水は「富江」の古代名称。沸流谷は富江の河谷、卒本(忽本)は遼寧省本溪市の「桓仁県、卒本川とは「渾江」のことである。『三国遺事』の記す忽本の西城山上に建設した都とは桓仁県の五女山城のことであり、魏書の高句麗伝にいう升骨城のことである。

 

 高夷と貊の領域の北(吉林省)には穢系部族が定住していた。貊族は同族の穢系部族と交流を始め、高夷もそれに加わった。そこから穢系部族に燕国の青銅器文化が浸透していき、春秋時代には青銅製利器の使用で農耕技術が進歩し、狩猟生活からの転換を果たしていく。

 

 戦国時代、鉄器文化に習熟した燕国が「戦国七雄」の一国として強勢となり、河北省北部から東胡を駆逐し、朝鮮から遼西地方を奪い取り、彼らの領域にも勢力を伸ばし始めると、防衛上からも高夷氏と穢系部族の関係がより密接となった。

 

 貊は出身母族である穢系の貊族と同化し、部族名を「穢貊(濊貊)」と称した。

 

 一方の高夷氏は領域内に定着した穢系の貉族を吸収し、共同で邑都を拓き、城を築いた。この城を高夷氏の城を意味する「高(コウ)城(コル=溝婁)」と呼んだ。夷は蛮夷を意味するので削除した。これが高句麗に転音したもので、高句麗の鳥トーテムや南方系の卵生型神話は、高夷氏のトーテムや神話を継承した結果だと思われる。

 高句麗の初期段階の遺跡や遺物の考古学的考証から、紀元前五世紀−前四世紀頃には集落国家を形成していたと推定されることにも合致する。

 

 戦国末期、生活が比較的安定し、人口が増加してきたことから、高句麗地にいた濊貊族は新たな開拓地を求めて朝鮮半島に南下する。そして、生活様式の変化に応じ、沃沮族も山岳狩猟生活を脱して平地の村里に住む集団が出現し、それが沃沮国となったものと推察する。

 

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