東胡(とうこ)

 

 内モンゴル自治区の東方を領域とした狩猟牧畜民族。

 東胡をロシア語のツングースの転音だとする説、胡の東方の部族という意味だとする説、また、部族連盟の呼称か、北アジア東部の狩猟遊牧民族の総称かで論が分かれている。

 中国の学会は蒙兀室韋(もうこしつい)の言語が契丹語と似ており、服飾や弁髪など風習が鮮卑族と同じであることから、モンゴル(蒙古)族の起源を東胡とする説に傾いており、鮮卑、鳥丸、契丹、室章などを東胡系に分類している。

 

『史記』趙世家

 武霊王十九年春正月、今中山在我腹心、北有燕、東有胡、西有林胡樓煩韓之邊、

而無強兵之救、是亡社稷、柰何?

 武霊王十九年春正月、今、中山は我が腹心に在り、北に燕あり、東に胡あり、西に林胡樓煩(ろうはん)、秦、韓の辺境がある(周囲は敵ばかり)。しかるにこれを援ける強兵はいない。社稷(しゃしょく=国家)を亡くすではないか、如何するのだ?

 

 武霊王が「胡服騎射」を採用すべきだと考えた一節だが、東に胡あり、西に林胡樓煩とあるが、この東胡・林胡・樓煩は『三胡』と総称された。注記をみてみよう。

 

 注 正義:趙東有瀛州之東北。營州之境即東胡烏丸之地。服虔云:「東胡、烏丸之先、後為鮮卑也。」

 注記 正義:趙の東、瀛州の東北にある。営州の境、すなわち東胡、鳥丸の地。

 服虔が言うには「東胡とは鳥丸の先祖、後に鮮卑族となるなり」

 

 鳥丸(うがん=鳥桓)は、東胡の後裔。東蒙古高原の鳥侯秦水(遼河上流)一帯で匈奴に服属していたモンゴル(蒙古)系部族だとされる。一説には、東胡のなかで烏桓山に拠った部族が「鳥桓」、鮮卑山に拠った部族が「鮮卑」を称したとも言われる。

 この史記の注記に従えば、中国説が適確だと思えるが、蒙古族がトルコ系の一種族である可能性が高いとされることから、中国説が定説とされるには到っていない。

 

 東の胡か、胡の東かで東胡の解釈が全く異なるが、「胡」とはなにを意味するのだろう。

 胡桃(くるみ)、胡椒(こしょう)、胡麻(ごま)、胡瓜(きゅうり)、葫(にんにく)、胡葱(あさつき)、胡豆(そらまめ)、胡坐(あぐら)、胡散臭い(うさんくさい)、胡言(でたらめ)、胡弓(こきゅう)等々、日本語として定着しているが、遣唐使が日本に持ち帰ったものである。唐代では「胡」は、西域の異民族の総称とされたのだ。

 だが、胡の古字は「鬍(ひげ)」を象意しており、本来は、顔面が髭で覆われた風貌からトルコ系の遊牧民族を指したものと思われる。東胡の北方に丁霊(ていれい)がおり、後には突厥(とつけつ)、鉄勒(てつろく)などが現われるが、いずれも「トルコ=テュルク」の音訳である。また、商代には鬼方(きほう)、犬戎(けんじゅう)、薫育(くんいく)、春秋時代に匈奴、昆夷などが登場するが、これらもトルコ系の遊牧民族だとされる。

 

 東の胡であれ、胡の東であれ、東胡の西に胡族が居ることが前提となる。

 春秋時代、山西省と陜西省と内蒙古自治区が交接する黄河流域に「林胡」「楼煩」、河北省の北方に「東胡」の名が現れ、『三胡』と称される。だが、位置関係からすれば東胡より北胡と呼ばれるはずではないかと疑問に感じる。個々の種族を考察してみよう。

 

『鬼方』

『竹書』『世本』

 鬼方即羌明甚。是今青海、藏地喀木、及滇蜀之西徼、皆商代鬼方

 鬼方、すなわち羌族であることは甚だ明白である。現在の青海や藏地喀木(ともに青海省)、および滇蜀(貴州省)の西の徼(境=異民族)で、皆、商代の鬼方である。

 

 高宗武丁は「土方」「鬼方」「羌方」を討ち、次に「荊蘇」と戦ったとされる。

 方とは「方国」のことで、諸侯の国を表すが、商代では「四方の国」、つまり自国の四方にある国(外国)という意味だが、ここでは「鬼方とは羌族だ」と言っている。

 

『延安歴史大事』陜西省延安市人民政府

 延安属独立的方国鬼方之域。商帝武丁発動規模討伐鬼方的争。《周易「高宗伐鬼方三年克之」

 延安市は独立した方国『鬼方』の領域に属していた。商帝の武丁が、かつて鬼方との戦争に大規模な討伐を発動した。『周易』既済には「高宗が鬼方を討伐、三年でこれに勝つ」と記載している。

 

 鬼方は陜西省延安市を領域としていたと説明しているが、羌方、薫育、犬戎などの領域でもあり、鬼方をそれらと同族だとするのだろうか。羌方(羌族)と犬戎を考察しよう。

 

『犬戎(厳允)』

 陜西省から夏回族自治区にいた遊牧民族で、白犬(または白狼)を崇拝。それをトーテムとしていたことから、古代羌族の部族(西羌族)だとされるが、犬戎や古代匈奴もトーテムは犬であり、後には、高車、鮮卑、突厥、契丹なども犬のトーテムを崇拝している。

 羌族(きょうぞく)とはチベット系民族のことだが、この定義も困難で、その文字からも「羊」を追って西アジアからきた遊牧民族だが、中国西部に広範囲に分布しており、漢水の上流にいた羌族を南羌族、青海周辺に居た羌族を西羌族と区分すると、南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となって同化する。彼らのトーテムは当然「羊」である。犬トーテムは西羌族だけで、彼らは時に胡人とも呼ばれた。

 

『トーテム』

 トーテムとは、社会の構成単位となっている親族集団が、神話的な過去において、神秘的・象徴的な関係で結び付けられている自然界の事物である。また、親族集団を、それぞれ特定の自然物と象徴的に同定することによって、社会の構成単位として明確に識別される社会認識の様式をトーテミズムという(『広辞苑』)。

 

 紀元前771年、周の幽王が犬戎に攻め殺されたことで周は滅亡し、東周時代(春秋時代)に時代が移行する。それほど強力な部族だったようだが、春秋時代に強勢となった秦によって犬戎は領土を奪われ、秦に吸収、あるいは羌族か匈奴に合流したものと思われる。

 中国のウェブサイトに匈奴の論文が掲載されていたので、胡人に関する部分を紹介する。

 

『匈奴史話』(http://www.grassy.org/BBS/BrowTheme.asp?ThemeID=5940

 匈奴一名与后来羅馬人和印度人称呼同一蛮族的名称(HunsHuna)是同詞源的。可能這些匈奴人在公元前九世紀和前八世紀時已経被中国人称為厳允。更早一些的時候、他們可能被称為“草粥”、或更含糊地被叫作“胡人”。在歴史的黎明時期、中国人所知的胡人是指那些当時居住在中国辺境上、即在鄂多斯、山西北部和河北北部的那些民族。馬斯佩羅推測:所謂北戎即“北部之戎”、分布在今天的北京西部和西北部、是一支胡人部落。其他的部落在公元前四世紀時已経帰降于趙国的中国人。趙武霊王(大約公元前325298年在位)甚至从他們那里奪取了山西最北部(大同地区)

 匈奴という名称は、ラマ人やインド人の蛮族に対する名称「フン族」を起源とする。

 匈奴人は紀元前九世紀から同八世紀には、すでに中国人から「厳允」と呼ばれていたと思われる。更にその前には「草粥」、あるいは「胡人」と呼ばれていた。

 歴史の黎明期には、中国人は胡人が当時の中国辺境、すなわち山西省北部と河北省北部の民族だと知っていた。従って、北戎とは「北部の戎」、現在の北京市西部と西北部に分布して暮らしていた胡人の部落をいう。その他の部落は紀元前四世紀に趙国の中国人に帰服したが、趙の武霊王は彼らから山西省最北部(大同市)を奪取したのである。

 

 どうやら東胡の西にいた胡とは、匈奴のことだったようだ。

 これで東胡がトルコ系の遊牧民族であれば、東胡とは「東の胡」だと断定できるのだが、東胡の領域はアルタイ諸語系の雑居地域だったようで、ツングース語、テュルク語、モンゴル語が併用して使用されていたのだろう。東胡の後裔とされる種族の言語が一定ではない。

 そもそもアルタイ諸語とはアルタイ山脈からとった学術用語だが、蒙古の領域はアルタイ山脈の東部から広がっており、一部族が一言語とは限らないところに分類の難しさがある。

 

 東胡は鮮卑族の祖とされるが、鮮卑族の慕容氏を祖とする吐谷渾(とよくこん)の族人は羌族である。また、南北朝の北朝から唐朝に続く北魏王室は鮮卑族の拓跋氏だが、拓跋氏の言語は古代トルコ語である。民族や種族に執着せず、親族中心の部族単位で自由に進むべき道を選べたのかもしれない。

 古代、中国東北地方は粛慎(しゅくしん)地と呼ばれていたが、粛慎は民族名でも単一の部族名でもなく、そこを領域とする大小幾多の種族の総称であり、同様に、東胡も民族名や単一部族の呼称ではなく、その地域内に暮らす種族の総称だと推察する。

 

『史記』趙世家

 王遂往之公子成家、因自請之曰:「(省略) 吾國東有河、薄洛之水、與齊、中山同之、無舟楫之用。自常山以至代、上黨、東有燕、東胡之境、而西有樓煩、秦、韓之邊、今無騎射之備。故寡人無舟楫之用、夾水居之民、將何以守河、薄洛之水(集解徐広曰「安平経県西有漳水、津名薄洛津。”正義按:安平属定州)、變服騎射、以備燕、三胡、秦、韓之邊。

 王(武霊王)は公子成の家に往き、自ら述べた「(省略) 我が国は東に河水(黄河)、薄洛津(漳水)があり、斉や中山も同じだが、これに備えた船団がない。常山から代に至るまでに上黨、東に燕や東胡の国境があり、しかも西には樓煩、秦、韓の辺境があるが、今は騎射も用いられない。船団の備えもなく、それに用いる人も少なく、水辺に住む民族が来襲すれば、何をもって河水、薄洛津を守るのか(集解で徐広が言うには「安平経県の西に漳水あり、河川名は薄洛津」。正義では「安平県は定州に属す」)、衣服を変え、騎射(の技術を学び)、もって燕、三胡(林胡、樓煩、東胡)、秦、韓の辺境に備えるべきである。

 

 これは戦国時代の趙の武霊王が、胡服騎射の採用を説得する有名な故事の一節である。

 長文なので全訳を載せなかったが、中国古来の戦闘方法は、馬に二輪戦車を牽かせて戦う戦車戦であり、騎馬戦など念頭になかったことから、中国王朝では裾の長い服を着ていた。

 武霊王は強力な北方民族の騎馬兵の衣服や射撃術に着目し、自国の軍隊にも採用したいと考えたが、中華思想の浸透した当時、野蛮人を見習えというのは、野蛮人になれと言うのに等しく、猛烈な反発に遭った。それを武霊王は粘り強く重臣たちの説得を続け、遂に採用に成功する。紀元前307年のことである。これによって趙は強力な騎馬部隊を有することになり、騎馬隊の威力を発揮して趙の勢力は一気に拡大することになる。

 紀元前273年、恵文王の時代になって、遂に東胡を討ち、東胡から欧と代を奪い取った。胡服騎射の採用が成功したのである。

 

『史記』匈奴列伝

 而趙武靈王亦變俗胡服、習騎射、北破林胡、樓煩。筑長城、自代并陰山下、至高闕為塞。而置雲中、鴈門、代郡。其后燕有賢將秦開、為質於胡、胡甚信之。歸而襲破走東胡、東胡卻千餘里。與荊軻刺秦王秦舞陽者、開之孫也。燕亦筑長城、自造陽至襄平。置上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡以拒胡。

 而して趙の武霊王もまた胡服の風俗に変えて、騎射を習い、北に林胡と樓煩を破った。代を併せて陰山の麓から高闕まで長城を築いて塞いだ。そして雲中、鴈門、代郡を置いた。

 その後、燕に秦開という賢將がいた。胡(東胡)で人質となっていたが、胡は彼を甚だ信用した。彼は燕に帰還するや、(軍を率いて)襲撃して東胡を敗走させ、東胡から千余里の土地を奪う。荊軻(けいか)と秦王の暗殺に同行した秦舞陽とは秦開の孫である。

 燕もまた造陽より襄平に至る長城を築き、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡を置いて、胡の侵入を拒む。

 

 当時の一里は約450m。燕は東胡から約450qの土地を奪ったことになる。これが胡を東に走らせたと訳せば、河北省から遼水(遼河)を越えた襄平(じょうへい)までを奪取したことになる。だが、それだと遼西(遼水の東西)地域までも東胡の領土だったことになり、 この記事にいう東の胡とは、東胡ではなく、朝鮮のことではないかと疑問に感じる。

 

『三国志魏書』馬韓伝

 魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆 撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。

 魏略に曰く「昔、箕子この後に朝鮮侯となる 周の衰退が見えると、燕は自ら王と尊号し、東の地を侵略しようとした。朝鮮侯もまた王を自称し、周室の尊厳をかけて、兵を興して燕を迎撃しようとした。その大夫の禮がこれを諫言し、止めさせた。禮を西に使者として派遣し燕を説得した。燕は進軍を止め、攻撃しなかった。後に子孫が少し驕慢で暴虐になったことから、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西方を攻め、二千余里の土地を奪い取り、満番汗を国境と定めた。朝鮮は遂弱した。

 

 ここにも秦開が登場するが、国境が襄平から滿番汗(まんばんかん)に変わっている。

 これでは遼河を越え、鴨緑江、清川江も越え、大同江まで達している。距離的には二千余里(約900km)というのは整合するが、東胡から奪った土地と位置が重複する。ただし、東胡から北方の地を奪ったのであれば重複はしない。

 だが、それでは北方に千里(約450q)の土地を奪ったことになる。燕長城は河北省北辺を延びており、そこから南に約450q下がれば燕の領土を突き抜けてしまう。奪ったという表現は、それほど遠くに東胡を追い払ったという象徴的な数字なのだろう。

 

『史記』匈奴列伝

 當是之時、東胡彊而月氏盛。匈奴單于曰頭曼、頭曼不勝秦、北徙。十餘年而蒙恬死、諸侯畔秦、中國擾亂、諸秦所徙適戍邊者皆復去、於是匈奴得ェ、復稍度河南與中國界於故塞。

 この当時(秦時代)、東胡は強勢で月氏も隆盛期にあった。匈奴の単于(国王)は頭曼というが、頭曼(ずまん)は秦に勝てず北に移住していた。十余年の後、蒙恬が死に、諸侯は秦に叛き、中国は擾乱となり、秦に土地を移され、辺境を守っていた者が皆、適宜に故地に戻っていったことから、匈奴は自由を得て、再び河南に渡って中国国境となっていた長城を越えた。

 

 戦国時代、燕の秦開将軍に退廃したはずの東胡が、秦開の孫の代には強勢になっている。

 ただし、紀元前206年には頭曼単于の息子によって滅ぼされ、東胡は歴史から消滅する。

 遊牧民族の部族連合国家の常として、偉大な統領が登場すると瞬く間に全部族が団結して勢力を拡大するが、その統領が死ぬと結束が乱れて一挙に弱体化する。東胡も匈奴も典型的な部族国家で、中国王朝式の国家体制を確立していなかったようだ。

 

 今度は別の角度から「胡」をみてみよう。

 中国中央テレビ局の編纂による『国家地理』のなかに、西遞村に1,100年間も暮らし続けている胡氏家族に関するリポートがある。その一節を紹介しよう。

 

『国家地理』中国中央電視台

 胡姓的起源非常悠久、俗話説、葫蘆裏面乾坤大、葫蘆生人祖、這個葫蘆不是普通葫蘆、是中華民族的始祖妣華胥氏的圖騰、華胥氏是古代我們遠古時期的一個始祖、她所生的子孫、統稱為胡人、你比如東胡族、西胡族、南胡族、以及樓胡還有崑崙胡人、都是華胥氏的後人。

 胡姓の起源は非常に悠久であり、伝承では「葫蘆(ひょうたん)の内部に天地があり、その葫蘆から人の祖先が生まれた。この葫蘆は普通の葫蘆ではなく、中華民族の始祖とされる華胥氏(妣は女の先祖の意味)のトーテムで、華胥氏は我々の太古の時代の始祖の一人だが、彼女から生まれた子孫は、東胡族、西胡族、南胡族のごとく、すべて胡人と称した。樓胡になって崑崙山に還るが、みんな華胥氏の後裔である。

 

 鶏子と葫蘆の違いはあるが、これはまさに「盤古神話」である。古代苗族の神話にも葫蘆が登場し、新羅の蘿井伝説では、初代国王の朴赫居世(ボクカクキョセイ)王の朴は瓠(ふくべ=葫蘆)の意味で、卵が葫蘆のように大きかったので、その名にしたとされる。また、金氏の雉林伝説では、倭国から葫蘆を腰にぶら下げてきた大輔瓠公が登場する。

 葫蘆の文字に胡があることから、胡族が西方から伝来したものの一つなのだろう。

 

 遠古時期、胡人是以遊牧為業的民族、特別善於騎射、為了行動方便、胡人製作的衣服、非常適用於作戰、黄帝時、胡人製衣就已出名、據説戰國時期、人們爭相效倣、因此、也就有了趙武靈王要改胡服騎射、可見胡人具有非凡的智慧。

 太古、胡人は遊牧をしていたが、特に騎上での射撃が達者で、胡人の作る衣服は動きやすく、非常に戦闘に適していた。黄帝の時代、胡人の作る衣服は胡服と呼ばれた。

 戦国時代には皆が競って胡服を模倣したことから、趙の武霊王は衣服を騎射に適した胡服に改めた。胡人は非凡な知恵をもっていたと見るべきである。

 

 胡人呢、所居住的地方、都是以胡為地名、我們在地圖上可以到、葫蘆河、壺口、湖丘、胡亭、由於上古的時候把一些諸侯、封在以胡地命名的地區、就叫鬍子國、在古時候有兩個鬍子國、一個是後夔的後代、叫歸伯、在商代的時候封他為鬍子國、因此、他的後代呢、被楚國滅了以後、就以國名為姓、就叫胡氏、還有一支是、周武王滅殷的時候、他封他的同姓、姫胡為鬍子國、這個鬍子國後來也被楚國所消滅了、因此、他的子孫呢也改姓為胡。

 胡人が居住した地方には皆、胡を地名に付けている。現代地図でも、葫蘆河、壺口、湖丘、胡亭(葫、壺、湖、胡は同音)などがみられる。古代に於いては、諸侯を封じるのは胡の地名の付いた地域であり、鬍子国(鬍は胡の古字、子は尊称)と呼ばれた、 (中略)

 楚国に滅ぼされた後は、国名をもって姓としたことから、胡氏と呼ばれるようになる、また別の一族もある。周の武王が殷を滅ぼしたとき、武王は同姓の胡氏を鬍子国に封じた。この鬍子国は後に楚国によって滅ぼされたことから、その子孫は胡に改姓した。

 

 胡人漢化以後、大多以族名為姓、許多少數民族在後來都改為胡氏了、除了漢族胡姓、我國的許多少數民族中也有胡姓、今天、胡姓在全國的人口有1000餘萬人、是住居中國第20位的大姓。

 胡人は漢化以後、大多数が族名を姓としたことから、多くの少数民族が後になって皆、胡氏に改名した。漢族の胡姓を除き、我が国の数多い少数民族のなかにも胡姓があり、現在、全国に千余万人がおり、中国第20位の大姓となっている。

 

 胡族の多くが漢化し、胡氏という胡姓を名乗ったことがよく理解できる。

 中央アジアの遊牧民族が羊を追って東進し、やがて黄河流域や長江流域に住み着き、生活基盤を定住農耕に転換したのが漢民族の興りとされるが、まさに古代胡族や古代羌族が漢民族の祖の一つであり、異民族というより、新参の移住者と言うべきかもしれない。

 東胡の詳細を示した史料も少なく、これ以上の探求は筆者の手に負えないので、東胡の最後を記しておこう(正史は要約のみ翻訳して本文に編集した)。

 

『冒頓単于』(〜前174)

 墨毒、墨突とも書く。在位前209〜前174。匈奴屠各種攣鞮氏の出身。頭曼単于の子。

 頭曼単于(ずまんぜんう)は、太子の冒頓(ぼくとつ)を廃して、末子に単于(国王)を継がせたかったので、冒頓を月氏に人質として送ってから、月氏を襲い、月氏の手で誅殺させようとした。だが、冒頓は月氏の良馬を奪って帰還してきた。

 万騎の指揮官となるや、軍律を徹底して強固な軍隊に成長させ、従わない者を斬り捨てて自分に忠実な軍団を作り上げた。そして、父を狩猟に誘って殺し、父に連なる大臣・諸弟を殺して自立し単于となった。その後の状況が史記に記載されているので要訳する。

 

『史記』匈奴列伝

 冒頓既立、是時東胡彊盛、聞冒頓殺父自立、乃使使謂冒頓、欲得頭曼時有千里馬。冒頓問群臣、群臣皆曰「千里馬、匈奴寶馬也、勿與」。冒頓曰「柰何與人鄰國而愛一馬乎?」。遂與之千里馬。居頃之、東胡以為冒頓畏之、乃使使謂冒頓、欲得單于一閼氏。冒頓復問左右、左右皆怒曰「東胡無道、乃求閼氏!請擊之」。冒頓曰「柰何與人鄰國愛一女子乎?」。遂取所愛閼氏予東胡。東胡王愈益驕、西侵。與匈奴閨A中有棄地、莫居、千餘里、各居其邊為甌。東胡使使謂冒頓曰「匈奴所與我界甌脱外棄地、匈奴非能至也、吾欲有之」。冒頓問群臣、群臣或曰「此棄地、予之亦可、勿予亦可」。於是冒頓大怒曰「地者、國之本也、柰何予之!」諸言予之者、皆斬之。

 冒頓が王に立ったとき、東胡は強勢だった。冒頓が父を殺して自立したと聞くや、使いを冒頓に派遣して「頭曼の時代に得たという千里馬(名馬)を是非とも欲しい」と要求した。群臣は匈奴の宝だと言って反対したが、冒頓は平然と千里馬を東胡に与えた。すると今度は「冒頓の娘を寄こせ」と要求してきた。左右の重臣らは怒ったが、冒頓は平然と娘を東胡に与えた。さらに驕慢となった東胡王は「土地を寄こせ」と要求した。群臣のなかには「土地を与えるのも可、与えざるもまた可なり」と言う者達がいた。冒頓は大いに怒り「土地とは国家の基盤である。なにゆえこれを与えるのか」と言って、彼らを斬り殺した。

 

 冒頓上馬、令國中有后者斬、遂東襲擊東胡。東胡初輕冒頓、不為備。及冒頓以兵至、擊、大破滅東胡王、而虜其民人及畜産。既歸、西擊走月氏、南并樓煩、白羊河南王。[侵燕代]悉復收秦所使蒙恬所奪匈奴地者、與漢關故河南塞、至朝那、膚施、遂侵燕、代。是時漢兵與項羽相距、中國罷於兵革、以故冒頓得自彊、控弦之士三十餘萬。

 冒頓は軍馬に乗り、国中に出動を命じ、遅参する者を斬った。遂に東の東胡を襲撃した。東胡も初めは冒頓を軽んじ戦備をしなかった。冒頓の軍隊が到着し、東胡を攻撃、東胡軍を大破し、東胡王を撃滅して、東胡の民と家畜を捕獲した。

 冒頓は国に帰還すると、西方の月氏を攻撃して逃走させ、オルドスに侵入して楼煩と白羊河南王を併合した。燕の代国に侵攻し、秦が蒙恬を派遣して匈奴から奪い取った土地をことごとく回収し、(劉邦の)漢を昔の河南長城で塞き止め、朝那、膚施に到って燕と代を侵略した。漢が兵を挙げ項羽と覇権を争う間に、冒頓は三十余万の兵力をもった。

 

 著者の司馬遷も漢王朝の官吏なので、劉邦の敗戦に関する記述を省略しているが、実際には、漢王劉邦の軍勢を白頭山で撃破して屈伏させ、漢王朝に歳貢の義務を課し、劉邦が亡くなると、呂太后に無礼な親書を送って辱めたという。

 烏孫・楼蘭ほか西域の二十六カ国を平定し、東西交易路の商業権を掌握した。匈奴の最盛期を誕生させた単于である。

 東胡はというと、東胡も匈奴に従属し、毎年大量の絹を献上することになり、匈奴の立てた東胡王を支配者として迎える植民地となった。ただ、その一部は大興安嶺に逃れ、鮮卑山と烏桓山に拠って、各々に鮮卑、烏桓として自立したとも言われる。

 

 漢王朝の元勲で、親子二代の親友でもある燕王「盧綰」が漢に叛いた陳豨と通謀していたとの密告があり、高祖(劉邦)は樊噲と周勃に盧綰を討伐させ、劉建を燕王に立てた。

 紀元前195年、盧綰は高祖が崩じたと聞くや、匈奴に亡命して冒頓単于から東胡王に任じられたが、その後すぐに病死した。この盧綰の事件で、燕にいた「満」は千余の兵を連れて東方に脱出。箕子朝鮮を打倒し、王険(平壌)に都を築き、衛氏朝鮮を立てる。

 

 後漢時代、強大になった鮮卑族によって匈奴は駆逐され、中国北方は全土が鮮卑の領域となり、同時に東胡も歴史から消えた。おそらく烏桓か鮮卑族に吸収されたのだろう。

 

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