馬韓通史        

 

 

 百済の前身とされる馬韓の実体は謎に包まれている。

 周の元勲である召公奭(せき)を封じた燕(河北省)は、春秋戦国時代には「戦国七雄」の一国に発展するが、この燕国も中国史籍に詳細が紹介されたのは、犬戎、東胡などの胡族を圧倒して以降。ましてや中原諸国にとって異民族の暮らす遼寧省以北や以東のことは興味の対象外で、中国正史に馬韓が登場するのは「三国志魏書」を待つことになる。

 正始六年(245年)、幽州刺史の毋丘倹が高句麗を討伐、敗走する高句麗を王頎(きん)将軍に追撃させたが、このときの見聞を「三国志魏書」に東夷伝として記載されたことで、初めて中国正史に朝鮮半島の諸国が紹介された。いわゆる魏志倭人伝(「三国志魏書」東夷伝倭人の条)もこのときの見聞録である。

 

『三国志魏書』馬韓伝

 韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有長帥、大者自名為臣智、其次為邑借、散在山海間、無城郭。

 韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、四方は四千里ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない。

 

『後漢書』馬韓伝

 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海閨A地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。

 韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡、南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。土地は合わせて四方四千余里、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である。

 

「南に倭と接する」

 本文の「接する」とは国境を接することを意味し、「唐会要」には南渡海至倭国(南に海を渡って倭国に至る)と海を越えることを明記している。従って、この文面通りであれば、倭国は馬韓の南に国境を接していることになる。これが誤った情報によるものか、あるいは実際に倭人の領域があったのかは解明されていない。

 「魏志倭人伝」は到其北岸狗邪韓國(その北岸の狗邪韓国に到る)との記述があり、前後の文章から、九州の北岸ではなく、朝鮮半島の南岸を指すことが推察できる。この狗邪韓国が倭国連合の一国であれば、馬韓は南に倭と接することになるが、三韓七十八国に狗邪韓国の名がなく、倭国連合の一国だろうと推定されている。

 後漢書の辰韓伝は「国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る」と記しており、倭国の交易拠点として狗邪韓国を置いたとの解釈もできるが、当時の倭にも中国の州郡制の刺史のような官職の一大率が置かれていたとの記述もあるが、朝鮮半島に邑落国家を設けるほど成長していたとは考えにくい。

 狗邪韓国は倭人(倭族)の国家ではあっても、倭国から半島に進出して建国したと考えるより、日本列島に移住せず、半島に残留した倭人の国家と考えるほうが妥当かもしれない。

 

「伯済は馬韓の一国」

 後漢書は南北朝時代の五世紀に南朝宋の范曄が編纂したもので、すでに当時は伯済が馬韓を統一して百済を建国したことが知られており、それを暗示的に特筆したものと推察する。それ以外に伯済だけを意図的に記述した意味が理解できない。

 

「昔の辰国」

 魏志は「辰韓は昔の辰国」、後漢書は「(三韓は)いずれも昔の辰国」と記事が異なる。魏志は「辰王は月支国に治する」と記しており、月支国は馬韓の一国であることから、辰韓を昔の辰国だとするのは矛盾する。あるいは辰国の王族が辰韓に亡命したことを暗示しているのだろうか。表面的な意味では後漢書が正しいと思われる。

 

『後漢書』辰韓伝

 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。

 辰韓。古老は、苦役を避けて韓国に行った秦の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと言う。彼らは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒(酒盃を廻すこと)を行觴と言う。皆のことを徒と呼ぶ。秦語に似ていることから、辰韓を秦韓ともいう。

 

『晋書』辰韓伝

 辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。初有六國、後稍分為十二、又有弁辰、亦十二國、合四五萬戸、各有渠帥、皆屬於辰韓。辰韓常用馬韓人作主、雖世世相承、而不得自立、明其流移之人、故為馬韓所制也。地宜五穀、俗饒蠶桑、善作縑布、服牛乘馬。其風俗可類馬韓、兵器亦與之同。

 辰韓は馬韓の東に在り、使役を避けて韓に入って来た秦の逃亡者だと自称している。言語は秦人に類する故に秦韓という。初めは六国だったが、後で十二国に細分した。弁辰にも十二国ある。合計は四十五万戸、渠帥は全員が辰韓に属している。辰韓は常に馬韓人を領主とし、代々に相承され、自立はできない、明らかに辰韓人は流浪して移って来た人々なので馬韓が全てを制しているである。(中略)その風俗も兵器も馬韓に類している

 

『三国志魏書』辰韓伝

 辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。

 辰韓は馬韓の東に在り、そこの古老が代々の伝承では、秦の使役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと言う。城柵あり、言語は馬韓と同じではない。(中略)これは秦人に似ており、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と言う。東方の人は自分を阿と言い、楽浪人は本来その残存種族だという。今は名があり、これを秦韓とする。初めに六国があり、十二国に細分した。

 

「燕や斉の名称ではない」

 始皇帝は万里長城の修改築のため、全国から労役の人々を徴集したが、酷使に耐え切れず多くの人々が馬韓に逃げ込んだが、魏志は彼らの言語が燕(河北省)や斉(山東省)の名称ではないと特筆していることから、逃亡者の多くが燕や斉の人々だったのだろう。

 ただし、秦語を使うが、燕国や斉国の言葉とは異なることから、燕や斉で服属させられていた異民族あるいは戦国時代に虜囚となった漢族の後裔が逃亡したものと推察する。

 

「言語は馬韓と同じではない」

 言語は秦人に類する故に秦韓ともいう。では、馬韓の言語はどの語系に属したのだろう。

一般には穢系(高句麗や扶余)のツングース語系ではなく、韓族独自の韓語(馬韓語)ではなかったかとされる。現在の韓語(朝鮮語)は新羅が半島を統一した後に浸透した言語で、それ以前の三韓各国の言語は解明されていない。

 後に百済によって馬韓地方が統一された段階は、支配種族が扶余系だったことで支配階級と庶民の言語は異なっていたとの記述があり、ツングース語系でないことは確実だが、漢族の方言である秦語でもないことから漢語系でもない。日本語と同様に多種多様な語系が混在して成立したものと推察される。

 

『三国志魏書』馬韓伝

 凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸。辰王治月支國。

 おおよそ五十余国が在る。大国は万余家、小国は数千家、総計十万余戸。辰王は月支国に治する(統治する)。

 

『後漢書』馬韓伝

 馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。

 馬韓人知田蠶、作綿布。出大栗如梨。有長尾雞、尾長五尺。邑落雜居、亦無城郭。作土室、形如家、開戸在上。不知跪拜。無長幼男女之別。不貴金寶錦罽、不知騎乘牛馬、唯重瓔珠、以綴衣為飾、及縣頸垂耳。

 馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国)、すべての三韓の地の大王である。そこの諸々の国王の先祖はいずれも馬韓の種族である。

 馬韓人は農耕や養蚕を知っており、綿布を作る。梨のような大栗を産出。尾長雞がおり、尾の長さ五尺。邑落は雜居、城郭はない。土で室を作り、家のような形で、上部に門戸がある。跪拜の礼儀を知らない。長幼男女の別はない。貴金属や宝玉、錦はなく、牛馬に騎乗することを知らない。ただ瓔珠(ようじゅ=玉石の一種)を連ね、それを衣服に縫って飾り、首にかけたり、耳に垂らしたりしている。

 

「辰王は月支国に治する」

 魏志は「辰王は月支国に治する」、後漢書は「すべての三韓の地の大王」と表現が異なるが、後漢書のほうが魏志より新しい時代に編纂されており、三韓に関する情報量が多かったことに起因すると推察する。

 辰王は月支国に都に置いて三韓地方を統治したとあるが、月支国に関しては月氏の支族ではないかとする説がある。

 月氏はモンゴル高原の西半分を支配していたが、匈奴に故地から駆逐され、天山山脈を越え、アフガニスタンのアムダリア河を渡ってバクトリアに大月氏国を建国した。後に彼らの支族がギリシャ政権を吸収してクシャーナ帝国に発展させる。

 一方、天山山脈を越えず河西(黄河の西)に移住した一族は小月氏と呼ばれた。おそらく月支国は、小月氏の支族が建てた国家ではないかと想像されている。

 また、皇南大塚から金糸で修理したガラス(ローマンガラス)の瓶が発見されたが、今もイスラエルで作られており、その製作法などに違いがないことから、当時新羅にローマからガラスの輸入が実際行われていたと推定できる(『朝日歴史座談会』)とある。

 このことから新羅に月支国の末裔が存在していた影響ではないかと考えられるが、小月氏の姓は「藍(ラン)」だとする説があり、その説が正しければ「藍」を称するはずなので、支族ではないことになる。

 

『三国志魏書』馬韓伝

 侯準既僭號稱王、為燕亡人衛滿所攻奪@。

 注記@ 魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。

 すでに侯準は王を僭称していたが、燕の亡名者の衛満がすべてを奪い取る。

 注記@ (中略)その後、朝鮮侯の子孫がやや驕慢で、暴虐だったので、燕は秦開将軍を派遣して、その西方を攻め、二千余里の地を奪い取って、満潘汗を以て国境とした。朝鮮は衰弱した。

 

「遼東長城」

 燕の昭王は、北方の匈奴や東胡の侵入に備え、秦開将軍を抜擢して西は造陽(河北省張家口市懐来県付近)から東は襄平(遼寧省遼陽市付近)に到る長城(燕長城)を築かせた。そして、秦開将軍は馬訾水(鴨緑江)を越え、朝鮮との国境を満潘汗(平安北道の博川)とした。これが遼東長城である。

 

「二千余里の地を奪い」

 二千余里(約900km)という表記が正しければ、朝鮮の領地は満潘汗から二千余里の位置(遼西=遼河の西方)まで、すなわち燕国と境界を接していたことになり、朝鮮は中国東北部の大国だったと思われる。

 

 及秦并天下、使蒙恬築長城、到遼東。時朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死、其子準立。二十餘年而陳、項起、天下亂、燕、齊、趙民愁苦、稍稍亡往準、準乃置之於西方。

 秦が天下を統一するに及んで、蒙恬に遼東に至る長城を築かせた。その時、朝鮮王の否が立っていたが、秦の襲撃を恐れ、秦に略服して属すも、入朝は拒んだ。

 否が死に、その子の準が立った。二十余年の後、「陳勝と呉広の乱」「劉邦と項羽の乱」が起き、天下は戦乱となる。燕、斉、趙の民は辛苦から徐々に準(朝鮮)に逃れて行った。準はこれを西方に置いた。

 

「陳呉の乱」

 陳勝と呉広は辺境守備のために兵の引率の補佐を任されて漁陽へと向かっていたが、その道中で大雨に遭い、進軍が遅れ、期日までに持ち場に到着することができなくなった。秦の軍律は過酷で、理由の如何に関わらず期日に到着しなければ斬首である。期日までに到着は不可能。そう判断した陳勝と呉広は反乱を決意する。この小さな反乱が発火点となり、漢の劉邦と楚の項羽の覇権争いに発展していく。

 

 前漢時代(紀元前202年−西暦9年)

 

『三国志魏書』馬韓伝

 準與滿戰、不敵也。(中略)將其左右宮人走入海、居韓地、自號韓王A。

 注記A 魏略曰:其子及親留在國者、因冒姓韓氏。準王海中、不與朝鮮相往來。

 朝鮮王の準は衛満と戦うも、満には敵わなかった。(中略)

 その左右の王族を率いて海に逃れ、韓地に居を置いて、韓王を自称した。

 注記A 魏略には、その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、朝鮮と相往来しなかった。

 

『後漢書』弁辰伝

 弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、言語風俗有異。(中略)初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。

 弁辰と辰韓は雜居しており、城郭や衣服の様式はどれも同じだが、言語や風俗は異なる。初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。後に箕準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になる。

 

『三国志魏書』馬韓伝

 其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者。漢時屬樂浪郡、四時朝謁B。

 注記B 魏略曰:初、右渠未破時、朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用、東之辰國、時民隨出居者二千餘戸、亦與朝鮮貢蕃不相往來。

 その後、絶滅したが、今でもなお韓人は彼を奉じて祭祀する者がいる。漢代は楽浪郡に属し、四季に入朝してきたB。

 注記B 魏略に曰く、初め右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めるも用いられず、東の辰国に亡命したが、彼に随行して脱出した民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに往来せず。

 

「弁辰と辰韓は雜居」

 辰国は馬韓地方を支配しており、その西側の領地を漢族(または秦に徴発された異民族)に分割した。それが辰韓だが、そこには弁韓も雑居していた。そして、衛氏朝鮮およびその従属国(沃沮や濊貊)とは往来をしなかったとある。

 この閉鎖性が中華王朝の先進文化の吸収に遅れをとり、後に三韓地方が扶余や高句麗に侵略される遠因となったとも言える。

 

「満には敵わなかった」

 紀元前195年、燕王の盧綰が匈奴に亡命すると、燕人の衛満(衛士の満。姓不詳)は千余名の兵を引き連れて朝鮮に進入した。朝鮮国を簒奪した年代は不明だが、青銅器文化だったと思われる朝鮮に鉄器文化を持って入り込んだことから、意外と短期間に朝鮮王の準を駆逐したのかもしれない。

 

「韓王を自称」

 箕氏朝鮮(箕子の末裔か否かは不明)の準は韓地(馬韓地方)に進入し、韓王(辰王)を自称したとある。まるでドミノ倒しの様相だが、当時の馬韓には敗走してきた朝鮮の残党に簡単に蹂躙されるほど戦力が乏しかったのだろう。

 箕氏朝鮮は半島南部に興味がなく、全盛期にも馬韓地方を侵略しなかった。従って、馬韓地方は富国強兵の必要性を感じない無風状態のまま時を過ごしたものと推測する。

 

「祭祀する者がいる」

 突然侵入して大王の王権を簒奪した準の信奉者が馬韓内にいるということは、馬韓地方の(あるいは韓族)人々にとって朝鮮は憧れの国家で、国王の準は神のような崇高な存在だと思われていたのではないだろうか。それなら平和裏に大王位を禅譲されたとも考えられる。

 

「箕準の家系は滅絶」

 直系の家系が途絶えても箕氏朝鮮の王侯貴族全員が死滅したとは思えない。前述した神のような準の威光が、彼の死、もしくは彼の失政によって消失し、馬韓諸国が準の後裔や朝鮮の残党には帰順しなかったのだろう。あるいは衛氏朝鮮の圧力があったとも考えられる。

 

「東の辰国に亡命」

 箕氏朝鮮の侵入に続いて、衛氏朝鮮の歴谿卿が二千名の人々を従えて亡命してきた。このことが箕氏朝鮮による韓王(辰王)の独占を妨げたのかもしれない。ただ、東の辰国という表記が気になるが、馬韓地方の東に位置する辰国という意味だろう。

 

 後漢時代(25年−215年)

 

 桓、靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓国。

 桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制御できず、多くの民が韓国に流入した。

 

「韓と濊が強勢となり」

 184年、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」が勃発。百万余の反乱軍を指揮した首領の張角が病死したことで反乱軍は一時的に瓦解したが、後漢政権も壊滅状態となった。

 この混迷の時期に馬韓と濊貊が強勢になったとあるが、他の史料を調べても、この二国が強勢になったと思える記録がなく、この時期に濊は高句麗の属国にされており、むしろ衰退している。従って、韓とは遼東の大豪族となった公孫氏に同盟した扶余系の馬韓(後の遼西百済)、濊とは高句麗を指しているものと思われる。

 

「多くの民が韓国に流入」

 前記の黄巾党は壊滅した訳ではなく、なかでも百万を擁する青州黄巾党と五斗米道を懐柔して陣営に取り込んだ魏の曹操の勢力が一気に増強され、後の晋王朝の基盤を築いた。

 青州は朝鮮半島の対岸の山東省であり、戦乱を嫌った大量の黄巾党が海を越えて朝鮮半島や日本列島に逃げ込んだと思われる。彼らは鬼道に通じた方士であり、時期的に鬼道の女王とさる邪馬臺国の『卑弥呼』の出現と重複する。

 魏志が「黄巾党の乱」の記載を避けたことで、曖昧な記述になったものと推察する。

 

「公孫氏の勃興」

 初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。

 

 建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

 建安年間(196年−220年)、公孫康は屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して(後漢の)遺民を収集するため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方郡に属させた。

 

 建安九年(204年)、遼東郡で自立して勢威を奮った公孫度が死去、息子の公孫康が屯有県以南(楽浪郡の南半部)に『帯方郡』を置いた。

 建安年間は三国時代に突入する直前の混乱期にあたり、独立政権を維持するためにも人員の補強をしたかったのだろう。帯方郡は公孫氏の私設の郡にすぎないが、一種の独立国家として韓族を勢力下に組み入れ、後漢政権からは左将軍の官位を授けられた。

 

「百済(馬韓扶余)」

 建安十四年(209年)、公孫康が高句麗に出撃。高句麗を撃破し、邑落を焼き払った。

 高句麗王伊夷摸の兄である抜奇が部族を率いて公孫康に帰順し、隷属していた胡族も伊夷摸に叛いたので、伊夷摸は卒本城を棄て、丸都城に逃れて遷都した。

 この段階で高句麗は、抜奇系の卒本高句麗と伊夷摸系の丸都高句麗に分裂した(後に卒本高句麗が再統一する)。これと同様に扶余も、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのではないかと推察する。

 そして、分岐した尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。それが百済の建国起源だと考える。従って、百済の実体は馬韓扶余だといえる。

 

『北史』百済伝

 百済国は蓋馬韓の属国。出自は索離国(タクリ国)。(中略)東明は南に奔り、淹滯水を渡り、扶余に於いて王となる。東明の後に仇台がおり、帯方郡の故地に建国する。漢遼東太守の公孫度の娘を娶り、東夷の強国となる。初めに百家(多勢)で済した(渡った)ことから、百済と号した。

 

『唐会要』百済伝

 百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高麗所破。以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居。有東西兩城。

 百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南、東北に新羅、西に越州、南の海を渡れば倭国に至る。北には高麗。王の居城は東西に両城あり。

 

『通典』百濟

 百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海、因號百濟。

 百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の時代に百済王が上表して言うには「臣は高麗の先、扶余より出る」。初め百家(多勢)で済海(海を渡る)した故に百済と号する。

 

「仇台と仇首

 上記のように中国史籍は尉仇台を百済の祖と記している。三国史記だけは始祖を温祚だと主張するが、時代背景を客観的に考察すれば、どう考えても三国史記は分が悪い。

 

『後漢書』高句麗伝

 建光元年(121年)秋、宮と遂成が馬韓と濊貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破り、斬首五百余級を挙げた。この歳、宮が死んで子の遂成が立つ。

 

『三国志魏書』扶余国伝

 夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊、度以夫餘在二虜之間、妻以宗女。

 扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

 

 遼東地方の大豪族である公孫度の娘を妻に迎え、公孫氏に従って遼東の経営に参与したとされる人物だが、公孫度の死去は204年。その八十四年前に尉仇台が登場するのは常識的に不合理である。従って、後漢書と魏志に登場する尉仇台は、同名の別人だと推察する。

 時代的に該当するのは、百済本紀に記された歴代王では、盖婁王(在位128166年)、肖古王(在位166214年)、仇首王(在位214234年)の三人となる。

 古代倭語では仇台と仇首は同音の「くど」、公孫氏が強勢だった時代にも合致しており、魏志に登場する尉仇台とは仇首王のことだと推察する。すでに扶余通史で解説したが、内藤湖南博士の説では尉は氏姓ではなく、実際は中華王朝の地方官を意味するが、夷狄が名前の飾りに借用したものであり、扶余語では仇台と仇首は同音、または近似音だったことから、仇台と仇首混同したのだと想像する。

 筆者は、扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その系譜に連なる者が伯済国を足場にして百済を立てた。それが仇首王なのだと考える。

 

 三国時代(215年−265年)

 

 景初中、明帝密遣帶方太守劉マ、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓国臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。(中略)部從事呉林以樂浪本統韓国、分割辰韓八国以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。

 景初中237年−239年)、魏の明帝は密かに帯方郡太守劉マ、楽浪郡太守鮮于嗣を派遣して、を越えて二郡を平定し、諸韓国の臣智邑君綬を加賜し、その次には邑長に与えた(中略)

 従事(官職名)呉林は楽浪に本営を置いて国を統治し、辰韓国に分割して楽浪に与えた。通訳の伝達に異同があり(約定を違えた)、臣智は激昂、は憤怒し帯方郡の崎離暢営を攻撃した。時の帯方郡太守弓遵と楽浪太守劉茂は兵を挙げ、これを討伐したが弓遵は戦死、二郡を滅ぼした

 

「公孫淵の反乱」

 景初元年(237年)七月、呉の孫権に呼応して公孫淵が魏に叛旗を掲げ、遼東で自立して燕国を号した。翌年(238年)正月、魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼしている。

 上記の帯方郡と楽浪郡の太守は、燕建国時に本国の魏に逃げ戻っていたが、公孫淵が司馬懿との戦いに集中している間に、帯方郡と楽浪郡を奪還する密命を受け、甘言を弄して韓国(三韓諸国)を味方にした。だが、公孫淵を滅ぼすと通訳を通じて約束した条件を違えて、魏の植民地にしたのだろう。三韓は百戦錬磨の漢族を相手にするには愚鈍すぎたようだ。

 

 西晋時代(265年−316年)

 

「晋王朝の誕生」

 咸熙二年(265年)十二月、司馬炎は魏の元帝に禅譲を迫り、皇帝に即位すると、王朝を「晋」と号した。咸寧六年(280年)三月、晋は遂に呉を滅ぼし、中国統一を達成した。

 韓国にとっての仇敵である魏が滅び、晋が帯方郡と楽浪郡を手にすると、頻繁に朝貢外交を再開したようだ。

 

『晋書』馬韓伝

 武帝太康元年、二年、其主頻遣使入貢方物、七年、八年、十年、又頻至。太熙元年、詣東夷校尉何龕上獻。咸寧三年復來、明年又請内附。

 太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献。

 同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。

 太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上。

 咸寧三年(277年)再び来朝、翌年もまた来朝の内諾を請う(原文の順序のまま)

 

「晋王朝の衰退」

 太熙元年(290年)、司馬炎(武帝)の崩御を契機に馬韓の通貢記録が途絶える。

 これ以降、晋は皇族間の「八王の乱」と呼ばれる内乱で衰弱し、304年に内乱が終焉したときは、すでに華北は異民族が群雄割拠する動乱の時代に突入していた。

 304年、晋王朝の混乱に乗じて匈奴の大首長「劉淵」は自立して匈奴大単于を称する。

 308年、劉淵は皇帝を名乗って国号を漢(前趙)とした。五胡十六国時代の開幕である。

 311年、劉淵の後を継いだ劉聡は洛陽を陥落させ、懐帝を虜囚とする(永嘉の乱)。

 313年、懐帝が処刑されたことで、長安にいた司馬鄴(愍帝)が即位して漢に抵抗する。

 316年、長安が陥落して晋(西晋)は滅亡。愍帝は処刑された。

 317年、江南に逃避中の司馬睿(琅邪王=元帝)が建康で晋(東晋)を再興した。

 この後、隋が天下を統一する590年まで三百年近い戦乱時代を迎えることになる。

 

『通典』百濟

 晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。

 自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。其國東西四百里、南北九百里、南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南。(中略)自晉代受蕃爵、自置百濟郡。

 

 晋の時代(265年−316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。

 晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した

 その国、東西に四百里、南北に九百里、南に新羅と接し、北に高句麗と千余里、西は大海(黄海)に極まり、小海(楽浪湾)の南に居住する。(中略)晋代より臣従国として爵位を受け、自ら百済郡を置く。

 

 西晋時代の郡国制では、平州には「昌黎、遼東、楽浪、玄菟、帯方」の五郡国、幽州には「範陽、燕、北平、上谷、広寧、代、遼西」の七郡国が置かれた。

 高句麗の占領した遼東とは、地理的にみて遼東国だけとは思えない。おそらく遼西地方の昌黎を除く、楽浪、玄菟、帯方にも及んだものと推察する。

 百済の占拠した遼西とは遼西郡を指すが、晋平に該当する郡国が分からない。通典は今の「柳城と北平の間」と記しており、晋時代の「昌黎と遼西の間」に該当する。おそらく晋平とは「州の昌黎郡」の意味ではないかと推測する。

 

「馬韓から百済に」

 上記の混乱期に馬韓は百済に変身しているが、具体的な年代は分からない。それにしても

遼西と晋平の二郡を占拠したとあるが、馬韓は帯方郡の南に在り、遼西地方を占拠するには渤海を渡るか、高句麗の領内を通過する必要がある。

 この当時は、すでに高句麗と敵対していたと思われるが、一時的な和睦がなされていたのだろうか(詳細は百済通史に記載する)。

 

                     百済概史目次  漢籍訳文目次