錢 天牛 プロフィール

錢 天牛 (1934〜2000)

1934年1月18日、東京下谷(現在の上野)の銭湯経営者の長男として生ま れる。第二次世界大戦中、ジョホールバルにて、父が戦病死。戦後は母、弟と共に世田 谷区池尻に転居。
その後、東京都立西高等学校を経て、早稲田大学第一文学部仏文学科を卒業

彼が初めて就いた職は映画助監督。 しかし、高校時代から作家志望だった彼は、映画を捨て執筆に専念。とある文学新人賞ノミネートまでこぎつける。
その後、平凡出版社(現マガジンハウス)の週刊誌記者となる。 平凡パンチ、週刊平凡といった当時の人気雑誌にて主に執筆した。名文多し、という。

彼が科学雑誌のライターになろうと望んでいた頃、たまたま星占いの代筆を依頼 されたのをきっかけに、 1970年、12星座をそれぞれ1冊ずつの小冊子に分けた"HOROSCOPE"を刊行。 以来、占星術師となる。
ちなみに、当時彼の執筆の手伝いをしていた文学青年が、後に直木賞作家となる 海老沢泰久氏だった。

その後は 「サンデー毎日」を初めとする週刊誌の連載を中心に、新聞、テレビ、ラジオなど各メディアにて活躍。
気休めを聞きに来るならうちに来るな、と言い切っていた彼だったが、その毒舌ぶりは凄まじかった。あるテレビ番組で大立ち回りを演じ、新聞の投書欄に「どうでもいいけどみっともない」と苦情が寄せられる程。さすが、江戸っ子である。上野の風呂屋の倅はひと味違う。
しかし、何よりも「占いの連載」という、現在となっては当たり前となった占星術スタイルを確立した功績は大きい。

そして、1995年1月17日の阪神大震災を的中させ、世間を震撼とさせる。過去にも何度も地震を的中させたこともあり、「地震的中王」としての地位を不動のモノにする。

その後、やや体調を崩すものの、名古屋テレビ、東京中日スポーツ、埼玉中央よみうり、ニューファミリー新聞、婦人公論、家庭画報、FIGARO japon、NewType、TV Station、神奈川ろうきんにて執筆。また、an-an、Men's EX誌などの占い特集、テレビ朝日"Tonight 2"の出演など、精力的に活躍していたが、2000年1月1日午前6時頃、心筋梗塞のため自宅にて永眠。享年65歳。
心臓など少しも患っていなかったが、晩年は「オレはそろそろ心臓をやられる」と周囲に漏らしていたという。
最期まで「プロの占星術師」だった。

法名は「釋天眼(しゃくてんげん)」。
出典は親鸞の「教行心証」の「天空遠見力」というコトバ。
「星の彼方まで遠くを見ることのできる力」というイミのコトバだそうである。

著書は「ザ・占星術」「現代易占術」「銭流姓名判断」「銭流手相術」「守護霊は自分で探せ」「すぐに役立つ銭流易経」「すぐに役立つ銭流なるほど手相術」「西洋手相術」「自分の運をひらく知恵」など。
1999年1月に、「銭天牛の3年占い」発売。これが絶筆となった。

拾遺:
1994年、とあるお客様との面談中のこと。死期の話題になったとき、彼は「死ぬことは辛くない。あと5〜6年のうち、そう、オレが元気なときにまたいらっしゃい」と言っていたそうである。既にこの頃から、彼は自分の死を予言していたらしい。
そして、「オレなんかより息子の方が占星術師としての才能がある」とも言っていたそうである。
長男がそれを聞かされたのは、彼の死から3ヶ月経ったある日のことである。
全く、妙なプレッシャーのかけ方をする彼であった。

そんな彼は、長男がマンデン・アストロロジーを何となく習得した直後にこの世を去った。そのことは、長男が彼の抱えていた連載を完全に引き継げる状態になったことを意味する。そして、それは1999年12月30日未明のことだった。その直後、親子で一緒に見ていたテレビ番組は、坂本龍一のオペラ"LIFE"である。

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