| 石田三成と大谷吉継 | |
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| 石田三成(1560〜1600): 豊臣政権 五奉行の一人。秀吉没後、 関ヶ原の戦いで家康に挑んだが敗れる。 |
大谷吉継(よしつぐ)(1559〜1600): 敦賀五万石の領主。関ヶ原の戦いでは、 三成と共に戦うが敗れ、自刃する。 |
歴史ファンの中で、石田三成(いしだみつなり)は意外と人気がある。 大谷吉継(おおたによしつぐ)も人気が高い。 二人とも、あまり有名ではない。 せいぜい関ヶ原の合戦で、徳川家康に敗れた武将として知られている程度だろう。 しかし、この二人は歴史ファンのみならず、昔から根強く、庶民から愛されている。 苦労しながらも天下を取った家康が、好かれるのはわかる。 だが、たいした実績もない二人が、人々から好かれる理由は何故か? 今回は、そのあたりを探ってみた。 石田三成の盟友:大谷吉継は、ハンセン病だった。 顔の皮膚が弱っていたため、布で顔を覆(おお)い隠していたらしい。 いくさでは、輿(こし)に乗り、采配(さいはい)を振るっていたという。 (上写真参照) 病気持ちだったが、周りからの信頼は厚かった。 吉継は豊臣秀吉から、 「百万の軍の 指揮をとらせたい。」 と言われたほどの、智将でもある。 ここで三成と吉継の有名なエピソードを紹介しよう。 諸侯を集めた茶会での出来事だ。 茶会では、茶椀を武将同士でまわし飲みする。 そこで、思わぬ事件がおきた。 吉継の鼻水が、茶の中に落ちてしまったのだ。 武将の多くは、普段でさえ吉継の後の茶を嫌がっていたらしい。 吉継の後にまわってきたときは、飲む真似だけをして、次にまわす武将もいたという。 それを知る吉継は、茶をまわすこともできず、茫然(ぼうぜん)自失となってしまった。 そのとき、同席していた三成が 「吉継殿、早く茶をまわして下さい。拙者(せっしゃ)喉(のど)が渇き申した。」 と言うと、強引に吉継の手から茶椀を受け取り、一気に飲み干した。 (『関ヶ原』司馬遼太郎 等より) この事件以来、二人の友情が強まったとも言われている。 秀吉の死後、多くの武将は、圧倒的な力を持つ家康に服従し始めた。 次の支配者は家康と、多くの武将が予想していたからだ。 家康も、天下取りという野望に向け、牙をむき始める。 禁止されている武将同士の姻戚(いんせき)を、無断で進めるなどがその例だ。 豊臣秀頼を推すグループは、はらわたが煮えくり返る状態だったろう。 「秀頼のこと、くれぐれもよろしく。」 そんな秀吉の遺言を、1年も経たないうちに破る家康を、憎まない方が不思議だ。 しかし、誰も家康を止めることができない。 そんな中、石田三成への期待が高まっていった。 だが、力の差は歴然だった。 三成の石高は20万石。 家康の石高は250万石。 兵力は石高に比例する。 それでも三成は打倒家康を決意する。 大谷吉継も、はじめこそ「貴殿に家康を討つなど無謀だ」と、友人の挙兵に反対したが、ついには共に戦う決心をする。 豊臣家という弱者を救うため。 友情のため。 そして、日本の正義を守るため。 こうして二人は、関ヶ原において日本史上最大の戦いを繰り広げたのだった。 ところで、秀吉の死後、庶民は豊臣政権の継続を望んでいたのだろうか? 少なくとも、海外の諸国にとっては、朝鮮出兵を企てたりする豊臣政権は、迷惑な存在だったともいえよう。 もしかしたら庶民も、徳川家康による天下の安泰を望んでいたのかもしれない...。 ただ、秀吉の死後、すべての武将が家康の軍事力の前に屈していたとしたら、少し寂しい思いを抱くのは、私だけではないだろう。 三成や吉継は、家康の粗暴な行いを弾劾(だんがい)し、服従を拒絶した。 「亡き秀吉公の遺言を守り、秀頼公を支えていくことが我々の責任だ。」 「我々が打倒家康として立たなければ、日本の正義は失われる。」 そのような信念のもと、毅然(きぜん)と戦いに挑み、死んでいった人々の代表が、この二人なのだろう。 そんな彼らの生き方に、後世の人々は胸を打たれ続けているのだと思う。 現在、正義とは何かと問われると、答えることは難しい。 正義の名のもと、過激な事件が起きることもある。 痛ましい限りだ。 しかし、正義を守るため、弱者を守るために行動した人に対し、「共感するな、愛情を持つな」というのも寂しい気がする。 なぜなら、正義を軽んじる雰囲気が世の大勢を占めれば、自分の都合だけを優先するような社会になってしまうと考えるからだ。 願わくは、正義のために努力した人々に対し、多くの人が共感できるような社会になって欲しい。 |
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