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(2006年11月 追加しました) 司馬曹達の来帰
西暦200年ころに遼東半島を支配した公孫度、公孫康親子は他人の仮の名と思われます。
前漢の武帝の時代に丞相を務めた公孫弘と度の親子からその名前は借用したものでしょう。
『漢書』公孫弘伝によると、公孫弘は若いころ獄史となったが、罪を得て職を免ぜられた。
四十余歳で『春秋』の経説と雑家の説を学び、前漢の武帝の即位のころ、当時六十歳で京師に徴されて博士になった。
匈奴に使いして帰って復命したとき、主上の意向にそわなかったため、その怒りを受け無能とされた。
そこで病気と称して官を免ぜられ、国に帰った。
そのご再び抜擢され丞相になって六年、八十歳で在職のまま世を去った。
弘の子の度が侯爵を嗣ぎ、山陽郡の太守たること十余年に及んだが、罪を得て築城の労役に服したとあります。
まずは『三国志魏書』公孫度伝を紹介しましょう。
公孫度は字(あざな)を升済といい、本来は遼東郡の襄平の人。
公孫度の父の公孫延は、役人(の追求)を避けて玄菟郡に住み、公孫度は郡吏に任ぜられた。
当時の玄菟太守は公孫域で、その子の豹は年齢十八歳で早死した。
公孫度の幼名は豹といい、また公孫域の子と同じ歳だったので、
公孫域は親愛の情を持ち、教師を就け学問をさせ、妻を娶らせた。
公孫度字升濟、本遼東襄平人也。
度父延、避吏居玄菟、任度爲郡吏。
時玄菟太守公孫域、子豹、年十八歳、早死。
度少時名豹、又與域子同年、域見而親愛之、遣就師學、爲取妻。
(ただし公孫域の域の字は王偏に或と書きヨクと読むようです)。
後年次第に昇進して冀州刺史になったが、流言のため罷免された。
同郡出身の徐榮が董卓の中郎將になり、公孫度を推薦して遼東太守にした。
公孫度は玄菟郡の小役人あがりだったので、遼東郡では軽視された。
公孫度は着任すると公孫昭を逮捕し鞭打って殺した。
遼東郡の豪族や大家の田韶らは皆法律によって処刑し、絶滅した家は百軒あまりに及び、郡全体が震慄した。
東では高句麗を討伐し、西は烏丸を撃破し、その威勢は国外まで行き渡った。
後舉有道、除尚書郎、稍遷冀州刺史、以謠言免。同郡徐榮爲董卓中郎將、薦度爲遼東太守。
度起玄菟小吏、爲遼東郡所輕。
先時、屬國公孫昭守襄平令、召度子康爲伍長。度到官、收昭、笞殺于襄平市。
郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩、皆以法誅、所夷滅百餘家、郡中震慄。東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外。
初平元年(190)、公孫度は中国の騒乱を知ると、官吏の柳毅や陽儀らに
「漢の命運は絶えんとしている。いまこそ、諸君らとともに王の位を狙うべきだ」
と言た。
初平元年、度知中國擾攘、語所親吏柳毅,陽儀等曰:「漢祚將絶、當與諸卿圖王耳。」
遼東郡を分割して遼西中遼郡を設け、太守を置いた。
海を渡って東莱郡の諸県を支配下に納め、、営州刺史を置いた。
自立して遼東侯,平州牧と名のり、父の公孫延に建義侯の称号を贈った。
漢の二祖の霊廟建立し、襄平城の南に壇とぜんを設け天地を祀り、藉田を行い、閲兵式を行い、鈴をつけた車に
乗り、九旒を用い、近衛兵に守らせるなど天子の儀仗を行った。
太祖(曹操)が上表して公孫度を武威將軍とし、永寧郷侯にとりたてると、公孫度は
「我は遼東の王だ、何が永寧郷侯だ!」
といい印綬を武器庫にしまい込んだ。
公孫度が死んだあと、子の公孫康が位を嗣ぎ、弟の公孫恭を永寧郷侯に任じた。この年は建安九年(204)。
分遼東郡爲遼西中遼郡、置太守。
越海收東莱諸縣、置營州刺史。
自立爲遼東侯,平州牧、追封父延爲建義侯。
立漢二祖廟、承制設壇於襄平城南、郊祀天地、藉田、治兵、乘鸞路、九旒、旄頭羽騎。
太祖表度爲武威將軍、封永寧郷侯、度曰:「我王遼東、何永寧也!」藏印綬武庫。
度死、子康嗣位、以永寧郷侯封弟恭。
是歳建安九年也。
十二年(207)、太祖は三郡の烏丸を征伐し、柳城を滅ぼした。
袁尚らは遼東に逃亡し、公孫康は袁尚の首を斬って太祖に送った。
そのため公孫康を襄平侯に封じ、左將軍に任じた。
公孫康が死亡したのち、子の公孫晃,公孫淵らは皆幼かったので、人々は公孫康の弟の公孫恭を遼東太守にした。
文帝が践祚すると、使節を遣わし公孫恭を車騎將軍とし、仮節に任じ、平郭侯に封じた。
公孫康には大司馬を追贈した。
十二年、太祖征三郡烏丸、屠柳城。袁尚等奔遼東、康斬送尚首。
語在武紀。封康襄平侯、拜左將軍。康死、子晃,淵等皆小、衆立恭爲遼東太守。
文帝践祚、遣使即拜恭爲車騎將軍,仮節,封平郭侯;追贈康大司馬。
太和二年(228)公孫淵は公孫恭の位を脅して奪った。明帝が即位し公孫淵を揚烈將軍,遼東太守にした。
初、恭病陰消爲閹人、劣弱不能治國。
太和二年、淵脅奪恭位。明帝即(位)拜淵揚烈將軍,遼東太守。
遼東太守の公孫度を偽名として、公孫度伝を読み直しましょう。
公孫度は、はじめ公孫豹の名前で玄菟太守の公孫ヨクの子に成りすまそうとしたがうまく行かなかったようです。
太守ともなれば有名人過ぎて知り合いも多く、公孫ヨクの子の公孫豹にすり替わることが出来なかったのです。
その代わりにさほど有名人でない公孫延の子に成りすましたのです。
この公孫延は何かの事件で役人の追求を避けて玄菟郡に住んでいたので、
罪を得て職を免ぜられた公孫弘を連想して、
弘の息子の公孫度の名前をつかったのです。
300年以上も前だった前漢の公孫弘、公孫度親子の名前を連想し、
またのちに漢の正当な後継であるように振る舞いましたので、
それなりに漢帝国の事情に詳しい者だったのす。
公孫康はより簡単に公孫弘と同じ音にして漢字のみを変えたのでしょう。
さらに三代目の公孫淵は公孫延の”エン”に帰ったものでしょう。
公孫度は次第に昇進して冀州剌になったが、流言のため罷免されたとありますので、
この成りすましを不快に思う人に中傷されたのでしょう。
そのため所を変えて、中平のはじめ(184年)頃に公孫度は董卓に推薦されて遼東太守になりました。
そして公孫延を知っている公孫昭や田韶らを処罰し、成りすましに邪魔な者は消し、
絶滅した家は百軒余りに及んだそうです。
郡全体を震え上がらせ、異議を差し挟む人をいなくしたのでしょう。
(注) 公孫ヨクのヨクの字は王偏に或と『三国志魏書』では書いています。
『後漢書』桓帝紀の永康元年(167)に
「夫余王寇玄菟、太守公孫域与戦破之。」
とありますので、ヨクの字は「域(イキ)」でもよいのでしょうか。
中平6年(189年)には袁紹が宦官を皆殺しにする事件や、
董卓が洛陽を制圧し少帝を廃し献帝を立てる事件が起きると、
翌年の初平元年(190年)に公孫度は自立して候を名乗り、
漢の高祖と光武帝の霊廟を立て、
そのほか天子にのみに許されるおこないをして漢の正当な後継であるように振る舞いました。
これは不遜の極みで本来なら総反撃を受けるような事態です。
現に袁紹や董卓は潰されたのです。
ところがこの越権行為を示す長い記事のすぐ後に、
のちに魏の太祖になる曹操が上表して公孫度を武威将軍とし、永寧郷候に取り立てた話が続きます。
ということはこの公孫度の越権行為を曹操が認め支持していたのです。
曹操が公孫氏を支持しただけではありません。
公孫度伝に魏の明帝が公孫淵を討伐したとき、淵の属官ら七百八十九人が魏に上書した文が引用されています。
そこに曹操が
『海北の土地は切り離して君にあずけ、子々孫々にわたって支配する権利を与える』
と命じたと書かれています。
(又命之曰:『海北土地、割以付君、世世子孫、實得有之。』)
さらに東夷伝の冒頭付近の文章からは、
遼東の地あたりを絶域(中国と直接関係を持たぬ地域)と見なし、
海の彼方のこととして放置したことがわかります。
(而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事 ・・・.)
ここには天子が絶域としたと明示されています。
単に放置しただけではなく、中国が触れてはならない禁制の地にしたかのようです。
公孫度が遼東太守になるには、董卓との連絡があったようですから、この天子は献帝でしょうか。
公孫度の自立とは漢皇帝の許可があってのものであり、
漢の高祖と光武帝の霊廟を立てたのも、漢の都(洛陽)が焼失したことに対応したのでしょう。
一般に歴史書で扱われているものとは、少し色合いが違うようです。
もう一つの疑問は、
公孫度の自立は各地に群雄の自立を促すような行為だと思われるのに、
逆に少しの間ですが群雄割拠を押さえていたように思われる点です。
群雄が興隆してもそれは名目上漢皇帝の下の群雄であって、漢を否定するかたちではなかったのです。
赤壁の戦いで曹操が劉備と孫権の連合軍に敗れ、
天下三分の大勢が成ったのは二十年近く後の208年です。
その後さらに十年近く経った220年代はじめに、
曹操や公孫康が死に、劉備が帝位につき孫権が呉国を建てて三国分立が確定します。
ほかの疑問は公孫度伝の始めに、公孫度は本来遼東郡の人であるとあります。
ところが”七百八十九人の上書”には、
「公孫度は、はじめて当地ににまいり、郡の治世にあたって以来」
とありますので、もともと遼東郡の人ではなかったのです。
どこから来た人でしょう。
(淵祖父度初來臨郡)
これらの疑問に立ち入る前に、公孫氏の情報をほかに探しましょう。
『三国史記』高句麗本記
168年 玄菟太守の耿臨が高句麗を討伐した。高句麗王伯固は降伏して玄菟に内属したいと願い出た。
169年 高句麗王伯固は大加の優居や主簿の然人などを送り、玄菟太守の公孫度を助けて富山城を討った。
(注釈によると、公孫度が玄菟太守を歴任した事実は見当たらないそうです。)172年 漢は大兵を率いて高句麗を攻めたが、高句麗は城壁を巡らして堅く守った。漢が遠征のため飢困に陥って引き帰るのを高句麗が追撃し破った。
184年 漢の遼東太守は兵を起こして高句麗を攻めた。
197年 漢は大いに乱れ、多くの漢人が乱を逃れて流入した。
197年 王位継承に失敗した発岐(抜奇)は遼東に逃げ太守の公孫度に援軍を求めた。
『三国志』魏書高句麗伝
169年 玄菟太守の耿臨が高句麗を討ち、遼東郡の支配下に入った。
172年から178年の間 高句麗王伯固が願い出て、玄菟郡の支配下に入いることになった。公孫度が海東の地域に勢力を伸ばすと、高句麗王伯固は公孫度に力添えをして、富山の賊を撃ち破った。
建安年間(196年から220年) 公孫康は軍を出して高句麗に攻撃を加え、その都を破った。王位につけなかった高句麗の抜奇は三万余人を率いて公孫康に降服した。
高句麗王伯固は『三国史記』によると179年に死去しています。
伯固が公孫度に力添えをして富山の賊を撃ち破ったのは、『三国史記』にあるように169年なのでしょう。
発岐(抜奇)が遼東に逃げた年を『三国史記』に従い197年にすると、その年は公孫度はまだ生きていました。
『三国志魏書』公孫度伝によると、公孫康が度の位を相続したのは204年です。
これら両者にあやふやな点が有ります。
一つの注目点は、170年頃漢に破れた高句麗は遼東郡ではなくて、玄菟郡の支配下に入ることを望んだことです。
もともと玄菟郡は前漢の武帝が朝鮮を征伐した後、半島に置いた四郡の一つでしたが、
何度か移設されて当時は遼東郡の北方に位置していました。
より交通の便が悪く、たぶん未開な辺境に位置した郡の支配下に入ることを望んだのはなぜでしょうか。
そのほうが支配力が弱いと計算したのでしょうか。
高句麗を討ったのは玄菟郡だったのですからその可能性は少ないでしょう。
高句麗はもともと夫余の出らしいので、北方に親近感があったのでしょうか。
むしろ高句麗は南下を指向しており、そのため度々漢の遼東郡や楽浪郡を侵犯したのでしょう。
ひとつの可能性は当時すでに公孫度が玄菟郡で何かを始めており、それが魅力だったのではないでしょうか。
前にも紹介したように『後漢書』桓帝紀には、
永康元年(167)に夫余王が玄菟を侵犯し、太守公孫域が戦ってこれを破ったとありますが、
当時すでに夫余は漢と友好的な関係にあったでしょう。
『三国志魏書』の公孫度伝には公孫ヨクは公孫度に愛情を注ぎ、学問をさせ、彼のために妻を迎えてやったとあり、
公孫域と公孫度は親子的関係だったのです。
高句麗は玄菟郡と交易などを希望し、当時中国との交易には朝貢の形を取らなければならず、
168年に玄菟郡に降服したとして漢に許可を求めたのでしょう。
ところが漢にとっては玄菟郡は名ばかりで他の国のようなものであり、遼東郡の支配下に置くことにしたのです。
高句麗は玄菟郡との友好的な関係を希望し、遼東郡の支配を嫌ったので、
172年に漢は大兵を率いて高句麗を攻めたが大敗したのでしょう。
高句麗が願い出て、玄菟郡の支配下に入いるにはそのような経過が必要だったのです。
公孫度が遼東太守になったとき、高句麗は交易相手を玄菟郡から遼東郡に変更する必要があったでしょう。
そのため184年に漢の遼東太守は兵を起こして高句麗を攻めたとしたのです。
永康元年(167)の夫余王が玄菟を侵犯したことにも、高句麗と同じような意味があったでしょう。
167、168年と相次いで夫余と高句麗が玄菟郡と交渉を持ちだしたのです。
このように160年代の終わり頃にはすでに公孫度が玄菟郡でかなり勢力を伸ばしていたのです。
のちに公孫氏の支配地区を海北の地として漢から切り離し放置したのは、異民族との交易などを自由に認める意味もあったでしょう。
公孫度はどこからか玄菟郡に渡り、
160年代の終わり頃には太守に匹敵するほどの勢力をつけ、
180年の中頃には遼東郡に移り遼東太守になった。
公孫度伝は「公孫度は字は升済といい」と始まります。
済度とは水を渡ることや、人々を救済することを言うそうです。
海を渡り、漢を救いに ノボ(升)ったと連想したくなります。
漢の皇帝や曹操が公孫度の支配地区を触れてはならない禁制の地にしたにもかかわらず、
曹操が死んで二十年たらず後に、その三代目の明帝が遼東の公孫氏を討ち、
しかもそのとき兵士以外にも大量の殺戮を働いたらしいのです。
曹操が公孫度を武威将軍とし永寧郷候に取り立てたときの印綬は武器庫にしまい込まれたと公孫度伝にあります。
討伐後に司馬懿 (司馬宣王)が公孫氏の倉庫を検分したときそれらの印綬と共に、
関連した経緯などを示すものも有ったでしょう。
司馬懿はそれらを公孫淵の首に添えて魏の都の明帝のもとに送ったのです。
明帝のもとには公孫度に関する古い話を知っている者もいて、
遼東を禁制の地にした経緯を再確認できたでしょう。
公孫淵の兄、公孫晃が官位について洛陽いたので、
明帝は彼を助けるつもりだったが所管の役人が反対し、けっきょく殺してしまったとあります。
魏と公孫氏の古い関係を再確認したのは公孫晃一族を皆殺しにした後だったのです。
公孫度伝によると、幼少のとき公孫淵は魏の都にいたらしいのです。
幼少のときの弁舌は朝廷において有名であり、立派な文章を朗読したことは、語り草になっていたとあります。
兄弟共に魏の都とは深いつながりがあり、魏朝と公孫氏はもともと友好的な関係だったのです。
公孫恭は公孫晃と淵の兄弟を魏の都で教育させ、
兄のほうは魏の都に残し、
弟のほうに遼東太守を継がせていたのでしょう。
公孫氏の支配下に入ったので、
遼東郡や楽浪郡を絶域と見なし海の彼方のこととして放置したことは注意すべきことだと思います。
漢代の長城は遼東の南にあったようですが、
秦代の長城は遼東の北まで延びていました。
少々のことで域外として放置するような地理的な状況ではないでしょう。
とすれば政治的な条件があったのです。
ほかに、同じように海上の絶域とみなした例を一つ知っています。
『後漢書』の倭伝はヒミコの記事のあとは、
朱儒国、裸国、黒歯国となにやら架空の国のお話になり、
つづけて「使訳の伝える所ここに極まる」となります。
そのあと会稽・東冶の東方海上の話になり、「所在絶遠 不可往來」で終わります。
後漢帝国は倭を絶遠に在るように思わせ、往來の不可な秘密基地としていたのです。
さらに遼東郡や楽浪郡を倭と同じように海上の絶域とみなしたのです。
漢にならって曹操も海北の土地は切り離して公孫氏にあずけ、子々孫々にわたって支配する権利を与えたのです。
だいぶ材料がそろったので、そろそろ素人が得意な連想と飛躍に入りましょう。
少ない情報を連想と飛躍と思い入れで補うことは素人の特権です。
公孫度と曹操の接点は山東半島です。
海をはさんで遼東半島に面した山東半島の北東部を一時公孫度は領有していました。
これはその地の黄巾の乱を公孫度が鎮めたからです。
反乱した農民に穀物の種を与え、荒れた田畑を整理し、屯田兵に編成したのでしょう。
公孫度は海の彼方の絶域から中華に進出できる足場をえたのです。
公孫度はこのチャンスを自らは利用しないで曹操に与えたのです。
これに曹操は助けられ出世のチャンスを得たので、公孫度は曹操にとって大恩人だったのです。
公孫度が曹操を助けた条件は漢の天子を支えることでしょう。
196年(建安元年)に曹操は各地を転々としていた献帝を迎え入れ、その周辺に屯田を開き、漢の混乱が一服しました。
私は公孫度は漢を支援するために、海を渡った倭王の偽名だと思います。
支援には行ったが、それ以上中国の王権に深入りすることは避けたのです。
それは再び興亡を繰り返す中国の仕組みに取り込まれることであり、
倭に安定政権を造る目的から外れてしまうからでしょう。
公孫度は帰ってきた王莽の縁の者と不正確な情報が流出し、
袁紹が宦官を皆殺しにする事件や董卓が洛陽を制圧し、
少帝を廃する事件が起きたのでしょう。
そのため公孫度は漢を支持し引き継ぐことを、漢の高祖と光武帝の霊廟を立てることで表明したのでしょう。
『後漢書』献帝紀の初平元年(190)に、
所管の官が秦すらく、
「和、安、順、桓の四帝は功徳無ければ、宜しく宗と称すべからず。
また恭壊、敬隠、恭愍の三皇后は並びに正嫡に非ざれば、まさに后と称すべからず。
皆な請うらくは尊号を除かん」。
制して曰く、「可」。
とあります。
恭壊、敬隠、恭愍の三皇后とは、和帝の母、安帝の祖母、順帝の母です。
皇帝の功徳がないのでその皇后を后と称すべからずとしたのではありません。
皇帝の母や祖母を否定したのです。
和、安、順、桓の四帝とそれを擁立した外戚を否定したのです。
第四代和帝や第六代安帝の頃からすでに、外戚が大きな力を持ち皇帝さえも決めていたのです。
西暦107年の帥升等の朝貢のときには、外戚に力が無く王位から疎外されていた不幸な王族がいたでしょう。
場合によっては身辺に危険なこともあったでしょう。
そのような王族は、倭の朝貢の帰国のときに亡命とまでは行かなくても、農業技術指導団の団長として、倭に同行した可能性は大いにあります。
公孫度が海を渡り大陸に移動したことには、漢を支えるほかにもう一つの目的があったと思います。
倭に来ていた漢の劉氏が、倭地で漢の滅亡を座視するに忍びず、帰国を希望したでしょう。
死にに帰るようなものだったが、最大限の協力を倭王がしたのでしょう。
帥升等の朝貢の50年後の157年の漢への朝貢が漢の混乱で失敗し、
その直後から漢を支援することと、帰国を希望した漢の劉氏を漢王室に返すための努力を始めたでしょう。
漢に帰った劉氏は漢の献帝になったかまたは、その極めて近くに在ったでしょう。
子か孫が公孫晃と公孫淵の兄弟だったのではないでしょうか。
三国史記には本文のほかに「進三国史表」(三国史記を上進する書)があります。
この文は私が参考にした六興出版の翻訳本では本文として一番最初に置かれていますが、
東洋文庫の訳本では本文以外の文として一番最後の解説に引用されています。
そのなかで三国史記を完成する動機を次のように記述しています。
中国の歴史書に三国の列伝があるが、自国のことは詳しいが外国に関することは簡略にして、つぶさに記載していない。
皆有列伝 而詳内略外 不以具載
それでは中国史書との違いをどのように記述しているのでしょうか。
一つの例を見てみましょう。
『三国志』魏書高句麗伝に高句麗王伯固とその二人の息子の話があります。
長男の名は抜奇といい弟を伊夷模といいます。
みなが弟の伊夷模を王に立てたので、長男の抜奇は三万余人を率いて公孫康のもとにおもむき投降したとあります。
たほう『三国史記』高句麗本紀の故国川王の冒頭にもほとんど同じ内容の記述があります。
故国川王とは伯固の次男で伊夷模のことです。
また伯固が死去し伊夷模が共立されて王位に着いたのは179年のことで、抜奇が公孫康に投降したのは漢の献帝、建安元年であることが判ります。
建安元年とは196年のことです。
さらに読んでいくと故国川王は翌197年に死去しています。
このあたりから何か腑に落ちない点が出てきます。
故国川王のあとは山上王が継ぎました。
山上王は故国川王の弟だそうです。
故国川王が薨ずると王后はそれを秘密にして、王弟の発奇(抜奇)の家に行き王位を継ぐように進めたが、発奇は王の死を知らなかったので断ったようです。
それで王后は延優(伊夷模)の家に行き、延優は王后を歓待し、翌朝先王の遺命と称して王位に着いてしまった。
発奇は怒ったが、情勢が不利なので公孫度のもとに逃げ去ったそうです。
『三国志』は、高句麗王伯固の次の次の代の話を間違って次の代として書いてしまったのです。
『三国史記』は中国史を少しも否定することなく、
中国史に従い次の代にも書き、さらにその次の代に詳しく書いているのです。
このように三国史記の書き方は、先ず中国史書に忠実に従い、
次いでまるで別の話のように自国のことを詳しく記述しています。
この点をはっきりと意識しなければ何やら混乱があるように見えるのです。
抜奇と伊夷模の物語は『三国史記』のほうが詳細なのでしょうが、私はもっと大きな国際的な環境変化が有ったと思います。
『三国志』では当時、高句麗は逃亡してきた胡族の五百余家を受け入れていたとあります。
また漢も大いに乱れ漢人が乱を逃れて遼東群や高句麗にも逃れて来ていたときです。
それらの流民の帰属や移動に関して遼東群と高句麗の間に大きな動きがあったでしょう。
さらに献帝が曹操に迎入れられ都に戻ったときでもあります。
公孫度が中華の中央政治にさえ、最も大きな影響力を持ったときでしょう。
そのようなとき隣国が国を二つに分け一方は公孫氏に従い他方は距離を置いたのでしょう。もっと直接的に私の想像を書きます。
漢の都が消失し献帝が放浪するようになると、公孫氏は漢の支援のため中華に進出する必要を感じ、周辺の異民族への誘いかけも含み手を尽くしたでしょう。
結果的には曹操が献帝を探し出して迎入れることに落ち着いたが、そのときの周辺諸国の変動の一つが高句麗伝に残ったのでしょう。
『三国志』魏書高句麗伝では169年に玄菟太守の耿臨が高句麗を討ったとありますが、
『三国史記』高句麗本記 ではそれが168年になっています。
これは間違いなのでしょうか。
これも中国史書に忠実に従い、高句麗にとって本当の話を169年に記したのでしょう。
169年に高句麗王伯固は、玄菟太守の公孫度を助けて富山城を討った。
玄菟太守の耿臨とは実はのちの公孫度のことだったのです。
耿臨は音が王臨に似ていないでしょうか。
王臨とは倭に天降った王莽の末っ子、統義陽王です。
その何代か後に玄菟に逆降臨した倭王が王臨、耿臨と名乗ったことがあったのでしょう。
公孫康が度の位を相続したのは204年です。
開化が死んで崇神が位を継いだのは太歳甲申です。
この甲申の年を204年として、日本書記を読み直し王権の誕生にまとめました。
公孫康の遼東での実績は帯方郡の設置以外にあまりありません。
公孫度は遼東の地でその目的を果たしたのです。
公孫康は遼東を引き払うその途中で、帯方郡の設置と開発を指示して倭に帰ったのです。
開化は名があまり適当に思われません。
公孫度は倭では開化と呼ばれるような仕事をしていません。
公孫度の倭王名を『三国志魏書』公孫度伝から探しましょう。
魏の明帝が公孫淵を討伐したとき、淵の属官ら七百八十九人が魏に上書した文に
「はじめて当地にまいり、・・・日月のような輝かしい文化を開き、神業のごとき武略をうちたて・・・」
淵祖父度初來臨郡、承受荒殘、開日月之光、建神武之略、聚烏合之民、掃地爲業、威震燿于殊俗、徳澤被于群生。
とあります。これからはじめは神武を予定したのでしょう。
光武帝に朝貢し大和に東征した初代は倭の文明を開化し始めたのです。
ところが倭の歴史から中国との関わりを消去したとき、初代にはふさわしい話などがなく、
景気を付けるため、開化と神武の名を入れ替え、
崇神のハツクニシラススメラミコトの名も頂戴して、
初代神武(ハツクニシラススメラミコト)が成立したのでしょう。
小竹武夫訳 『漢書』(筑摩書房 昭和52年、学術文庫版 1998年)
今鷹真他訳 『三国志』世界古典文学全集24(筑摩書房 昭和52年、学術文庫)
金思Y訳 『完訳 三国史記』(六興出版 昭和55年)
川勝義雄著 『中国の歴史3.魏晋南北朝』(講談社 昭和56年)
吉川忠夫訓注 『後漢書』(岩波書店 2002年)
坂本太郎他校注 『日本書記』(岩波文庫 1994年)
宇治谷孟訳 『日本書記』(講談社学術文庫 1988年)
漢文による中国史の引用は、http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/genkan/(ALEXの寓居)を利用させてもらいました。
私は『三国志』を読んで、公孫晃と公孫淵は公孫康の子ではなく実は献帝の子でないかとの印象を持ちました。
そのような話を持ち出すと読者に”キワモノ史”と疑われそうな心配があって軽く触れただけでしたが、これらの点に戻りましょう。
『三国志・明帝紀』に次のような話があります。
魏の第二代の文帝の頃、文帝が後の明帝を従えて狩りをしていたとき、子を連れた母鹿に出会った。
文帝は母鹿を射殺し、明帝に子鹿を射させようとすると、明帝は従わず、
「陛下は既にその母鹿を殺した。私はその子をまた殺すに忍びません」
と涕泣した。
魏末傳曰:帝常従文帝猟、見子母鹿。文帝射殺鹿母、使帝射鹿子、帝不従、曰:「陛下已殺其母、臣不忍復殺其子。」因涕泣。文帝即放弓箭、以此深奇之、耐樹立之意定。
『公孫度伝』の最後は公孫晃の話で終わっています。
公孫淵の兄の公孫晃は公孫恭のおかげで官位について洛陽にいた。
公孫淵が敗北して首が洛陽に到着すると、公孫晃は殺されると判断してその子と相対して号泣した。
当時、明帝は助けるつもりだったが、所管のの役人が反対して公孫晃を殺した。
魏略曰:始淵兄晃爲恭任子、在洛、聞淵劫奪恭位、謂淵終不可保、數自表聞、欲令國家討淵。
帝以淵已秉權、故因而撫之。
及淵叛、遂以國法繋晃。
晃雖有前言、冀不坐、然内以骨肉、知淵破則己從及。
淵首到、晃自審必死、與其子相對啼哭。
時上亦欲活之、而有司以爲不可、遂殺之。
さらに『明帝紀』から断片的に拾うと
景初二年年(238年)春正月、司馬宣王に詔して遼東の公孫淵討伐に出発させる。
九月十日、司馬宣王が公孫淵を襄平で包囲し、大いに破って、公孫淵の首を都に送り届け、海東の諸郡を平げた。
十二月八日、明帝は病の床についた。
二十四日皇后を立てた。
三年春正月一日、司馬宣王が帰還して河内に到ると、明帝は彼を召し寄せ幼い斉王(曹芳)と秦王(曹詢)を補佐するように託した。
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。
丙寅、司馬宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。
十二月乙丑、帝寢疾不豫。辛巳、立皇后。
三年春正月丁亥、太尉宣王還至河内、帝驛馬召到、引入臥内、執其手謂曰:「吾疾甚、以後事屬君、君其與爽輔少子。吾得見君、無所恨!」宣王頓首流涕。即日、帝崩于嘉福殿、時年三十六。癸丑、葬高平陵。
勞問訖、乃召齊,秦二王以示宣王、別指齊王謂宣王曰:「此是也、君諦視之、勿誤也!」又教齊王令前抱宣王頸。魏氏春秋曰:時太子芳年八歳、秦王九歳、在于御側。
また『斉王紀』の冒頭は次のように始まります。
斉王は諱を芳、字は蘭卿という。明帝は子が無く、斉王と秦王詢を養育していた。宮中の事は秘密なので、その由来を知るものはなかった。
青龍三年(235年)、斉王に立てた。
景初三年(239年)正月丁亥朔(十二月一日)、明帝が重体となって、斉王を皇太子に立てた。
同日、皇帝位につき大赦を行った。
斉王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢;宮省事秘、莫有知其所由来者。
青龍三年、立為斉王。
景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。
是日、即皇帝位、大赦。
これらの話から私は公孫晃と公孫淵は献帝の隠し子ではないかと連想しました。
はじめの親子鹿の話に戻りましょう。
中原の鹿とは皇帝(天子)のことです。
220年曹丕は漢の献帝から禅譲を受けて魏朝の文帝に成ります。
文帝が母鹿を射殺したことに当たるでしょう。
ちなみに文帝は226年、山陽公(献帝)は234年に没しています。
明帝の子鹿射殺は公孫晃と公孫淵兄弟討伐にあたるでしょう。
だから隠し子と連想したのです。
前漢の公孫度は10年程山陽郡の太守だったことがありました。
献帝の擁立に後漢の公孫度の働きがあったと連想させるような”山陽公”です。
この先はさらに自信がないのですが、
宮中秘事で由来のよく解らない明帝の二養子は公孫晃の息子ではないかと疑うことができます。
『公孫度伝』の最後の話で明帝が公孫晃を助命しようとしたが、
所管のの役人が不可となし殺したとは不自然な話です。
後になって心変わりをして調べさせたところ殺した後だったのでしょう。
公孫晃の子が十五歳以下であれば生き延びていて、奴隷に売られていたでしょう。
それらの子を保護し身近に置いた可能性はあります。
ただし、陳寿のあいまいな表現が様々の解釈を生んだとどこかで読んだ記憶があります。
このような説も既に誰かに論じ尽くされていることかもしれません。
いずれにしても明帝の公孫淵討伐はかなり”やばいやり過ぎ”だったのでしょう。
後事を託された司馬宣王は疎まれ苦しい立場に立って 一時は引退しました。
それでも身の置き場がなく、遂にクーデターを起こし実権を奪い、晋王朝につながって行くのです。
以前インターネットで”永寧郷”を検索すると、雲南省の秘境観光案内のようなページに行き当たりました。
現在でも秘境なのです。
曹操が上表して公孫度を永寧郷侯にとりたてると、公孫度は
「我は遼東の王だ、何が永寧郷侯だ!」
といい印綬を武器庫にしまい込んだとの話を誰も疑わないのでしょうか。
曹操と魏の明帝が遼東を海外の絶域としてその自立を認めた後では、
公孫氏が明帝や曹操との連絡のため漢帝国内を自由に往来するには不自由があったでしょう。
曹操は感謝感激で公孫度に高位高官を思いのままに申し出るよう伝えたが、
公孫氏は漢国内を自由に動き回れるための最低の官位を求めたでしょう。
公孫氏が漢の官位を受けても、そのため官位を失った人に憎まれない地位が永寧郷侯だったのです。
公孫恭が漢と遼東との連絡役だったのでしょう。
(2003年6月)
(2003年12月)
献帝の隠し子の子孫(司馬曹達)たちが409年(応神20年)倭に来帰しました。
倭名は阿知使主です(倭漢直の先祖)。
阿知使主の来帰への長い道のりの方向付けをしたのは、
司馬宣王(仲達)の最後の仕事のようです。
日本武尊も一枚かんでいるようです。
その詳細は、『倭国大乱』 、『景行天皇』、『仲哀天皇・神功皇后』、『応神天皇』を参照してください。
また開化(公孫度)は公孫域が子を亡くしたので、養子になっようです。
その直後(150年頃まで)ヤマトでは疫病が流行り、
結果として開化だけが生き延びたようです。 『欠史八代』
(2006年11月)
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| 垂仁天皇 | かけはなれて度量が大きかった |
| 景行天皇 | +五十瓊敷王、日本武尊、成務天皇 |
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