■小説『天下第一』 完結篇 改編版■ 原作:orion / 訳:yan
本編はorionさんによる創作小説を翻訳したものです。
orionさんの構想では、全体で10章から成る長編小説になる予定ですが、第1章から8章までは完成
しておらず、ドラマ『天下第一』の結末部分を改編した、第9章と最終章が2005年8月に、霍建華の
公式HPに発表されました。
この小説では、四大密偵の運命は、ドラマとは全く違う展開を辿り、実に余韻の残るフィナーレを迎えます。
原文はorionさんのblog site Wallace Huo (ウォレス・フォ)霍建華 愛與夢的飛翔 でご覧になれます。
■第9章 花自飄零水自流
| 第9章 花自飄零水自流 花は自ら落ち、水は自ら流れる 「段大侠、帰海大侠、海棠姑娘、是非とも皇帝陛下を助けてくださるようお願いしますぞ。謀反人の朱無視は除かねばなりません」文華閣大学士、傅鉄城は声を低く抑えてはいたが、その口調には有無を言わさぬ響きがあった。「これは皇命であって、逆らうことは成りませぬ」 海棠は黙して語らなかった。彼女は神侯を弁護すべきだと感じたが、数日前、神侯が彼女と天涯たちの前で、自ら手を下して、一刀の2本の経脈を断ったのは、一刀を18年間養育し、高名遠方まで轟き、悪を激しく憎む武林の大宗師とは、とても思えないほどの冷酷な仕打ちだったのを思い起こした。彼女は振り返って一刀を見た。一刀の顔つきは意外なほど平静で、喜びも怒りも表してはいなかった。海棠は彼の右手の空っぽの袖をちらと見て、心の中がまた、ひとしきり痛んだ。 「そのようにおっしゃいますが、証拠がない以上、仰せに従うことはできません。」 段天涯は頑なに答えた。これまで彼は、雪姫のためにのみ生き、彼女の死後は、養父の朱無視だけがただ一人の家族だったのだ。「それに私は、もう二度と江湖のことには関わらないと飄絮に約束しました・・・。」 傅鉄城は、れっきとした天子の聖勅に従わない者がいるとは思いもよらず、いまこそ大義の時であると説得しようとした矢先、成是非が突然口を開いた。 「天の第一号の段殿、俺はあなたほど学問もなく、文字も知らないが、人の良し悪しはわかりますよ。あの日、神侯が一刀兄貴にどんなことをしたのか、見てなかったんですか?一声を発しただけで、肩甲骨をあやうくバラバラにされるところだったんですよ ! 飼い犬にでさえ情を感じるというのに、神侯の仕打ちときたら、まるで一刀兄貴が犬にさえ及ばないようじゃないか・・・」 話が終わらないうちに、雲蘿の手の平が成是非の後頭部を見舞った。「あなたったら、変なこと言わないで。一刀兄様のような素敵な方に犬とは何よ!犬の口から象牙は生えないっていうけれど、あなたみたいな人に、ご立派なことは言えないの!」 「どうあれ、我が義兄陛下のために、ここで一か八か勝負を賭けるのさ!」成是非は偉そうに語った。 傅鉄城は、婿君はいまだ博徒の本性が抜けないようだ、と心中密かに思った。「帰海大侠、あなたはまだ傷も癒えていらっしゃらないが、この件は・・・」 「あなた方は、あの日、神侯が私に対して何をしたか、ご覧になったでしょう。私と神侯の間には、もはや何の関わりもありません。」一刀はわずかにこれだけ言って、海棠の方に視線を向けた。「私はただ、誰も傷つくことがないようにと望んでいるだけです。」 海棠は心の中で、ある痛みを感じていた。これまでずっと傍らにいて、ただ黙って彼女を護ってくれたのは、天涯でも神侯でもなく、この寡黙なひとなのだ。彼女のために、自分の体の内外にあまたの傷を負った。彼は感情を決して外には出さないが、彼女にはわかっていた。彼の心は誰にもまして彼女のことが気掛かりなのだ。このような胸の疼きはいつの頃から始まったのだろう、彼が狂ったように父の仇を捜し求めていたときか? あるいは彼女を傷つけてしまうことに耐えられず、自ら腕を切り落としたときか?それとも、あのひんやりとした雪の積もった場所で、深く口づけを交わした時だろうか・・・いや、もっと早かったに違いない、ただ彼女自身がそれに面と向き合おうとしなかっただけだ・・・。 「私は養父のこのような有様を見たくはありません。一刀と行動を共にします!」海棠はもはや躊躇しなかった。今こそ、この人に恩返しをする時だ。 「では、段大侠・・・」 「申し訳ありませんが、私はお暇を申します。二度と江湖の恩讐には関わりたくありません。何とぞ傅大学士より、お上にお伝え願います!」 「ならば、成の婿君、帰海大侠と海棠姑娘の3人ですな。それがしは大急ぎで御林軍の弓の名手を集め、援軍を編成するとしましょう。必ずやあの叛徒を除かずにはいません 。」 段天涯は去った。一刀、海棠、成是非と雲蘿の四人は、計り知れない武功の持ち主である神侯にいかに対するべきか、思案をめぐらした。 傅鉄城が四名の侍衛を連れて,御林軍の統領府に行こうとしたとき、突如、殺気が漂った。 身を切るような冷たい刀気があたりを席巻するや、屋内の蝋燭までもが激しく揺らめいた。一同は何者かが侵入したかと驚き、外に飛び出すと、地面には、ばらばらに折り重なった死体がころがっている。四名の侍衛はすでにこときれていた。背丈はあまり高くなく、顔を覆い、日本の忍者のような身なりをした刺客が,ちょうど、傅鉄城の喉もとからゆっくりと短剣を引き抜いたところだった! 一刀や海棠などの武芸の達人の面前でかくも容易に人を殺すとは、その技量のほどは、おそらく神侯や曹正淳ら最高の遣い手たちにも劣るまいと思われた。一刀ら三人はすぐさま相手と対峙し、得意技を繰り出して、極めて武功の高いこの刺客を倒そうとした。けれども覆面の刺客は闘うことを望まず、数個の雷火弾を投げて、一刀らの攻撃を防いだ。一刀らは傅鉄城の生死が気がかりで、あえて追跡しようとはしなかった。だが傅鉄城はおびただしい血を流してすでに絶命していた。 海棠には別の考えがあった。覆面の刺客が逃亡するときに、彼女は「滿天花雨」の技を用いて燐粉を播き、暗闇の中で有利に追跡できるようにしたのだ。見ると、一本の淡い暗告Fの光が木々の間の中に消えていった。彼女は深く考えず、一刀に一声掛ける暇もなく、すぐに後を追った。 轟は闇夜の中で現れては消え、あたかも死神の目のようであった。やがて一筋の燐光は段天涯と柳生飄絮の山上の寓居に通じる場所のあたりで消え、海棠の心には、突如として不吉な予感が生じた。 一刀が振り向くと、海棠の姿が見えない。彼の心は焦ったが、さすがに武術の達人の名に恥じず、たちまち気を落ち着けると、数百丈ほど離れた木々の葉の動く音に耳を澄ませ、たちどころに軽功を駆使して後を追った。成是非の方は全く落ち着きがなかったが、一刀が追跡するのを見るや、近頃修練したばかりの崑崙派の「浮雲六歩」を使って、ふらつきながらも一刀の後を追った。 ********* 天涯が家に入ると、二人の覆面をした日本の武士が、我が子、朗兒を抱いて逃亡しようとしていた。天涯は驚き怒り、長剣を抜いたが、二人は彼と剣を交えたくはない様子で、左右に体をかわすや、ひらりと樹林の中に逃げた。「おびき寄せるつもりだな!」段天涯が思ったとおり、敵の目標は彼でも朗兒でもなく、海棠、一刀と成是非だった。しかし朗兒が敵の手にある以上、追わないわけにはいかない。他はすぐに思案して、危険を冒すことに決めた。精鋼でできた軟剣の剣気がほとばしる。これこそが測りがたいほどの『幻剣』の絶技である。後を追って、覆面の人物に剣を振るって押しとどめ、剣先が思いもよらない角度から婉曲したかと思うと、心臓をたちまち貫いた。覆面の人物の絶叫がいまだ消えぬうちに、段天涯は長剣を手から離すと、剣は一筋の藍光と化し、もう一人ののどに突き刺さった。 彼は手を伸ばして朗兒をしっかりと抱き抱えると、飄絮と海棠たちの安否が気にかかり、ただちに寓居へと飛ぶように走っていった。 燐光は段天涯と飄絮の住居の外で、すぐに見えなくなった。海棠は合点がいかず思い悩んでいると、突然、家の中からすすり泣く声が聞こえた。 「お姉さん、お姉さん!海棠よ!どうしました?」 見ると、飄絮の顔は蒼白で、ひどい衝撃を受けたらしい。「海棠、あなたなの…朗兒が…朗兒がさらわれたのよ…」と語ると、また激しく泣いた。 「兄さんは?」 「天涯はすでに後を追ったわ…私は武功を捨ててしまったことが悔やまれます。そうでなければ、誰であれ、朗兒に髪一本触れさせはしないのに!」飄絮はふらついて倒れそうになり、海棠は手を伸ばして彼女を支えたが、そのとき偶然、飄絮の脈門に触れた。 「お姉さん、先に休んでいてください。私が兄さんを手助けに行きますから」そういって、海棠は身を翻して家を出ると、左手にこっそりと三本の銀針を握り,家の中に向けて放った。一筋の銀光がすっと線を描くと、蝋燭の火がたちどころに消えた。 闇の中の飄絮の顔には、いまだ乾かない涙のあとが残り、楚々として可憐な様子であったが、彼女の左側の頬には死神のような淡い轟が現れた。 「お姉さん……なぜなの?」心中、海棠にはわかっていたのだが、驚きと怒りが交錯していたのだ。 「ふん!上官海棠、さすが天下第一の知恵者だけのことはある。その名は嘘ではないわね!私は天涯を騙してきたが、あなたは騙せなかった!私の計画は完璧だったのに、あなたはどうして見破ったの?」 「あなたは自ら武功を断ったと言い、養父もあなたの脈を診て、筋脈は断たれていると言いました!でも、さっき私はあなたの脈門に触れて,脈は断たれておらず、武功も失われていないことを発見して、あなたが嘘をついているとわかったのよ!」海棠の心は動揺し、しだいに声が大きくなっていった。飄絮が嘘をついていたとすると、養父もやはり嘘をついたことになる!天涯は知っているのだろうか?こんな世界とは、いったいどういうものなのだろう?彼女の思いは乱れ、飄絮の左袖から密かに寒光が漏れ出たことにまったく注意が向かなかった。突然、背後に一陣の冷気を感じると、短剣が後ろから彼女の体に押し込まれ、鮮血があふれて、彼女の雪のように白い衣裳はたちまち紅に染まった。 「どうして見破ったの?知らぬふりをしていれば一命は保つことができたのに。そうじゃない?あなたが見破らなければ、私たちはまだ仲のよい姉妹だったはずよ!」飄絮はいつものように、やさしい笑顔を浮かべた。しかしその語気は、全身の血を凍らせるほどの冷酷さを含んでいた。 海棠の傷は極めて重く、心の中で天涯のことを考えた。彼は一体どうするのだろう?このような欺瞞の中で生きていたと知ったら? そして一刀は? 一刀はいま、危険に陥っているのだろうか?ここまで思いをめぐらすと、彼女は激動を覚え、血を吐いた。「いつから始まったの?」 「あなたと天涯が巨鯨幇に足を踏み入れたとき、すでに我々の計略に落ちたのよ。それから私が天涯と結婚し、蛇島で隱居する前に中原に戻ったのは、すべて神侯の深謀のせいです!」 「あなたって…」 「あなたは間もなく死ぬのだから、すべてを聞かせてあげましょう!そうよ、了結和尚、国舅、そして傅鉄城はみな、帰海一刀の仕業に見せかけて,私が殺したの!一刀は心魔に犯されたとはいえ、彼の心性はもともと非常に強く、彼をすっかり殺人狂に変えるには長い時間がかかりそうだった。神侯は待つことができず、私を使って、一刀に罪を被せたのよ!」 「あなた…どうやって『雄霸天下』を習得したの…」 「はは!『雄霸天下』のような至難の刀法を,私のような女子が使えるものですか。いいわ、教えてあげましょう。私は三割だけ『雄霸天下』の技を用い、あとは柳生家の『殺神一刀斬』を加えたのよ!もし神侯が教えてくれなければ、このまったく異なる二つの刀法をいかに融合させるかなど考えつきもしなかったわ!どう?『阿鼻道三刀』にとても似ているでしょう?」 「やはり…やはり私たちはみな、養父の駒にすぎなかったのね…」 「その通り!神侯は約束したの。我々が彼の皇位簒奪を助けたら、こんどは、彼の力量で、父が東瀛の主になるのに協力するとね!物事はすっかり我々の計画通りに進んだわ。一刀が魔に犯されて、江湖を震撼させ、神侯が獄につながれるようにしたのは、すべて曹正淳の動きを誘導するためだった。思いのほか早く、彼は一挙に殲滅させられたわね!」 「このために、あなたは…ずっと人を殺めてきたのね…魔鬼のような人!」 「そう、私は魔鬼よ!私は自らの地獄の中で生きてきたの!知ってるかしら?この計画のなかで、唯一誤算だったのは、天涯を愛してしまったことよ!彼に対する気持ちだけは偽りではない。彼と一緒にいるために、私は自分を売り渡し、父と神侯の殺人の道具になったの!」 海棠の心は失意の底にあった。天涯、一刀そして自分、彼女はもはやわからなかった、誰が最大の悲劇を味わったのか…鮮血は流れ続け、海棠は自分の命がその一滴一滴とともに失われていくのを感じた…「一刀…」。 「あなたは『雪飄人間』を見たことがある?」飄絮はいつもの笑いを取り戻し、いつのまにか、右手に鋭利な日本の長刀を持っていた。「あなたが死ぬ前に、最も美しい刀法を見せてあげましょう。これぞ、あなたへの送別の贈り物よ!」 長刀は一片の白光と化し、空中で無数の光点となり、夢か幻を見ているようで、息をのむほど美しかった。無数の光はしだいに収縮しながら、海棠の周囲を取り囲んだ。光がまぶしくて彼女は両眼を開けてはいられなかった。その光の洪水から一筋の寒光が荒々しく現れ、海棠の心臓めがけて飛び込んできた。 ********* おさえつけた呻き声がし、鮮血が海棠の顔の上にかかったが、その熱い感覺は彼女が熟知しているものだった。立派な体躯をした一個の影が彼女の盾となり、禍々しい白光をわが身に受けて流れた血であった。 「一刀!」 飄絮の長刀は一刀の左肩を貫き、鮮血が噴出した。しかし飄絮の右手の虎口(親指と人さし指の間)も一刀の猛烈な気勁によって裂けてしまった。 「海棠、何も言うな。」自分の傷口から流れる血もかえりみず、一刀の左手は、すばやく海棠の胸と背の17か所の大穴を封じた。血をとめることが先決だったが、彼女の傷は非常に重いうえ、目下の状況は危険極まりなかった。一刀は自分の命を捨てても、海棠をなんとかして助けようと決意した。 「帰海一刀、さすがに名に恥じぬ!片手になっても、これだけの威力を持つのに、惜しいこと!おまえの英雄的行為も今日で打ち止めとは!」飄絮は一刀によって気血を封じられ、筋脈が滞り、口で威嚇しながら、実は内息が乱れていた。 一刀は左手を海棠の背中にあて、真気を吹き込んだ。しばらくすると、心脈が戻ってきた。彼の肩の傷は命に別状はないとはいえ、失血は少なくなく、さらに敵を前にして、危険はまじかに迫っていた。一刀はあえてそれを無視し、彼の眼中にはただ海棠だけがいた。海棠は一刀が傷を負い、命を捨ててまで彼女を救おうとしている様子を見て、涙があふれ、声をあげて泣いた。 梢から覗く月は玉盤のようで、大きくて丸かった。月光の下の飄絮は、剣先を海棠と一刀に向け、全身に殺気を漲らせて、一口でふたりを飲み込んでしまうかのように見えた。 「ははは!」笑声が息詰まる夜に響いた。その笑い声は本来さわやかなはずだが、今夜ばかりは限りなく、もの悲しい響きがあった。 「…天涯、あなた!」 「飄絮、夢にも思わなかったよ、毎日傍らで眠っている最愛の妻が、まさか私を最もひどく欺いていたとは!」 「私…」飄絮は驚きのあまり呆然としていた。彼女はずっと完全無欠の殺人計画を実行していたのに、なぜ、たった一晩で三つの意外な出来事が起きたのだろうか。海棠、一刀と天涯は、あらかじめしめし合わせて、ここで彼女に真実を言わせようと待ち構えていたかのようだった。 「天涯兄さん…私…何も言うことはありません…ただ言いたいのは、あなたを愛しているということだけ!」 段天涯は顔をそむけ、全身血にまみれた一刀と海棠を見て慙愧の思いにかられ、殺されるよりもはるかに耐え難い苦しみを味わった。 鋭い叫び声が響き、飄絮は手にした長刀をさかさまにして、自分の小腹に突き刺した。彼女は全ての内力を込めて刀を貫き、鮮血がほとばしった。天涯は急いで飛び出し、彼女を助け起こして、尋ねた。「なぜだ?」 なぜ私を騙したのだ?なぜ私を愛したのだ?なぜ自害しようとする?なぜ天はかくも私を弄ぶのだろうか? 「天涯兄さん…私…私はもう二度と父と神侯のために人を殺したくはないの…わかっています…あなたが決して私を許さないだろうって…でも、どうあっても私はあなたを傷つけることはできない、私は姉さまのようにはなれないわ、彼女が羨ましい…」 「飄絮、もう何も言うな!」 「私は自分で手を下しました…あなたが…妻殺しの悪名を着ないために・・・天涯…お願い、朗兒をよろしく頼みます…忘れないで、彼には決して武芸を教えないと…」ここまで言うとすでに声は聞き取れなくなった。飄絮は頭を傾け、段天涯の胸の中で息絶えた。 段天涯は泣きたかったが、どうしても泣けなかった。彼は狂ったように笑い出した。あたかも一頭の野獸が、満月の夜に狂乱して咆哮しているかのようだった。 成是非は軽功がうまくはなかったが、このとき、ようやく息をはずませながら到着した。しかし飄絮は長刀を腹に当てて死んでおり、海棠も全身血にまみれている。一刀は両眼を固く閉じ、全身が汗でびっしょりだった。世の中に恐いものなしの彼も、さすがに言葉に窮して「こ、こ、これは一体どうしたことだ?」とだけ言った。 天涯は飄絮の体から長刀を抜き取り、自刎して詫びようとした。カンという音が響いたかと思うと、一刀の手にした刀が天涯の手から刀を弾き、再び刀は鞘に収まった。あまりの早わざに、天涯でさえ何が起こったかはっきりとはわからないほどであった。 「一刀!海棠!君たちには申し訳ない!」 「何も言うな、海棠は我々を必要としている!」一刀は激痛をこらえ、歯を食いしばりながら言った。 ********* 「ははは!天涯、海棠、父はお前たちを探すのに難儀したぞ!」 気迫に満ちた声が周囲の樹の枝を震わせた。その声は百丈ほども離れたところから聞こえたようだったが、瞬く間に目の前に姿を現した。天下にこれほどのことができる者がいるのだろうか?成是非が何かをいいかけたとき、林の中からゆっくりと出てきた人物は、頭に帝冠を戴き、身には黄袍をまとい、その姿は天子の装いをした鉄胆神侯、朱無視であった! 「海棠、傷を負ったのか、父に見せなさい…」 「来るな」いつの間にか、一刀が刀を手にして言った。左肩の傷口から流れる鮮血が刀の柄にしたたり落ちている。しかし、その鋭いまなざしは、いつものように炯々とした光を放っていた。 「ふん!小僧め、あの日、おまえは萬三千の面前で私の顔をつぶしてくれたな。その借りはまだ返してもらっていないぞ!」というとすぐに、気を掌にめぐらせ、たちまち強風が顔を痛打した。 「おまえは我が身辺に18年いたが、おまえの武功がどれほどのものかは、しかとはわからなかった。今日こそ見届けてやるぞ、おまえにどれほどの技量があるかをな!」 これを見た成是非は、彼と神侯には天地ほどの力の差があるのも顧みず、一刀の前に立ちふさがって一掌を受けた。ぎゃっという叫び声がしたかと思うと、後方に一回転して、一刀の傍らにころがった。 「少林の『大力金剛掌』は本來なら極めて威力のあるものだが、惜しいことに、おまえは正しく学んでいないからな!」 「父上、天涯にはお尋ねしたいことがあります。」 「おうおう、段殿よ、質問できるほど余裕があるのかい?まずはこの二人を助けたらどうなんだ!」と成是非が口を挟む。 「ふん!」と神侯は冷たく一笑した。 「あなたの心中で我ら三人は、ずっと単なる駒だったのですか?」 「そうとも!」神侯は考えるまでもなく、ただちに答えた。 成是非は相手にもされず、天涯は悲痛で一杯になり、海棠は静かに涙をながしているだけだった。 一刀は何も言わず、ただ手を伸ばして海棠の目に浮かんだ涙をそっと拭った。 「わしは今日、十大將軍を伴って参殿し、我が甥に対し、三日以内に皇位を譲るよう迫ったのだ。おまえたち四人がわしに従うなら、以前に逆らったことは追求しない。もし強情にも朕に刃向かうならば、今日こそお前らをあの世に送ってやるぞ!」 段天涯は右手にしっかりと握っていた精鋼軟剣を、左手の人さし指ではじくと、軟剣は幾重にも折れた。「父上、二十年来の養育の恩に感謝します。この軟剣はあなたからもらったもの、剣を折ることで義も絶ちます!神侯、謀反を起こすなら、先ずこの段天涯を倒してからになされ!」 段天涯は飄絮の長刀を手に取り、神侯を凝視した。 成是非は座って気を廻らし、少しずつ内力を集め、最後の一回となった「金剛不壞神功」を使う準備をした。 一刀は周囲の殺気には耳を塞ぎ、そっと海棠に言った。「海棠、心配いらないよ。この一刀がそばにいて、誰にも君を害するようなことはさせないからね。」 「ははは、おもしろい、おもしろい!段天涯、お前の武功はわしが授けたものだ。いかような動きや型も、わしにはよくわかっておる。無ョ漢め、当時、おまえの父親の『金剛不壞神功』は幾らかの威力はあったが、それでもわしの敵ではなかった。一刀、おまえの武功は三人の中で最も優れておる。わしの相手になるのはおまえだけだ。しかしひとりの女のために、自ら右腕を切ってしまうとは、愚の骨頂だ!朕はきょう、おまえらに珍しいものを見せてやろう!」 という間もなく、二本の手が回転しはじめ、全身の関節が、炒り豆を細かく砕くときのような音をたてた。天涯はこの勁道がただ事ではないことを十分に知っていて、神侯の動きを待たず、続けざまに刀を神侯に向けて振るった。それと同時に、成是非も両拳を突き出し猛然と神侯を攻めた。 「ほほう、天山派の『霊剣千鋒』、崑崙派の『大漠飛沙』、これは武當の『月落長河』か・・・」神侯の魑魅魍魎の如き影が、段天涯の剣光の中で交錯し、二つの掌は同時に成是非による八大門派の絶技を防いだ。神侯は見たところ、いつもと変わらぬ笑みを浮かべ、なお余裕がある。「まだ遊び足りぬか?気をつけよ、わしの最初の一手をお見舞いするぞ・・・」と言う声がしたかと思うと、神侯の左手は成是非と相対し、右手の人さし指は段天涯の刃の上に置かれ、両人は稲妻に遭った如く、後ろに跳びすさった。 「しかと見たか?これが『先天無定指』だ!」 この時、海棠が突然口から鮮血を吐き、かぼそく「一刀…一刀…」とつぶやいた。 海棠の傷が悪化するのを見て、一刀の心は焦った。今日のこのような情勢では、もはや無事に帰ることはかなわない。どうあっても、海棠をこれ以上傷つけるわけにはいかない。彼は左手で刀を鞘から抜いた。光の輪が回転し、強力無比の刀気が神侯にすっと向けられた。神侯は一刀が左手で刀を用いるのには、きっと慣れていないだろうと予測したが、あにはからんや、刀勢は激しく並外れており、その威力は以前と少しも遜色がなかった。神侯は軽視できぬと悟り、気を引き締めたが、口ではほめそやした。「おお!一刀、たしか、三年前におまえが敦煌十八騎を殲滅させた折、右腕に重傷を負ったが、半月もたたぬうちに、単独で長白七盜を捕らえたことがあった。なるほど、おまえはわしの目を欺き、密かに左手の刀法の修練をしていたのだな!」 神侯が一刀の刀気に牽制されている隙に乗じて、段天涯と成是非が再び攻勢をかけた。三人は皆一流の遣い手だが、特に段天涯の剣式は綿密で狂いがなく、一刀の刀法は大胆な攻めと鉄壁の守りで、その二つが組み合わさると完璧であった。神侯は相手を軽視する気持ちを抑え、二つの手は驚くような気を発して、しだいに優勢を取り戻した。一刀の刀法は精妙ではあったが、左肩の傷口から血は止まらず、さらに海棠のために大量の真気を送っていたので、しだいに力が出なくなった。段天涯は一刀がやっとの思いで支えているのを見て、「幻剣」の絶技を振るい、白い光の幕が、一刀、海棠と成是非の三人を覆い、神侯の掌風を阻止した。しかし神侯の内力は計り知れず、段天涯は逆を衝かれ、左のわき腹に一撃を受けて、肋骨六本が砕かれ、剣網は破られてしまった。神侯は続いて成是非を蹴りとばし、それから右手で一刀の「絶情斬」を、がしっと受けとめた。この一撃は朱無視が渾身の功力を集めたものであり、一刀はさらに傷を負い、霸刀は音をたてて手から離れ、彼はその場にくずおれるように倒れた。 「天涯、おまえの剣は冷酷さが足りぬ。強情な奴、死んでも憐れはかけぬぞ!」 「一刀、やはりわしの目に狂いはなかった。おまえの刀法は、父親の帰海百煉のはるかに上をいっておる!しかし惜しいことに情のため、武人の矛先を錆付かせてしまった。三人の中で、おまえが最もわしの言うことを聞かなかったが、最もわしに似ているな。手段を選ばず、犧牲も一切顧みず、ただ自分の最も欲しいものだけを求めた。残念だが、わずかの考え違いで、おまえは既に絶体絶命の状態なのに、わしの方は万人の上に立ち、天下第一となるのだ!」 「さて、戯れも、もはや終わりだ!一刀、もう一度「『阿鼻道三刀』の威風を見たいか?わしがおまえたちに珍しいものを見せてやる。死ぬ前に、この朱無視が『殺神一刀斬』と『雄霸天下』を融合させて編み出した『血劫輪迴』を見たら、おまえたちが何を目論んだにせよ、安らかに死ぬことができよう!」朱無視の両眼は血ばしり、猛々しさが現れた。 周囲では強風が荒れ狂い、凄惨な風が吹いた。月はいつしか雲の後ろに隠れ、天地は光をなくし、この上ない暗さの中で、生命の気息が少しずつ吸い込まれていった。 天涯の受けた内傷は極めて重く、息をするのさえ困難だった。成是非の「金剛不壞神功」は、いまだ完璧ではなく、またもや神侯に敗れ、もはや戦う気力は失せていた。一刀はわずかに残った真気を、海棠を守るためだけに残していた。朱無視が「血劫輪迴」の魔功を繰り出すや、この世のものならぬ声が発せられた。一刀は心の中で凜然とした。これこそ彼がかつて修練した「阿鼻道三刀」の心魔の再現ではないか! あの時、彼は武芸の頂点にあったが、人生の煉獄に囚われていた。絶情斬、霸刀,雄霸天下と彼の刀法が一段上へと登るごとに、心の中の怨恨は一層深くなっていった。この限りのない怨恨が一歩一歩、彼を絶望の深い淵へと追いやったのだ。海棠、母親、了結大師は一切の心を包み込んで、彼を地獄から救い出した。母と了結大師の二人は彼のために死に、最愛の人である海棠は、いま傍らで静かに横たわっている。彼は雪の積もった場所での、あの日のことを思い出した。この世界で、二人が身を寄せるところはどこにもなかったが、互いの眼の中にお互いの姿を見出していた―。 海棠、一刀はここにいる、誰にも君を傷つけさせはしない。 一刀はゆっくりと左手を上げ、刀のように掌を構えた。それは「絶情斬」でも、「雄霸天下」でもなかった。彼のまなざしはこの上なく冷静で、透徹した瞳はすべてを射抜くかのように、眼前のおぞましい獸を注視していた。 「私とあなたは少しも似てはいない。あなたは天下を手中に収めたと思っているようだが、実際には何も持ってはいないのだ。私には居る場所もないが、誰よりも満足している。」 「黙れ!」神侯は怒り、荒々しく一喝した。「血劫輪迴」の技は、無数の獰猛な悪鬼が地獄から飛び出してきたかのようだった。勁風が一刀の体を傷つけ、彼の衣服を裂き、全身が血にまみれたが、段天涯、成是非と海棠の前に立ち、一人で、全てを滅ぼさんとする力に対抗した。 血の海のような掌気が神侯を中心にして、絶え間なく四方八方から包囲した。一刀はこの絶体絶命の状況を無視した。たとえ何も持たずとも、失意のどん底にあっても、彼にはまだ海棠がいる。 彼の左手の刀はめずらしくゆっくりとした速度で、そろそろと「血劫輪迴」の暴風の目に向かって伸びた。突然、まばゆいばかりの光がきらめき、一本の刀の形のような気流が彼の左手から発せられ、まっすぐに神侯に向かった。これこそ一刀最後の悟りであり、絶望が極まった時に、まったくの無心から出た一撃であった―。 『天地無恨』 二つの驚異的な気勁が互いにぶつかり合い、耳をつんざくほどの爆音が轟いた。おびただしい血しぶきが飛び、悪鬼の泣き叫ぶような甲高い一声が夜空にこだまし、しばらくして、あたりはまた平静に戻った。 雲が散って、月がまた顔を出し、白く明るい光がおだやかに大地を照らした。まるで何ごとも起こらなかったかのように静かだったが、夜の大気には、ほのかな悲哀が漂っている。 間もなく、この波乱に満ちた夜も終わろうとしていた。 |
| 最終章 凝眸試問捲簾人 眸を凝らして簾(すだれ)捲く人に問う 九月十五日、正徳帝は文武百官を引き連れ、国泰民安を祈念する盛大な式典をとりおこなうために天壇に向かった。それから北山寺に行き、天地玄の三大密偵の衣冠塚に参拝した。成是非と雲蘿皇女が皇帝に従って焼香した。黒い大理石の墓碑には血に染まった「天」「地」「玄」の紫白色の玉珮が嵌め込まれている。成是非は悲しい思い出がよみがえり、子供のように泣いた。皇帝も海棠が紅顏薄命であったことに嘆息しながら言った。「成の婿殿はさすが義のお人だ。すでに三か月もたつというのに、まだ傷心のままなのだね。見ている朕までも泣きたくなるよ。残念なことに三大密偵には誰も親族がいないので、朕は官職を追贈する以外、彼らのために何もできないのだ。だが死んだ人々に、このようなことをしても何の意味があるだろう!」 皇帝は成是非の口から、傅鉄城大学士が暗殺された六月十五日の晩、天地玄黄の四大密偵が鉄胆神侯、朱無視と激しく戦い、成是非を除く三大密偵と朱無視はすべて死亡したと聞かされていた。戦況があまりに激烈だったので、遺体の損傷はひどかった。成是非は朱無視の頭部を持ち帰った。朱無視の両眼は見開いたままで、あたかも、何か信じがたい事を見たかのような恐ろしく歪んだ表情をしていた。三大密偵の遺骸は、自分も全身に負傷した成是非がその場で火葬にし、三人の遺骨を収めた壷を持ち帰った。皇帝は段天涯たちの衣服や身の回りの品を集めさせ、北山寺に衣冠塚を建立し、護民大將軍の称号を贈って、末永く民に景仰されることとした。 「成の婿殿、朕はそなたの武功がこれほどまでに優れているとは思わなかった。段天涯や一刀のような武芸に秀でた者たちが皆死んで、そなただけが生きて戻ってきたのだからね。朕はすっかり見直したよ。」 「まあ、兄上 ! なんてことをおっしゃるの?まさか私が年若くして寡婦になるのを見たいわけではないでしょう?」 「朕はそういう意味で申したのではないよ。ただ感慨深く思うのは、叔父の武功才智、天涯の剣、一刀の刀、そして海棠の知恵はすべて天下第一と言えるが、このような有様だ。しかし成の婿殿は今も元気に飛び回っているではないか!」 「兄上―」 雲蘿はまだ言いたそうな様子だったが、成是非に袖を引っ張られた。見ると彼は、これ以上何も言うなと目配せしている。 「陛下、よき兄弟と姉妹を一度に失い、私、成是非の心は耐え難い思いです。しばらく皇宮を出て休養することを、どうかお許しください。」 「それは当然であろう。雲蘿、そなたも婿殿と一緒に行きなさい!」 ********* 北京城から五十里はなれた小村。 何ヶ月間というもの、ここでの最も熱い話題は、三大密偵と鉄胆神侯との驚天動地の決戰のことだった。旅籠の客連中は、あれこれ語り合うが、誰も目の当たりにしたわけではなく、ただ一人の生存者である成是非の口から出た話ばかりが伝わっていた。そこには多少の尾ひれもついていたかもしれないが、みんなは飽くことなく噂話を楽しんでいた。 「鉄胆神侯の魔功が出るなり、山壁はたちまち崩れたそうだ」 「もし帰海一刀の『阿鼻道三刀』でなければ、全て死んでしまうというようなことは、ありっこないと思うよ!」 「帰海一刀はすでに自分で右腕を切断していて、どうして『阿鼻道三刀』のような絶技が使えるっていうんだい?」 「おい!左手では刀を使えないとでもいうのか?さもなきゃ足だって使えるさ!気をつけろよ、彼におまえさんの頭を切られないようにな!」 このような巷の話題が、もしかしたら広く流布していくものなのかもしれない。 大通りで、ふたりの幼児が木の枝を持って一緒に遊んでいた。お互い、こんなふうに叫んでいる。「我こそは天下第一剣、段天涯だ!」「帰海一刀の雄霸天下を見よ!」「帰海一刀」と名乗った子供が不注意にも転びかけた。あわや鼻にあざをこしらえ、顔が腫れ上がるだろうという時に、後ろから一本のたくましい腕が伸びてきて、彼をしっかりと支えてやった。この子供は驚きがおさまらず、ぼんやりとしたまま、目の前にいる長身の青年を見た。彼は綿布の衣服を着て、顔は髯だらけだが、きりりとした英気は隠せず、両眼は明星のようにきらきらと輝きを帯びていた。彼はおだやかに笑いながら言った。「気をつけなさい!一刀大侠ならそんなに簡単にはころばないよ」 子供がようやく我に返ったときには、その青年の姿はすでに見えなくなっていた。 河べりに一艘の小船が泊まっていた。竹を編んだ笠をかぶった二人の青年が岸辺に立っていた。どちらも立派な体格で、一組の兄弟のように見えた。 「二弟、彼らがもし来ないなら、そろそろ出発すべきではないか…」 「彼らはきっと来る」 左側の青年は笑いながら言った。「君は変わったな。あるいは、これが本来の君なのかもしれないね!さっき町で、子供を助けたときの顔つきを見たが、私はこれまで、君がそんなふうに笑うのをみたことがないよ。」 「あなたはないだろうが、彼女は見ている。」 「そうだね、君の心の中は、たぶん彼女ひとりのためだけにとってあるんだろう。」 ふたりは話すのを止め、黙って河の流れを見ていた。 しばらくして、一組の男女が息をはずませながら大急ぎでやって来た。男は口の中でぶつぶつ言っている。「おいおい、もう一回賭けさせてくれよ、時間はまだ早いんだからさ。」まさしく成是非と雲蘿である。 「来たか」右側の青年は少々いらだった様子だが、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。 「えーい、あんたはどうして、そういつも、かっこつけてるんだい?言っとくがね、俺はこの三か月というもの、いろいろ知恵をしぼってきたからこそ、おまえさんたちには今日という日があるんじゃないか!今後は顔を合わせるのも、それほど簡単ではないだろうから、みんなで記念に賭けるのはどうだい?」 「もう賭け事しか知らないんだから!」 「私はすでにこの世で最大の賭けをした。君の賭け事には興味がない。」右側の青年は言う。 成是非がまさに食ってかかろうとしたとき、左側の青年が尋ねた。「皇女さま、神探の張進酒があなたに何かことづてを託しませんでしたか?」 「有ります、有ります。あの飲兵衛ときたら、長々と尋ねたあげく、たった半分の詩を私に書いただけなのよ―」 「どんな詩ですか?」 「私はこの詩を前に暗記したことがあったの。それは李清照の『如夢令』です!」 「李清照の『如夢令』は何首かあるが、どれでしょう―」 「待って、待って、今暗誦するから。」雲蘿はちょっと咳払いすると、低い声で吟じた。 「昨夜雨疏風驟 (昨夜は雨がまばらで風がにわかに吹いた 濃睡不消残酒 深い眠りも深酒の酔いを消さない 試問捲簾人 試みに、すだれ巻く人に問えば・・・) ・・・・・」 「卻道海棠依旧!」 (海棠*は以前のままだと言う) * ここではバラ科の植物の名 左側の青年は我慢できずに後を続けた。右側の青年はただ黙って聞いていたが、彼の顔には激動が走り、ひとしずくの涙が頬を伝って流れた。 「兄上がもし、あなた方が死んでいないと知ったら、必ずやあなた方を探し出して、宮仕えするよう命じるでしょう。あなた方は側にいないけれども、私はこのやくざものと賑やかに楽しく過ごすことはできます、でも―」 左側の青年は言った。「荘子の故事*にありますように、今まで苦労を共にしてきた我々ですが、これから異なる道を選ぶことになろうとも、それも互いのためによいことかもしれませぬ。皇女さま、あなたの大恩は、我ら三名心に刻み、決して忘れは致しません。今はここでお別れしましょう。」 * 荘子の故事とは『相濡以沫、不如両相忘於江湖』という言葉をさす 「忘れないで、黄海を出たら、東へ五十里のところに小島があります。そこが賽神農兄弟のいる場所よ。彼女はやっと傷が癒えたけれども、遠くへは行けません。ご足労ですが、あなた方が出向いてください。」 「皇女さま、小黄、ありがとう」右側の青年が雲蘿に淡々と笑いかけた。 雲蘿はぽかんとしていたが、やがて我にかえって言った。「まあ、なんてめずらしいこと、あなたがこんなふうに言うのを初めて聞いたし、あなたが笑うのも初めて見たわ。あなたが笑うと、とても可愛くなるのね!」 「おい!女房よ、彼は俺よりもずっといい男だけどさ、旦那にも少しはメンツってものを残してくれてもいいだろう!」成是非はすこぶる不機嫌な顔つきで、ずっと文句を言っていた。 小船はだんだんと岸辺を離れていく。成是非と雲蘿の姿はついに夕暮れのなかに消えていった。晩風にあおられ二人の袖がなびいた。世間の喧騒は彼らとはまったく無関係のように遠ざかっていく。海の彼方には、この世のいかなる事に比べても遥かに大切な人が、彼らを待っているのだ。 完 |
■日本版 『天下第一』全6巻 ジャケット写真■
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第一巻:帰海一刀 第二巻:段天涯 第三巻:雲蘿郡主
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第四巻:帰海一刀 第五巻:段天涯 第六巻:柳生飄絮