いのしし年の男、多摩川を溯る



まず多摩川を溯って。
源流を目指して、河口をスタート、川辺を歩きます。

多摩川の源流は山梨県にあり、河口は羽田沖の東京湾、全長138kmの一級河川です。
はたしていつ源流に、そして水源林に辿り着くことができるでしょう。
途中、支流や用水に立ち寄りながら、ゆっくりと上っていきましょう。

このホームページで、写真を1枚1枚載せていこうと思います。
まずは、以前に撮ったものから掲載します。
(干支がいのししの無計画男が綴る、多摩川溯上記です。)


@ 河口から4kmほどのところに、赤レンガの水門がありました。多摩川下流のシンボル、六郷水門です。このあたりは、多摩川と堤防の間に、大師橋緑地、六郷橋緑地そして多摩川緑地と、緑地が広がっています。(京急六郷土手駅下車)

A 多摩川駅を下車して、すぐ近くに丸子橋、またその丸子橋の近く、田園調布本町のはずれを流れる小川があります。六郷用水です。澄んだ水の流れに色とりどりの鯉が泳ぎ、草の上では、亀が甲羅干しをしていました。(東急東横線多摩川駅下車)

B 国道246号・新二子橋の上流、多摩川と野川に挟まれたところ、クローバの花が可愛く咲く草地があります。この下が、なんと「野川浄化施設」になっているそうです。礫間接触酸化法という、日本ではじめて試みられた、本格的な河川の浄化施設です。(東急田園都市線二子玉川駅下車)

C 小田急線鉄橋から500mほど下流にある“二ヶ領宿河原堰”へ行きました。この堰の長さは約220m。水量に応じて、6つのゲートが別々に操作されます。梅雨末期の大雨の影響でしょうか、奔流といってもよい流れが見られました。(小田急小田原線登戸駅下車)

D その名が府中御殿の茶の湯の水を多摩川から運ぶ道だったことに由来する御茶屋街道、その御茶屋街道の近くに“修景池”があります。ハスの研究で有名な大賀博士が2000年前の太古の種を開花させた“大賀ハス”が見られます。(JR武蔵野線府中本町駅下車)

E 拝島橋の下流に多摩大橋があります。その少し上流あたりの河原で、160万年前のクジラの骨格が発見されました。アキシマクジラと名づけられています。このあたりが、くじら運動公園、公園では運動会が催されていました。(JR青梅線昭島駅下車)

F JR青梅線羽村駅から多摩川への途中、臨済宗禅林寺があります。「大菩薩峠」の作者、中里介山の菩提寺です。そしてさらに歩くと羽村堰に着きます。ここは玉川上水の出発点、近くに玉川兄弟の像があります。(JR青梅線羽村駅下車)

G 臨済宗妙心寺派の古刹、平林寺の境内林に沿うように野火止用水が流れています。野火止用水は玉川上水から最初に分水されたものです。水路は地形的に高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水されたり、畑の灌漑に使われ、乾燥防止に大きな役割を果たしました。(西武池袋線清瀬駅下車)

H 千川上水が玉川上水から取水されている、五日市街道境橋まで、自転車を走らせました。境橋から、まず玉川上水を下ってみました。桜橋で折り返し、こんどは千川上水に沿って歩きます。



@ 2006年4月18日、多摩川の河口へ行ってきました。京急六郷土手駅を下車、下流に向かって歩きます。
 この日は晴天、堤はサイクリングコースにもなっており、散歩する人、ジョギングする人、それを縫うようにしてサイクリングを楽しむ人たちで賑わっていました。


 河口付近の上空には離着陸の飛行機が見えます。
 そういえば左岸の地名は南六郷、そして本羽田。目と鼻の先には
羽田空港が見えます。

 
写真(1 , 2)は、海から2kmあたりにある中州です。ヨシが茂り、野鳥が飛び交うとか。
(1)海から2kmあたりにある中州 (2)中州にはヨシが茂っています

 近くに大師橋があります。その袂の草むらに『羽田の渡し跡』の記念碑が建っていました。この渡しは、江戸時代から大師橋が完成する昭和14年まで利用されていたそうです。(3 , 4)
(3)大師橋のたもとにある「羽田の渡し跡」記念碑 (4)「羽田の渡し跡」記念碑

 多摩川の下流域では、左岸から河口に向かって干潟があります。干潟には蟹(カニ)も棲んでいるとか。(5)
 干潟は右岸にもあるようですが、時間の都合で見に行きませんでした。
 河口ではまた、
ヨシの群落が広い面積を占めています。(6)
(5)下流域の干潟 (6)ヨシの群落

 「ヨシ」は「アシ」とも言いますね。「アシ」は「悪し」に通じるので、逆の「良し」と言い替えたとか。
 関東では「アシ」、関西では「ヨシ」が一般的だそうです。

 ヨシの群落は、水の浄化作用や小動物の住みかとなるなど、環境と野生動物の保護に重要な役割を果たしています。

 河口から4kmほどのところに、赤レンガの水門がありました。多摩川下流のシンボル、
六郷水門です。六郷用水は、大雨が降ると町が水浸しになりました。排水口を広げなければなりません。また、多摩川の水位が上がると川の水が六郷用水へ逆流してしまいます。多摩川と六郷用水を遮断しなければなりません。
 
六郷水門は、昭和初期に造られました。(7)
(7)六郷水門 (8)多摩川と堤防の間に広がる緑地

 
このあたりは、多摩川と堤防の間に、大師橋緑地六郷橋緑地そして多摩川緑地と、緑地が広がっています。(8)
 その緑地の水際には散策路もあり、散歩する人、ジョギングする人、緑地に身体を投げ出して日光浴する人、読書をする人など、思い思いの時間を過ごされていました。
 住宅が河原にせまっていました。
 遠くに見えるは、大師橋と首都高速道路です。右岸に渡れば工場が多いとか。


A 次に多摩川を訪ねたのは2006年5月15日でした。前回よりちょっと上流に移ります。この日は、東急東横線多摩川駅で下車、駅の近くを歩きます。
 曇り空の下、主に左岸の側を歩きました。このあたりは河口から約13km、駅の近く、上流に向かって多摩川を見下ろすように
多摩川台公園があります。
 また、駅の反対側には
六郷用水があります。

 六郷土手駅近辺と同様、散策路、サイクリングコースなどがあり、ジョギング姿もちらほら。

 多摩川駅を下車して、すぐ近くに丸子橋、またその丸子橋の近く、田園調布本町のはずれを流れる小川があります。
 「六郷用水」です。
(9)遊歩道と六郷用水 (10)鯉の群れ (11)甲羅干しの亀

 
この「六郷用水」は、江戸時代の初期に灌漑用に作られた、全長約30kmにおよぶ農業用水を、部分的に復元したものだそうです。
 多摩堤通りの裏通り、遊歩道が添えられた「六郷用水」は、澄んだ水の流れに色とりどりの鯉が泳ぎ、草の上では、亀が、甲羅干しをしていました。
(9 、 10 、 11)

 駅の方へ戻ります。東横線鉄橋の上流すぐの所に、
調布取水堰があります。(12)
 昭和11年に飲料水供給のために作られたそうです。現在は工業用水に利用されています。
 この日は、小学生たちが課外学習に来ていました。ハゼなどが棲んでいるということで 多摩川の小動物観察をしていました。写真
(12)は右岸へ回って撮ったものです。
(12)調布取水堰 (13)東横線鉄橋のあたりの流れはゆるやか

 
この辺りの川の流れはゆったりしていました。(13)

 
ゆったりとした流れを暫らく眺めた後、多摩川台公園に上ってみました。
 ここには、国指定の「
史跡亀甲山古墳」があります。「かめのこやまこふん」です。このほかにも幾つかの古墳があるそうです。
 春には桜が咲き乱れるという遺跡公園も、訪ねた時は5月、緑濃い園内は静寂そのものでした。
 園内の見晴台から多摩川を望みます。
(14)
 でもこの日は曇り空、丹沢も、富士山も、見えません。
(14)園内の見晴台から多摩川を望む (15)前方後円墳の中ほど。木々が生い茂り、古墳は見えず (16)亀甲山古墳の説明看板

 
そして振り向けば、
“亀甲山古墳”。写真の看板の位置が、前方後円墳の中程のところです。木々が生い茂り、古墳の全体像は掴めませんでした。
(15)
 写真
(16)をクリックして、説明文をご覧ください。
このほかにも幾つか撮りました。ご覧ください。
(クリックすれば大きく、ポインタを置けば説明文が現れます。)
(17)六郷用水にありました。かわいい水車ですね。 (18)日本ハム球団多摩川グランド (19)亀甲山古墳の遺跡公園内で見ました。写生している人もいました。


B
梅雨の合間の暑いこの日、6月19日は水辺を離れて街中へも出てみました。
 東急田園都市線二子玉川駅で下車します。

 駅のホームから公園が見えました。
兵庫島公園です。(20)
園に通じる橋の上には、釣りを楽しむ人もちらほら。
 この公園に続く
多摩川二子橋公園宇奈根公園は、住宅街にある公園とは趣が異なり、周りを小樹林に囲まれた、球戯場や広場のある運動公園でした。
 訪れた時間帯では、ママさんと遊ぶ小さなお子さんの姿が、多く見られました。
(22)
(20)兵庫島公園は二子玉川駅のホームからも見えます (21)このあたりの川の流れは、浅く、幾分早く・・・ (22)兵庫島公園に続く多摩川二子橋公園、宇奈根公園には、ママさんと遊ぶ小さなお子さんの姿が多く見られました

 
このあたりは既に海から19kmほど。川の流れは、浅く、幾分早いように感じました。(21)
写真
(20)に見える橋は二子橋・東急田園都市線、(21)はその上流に架かる新二子橋・国道246号です。

次の3枚は、上の3枚(20〜22)に対応しています。)
(23)釣りを楽しむ人が見えますか。この川は野川です。日課の散歩途中にちょっと寄り道をしたような人もいます。森の向こうが兵庫島公園です。 (24)それほど深くはなさそうな流れに迫るように、水際まで草が生い茂っています。 (25)小さなお子さんを連れたママさんたちがみえますか。

 国道246号・新二子橋の上流、多摩川と野川に挟まれたところ、クローバの花が可愛く咲く草地があります。
(26)
 この下が、なんと「
野川浄化施設」になっているそうです。看板が出ていました。(27)
 「
礫間接触酸化法」という、日本ではじめて試みられた、本格的な河川の浄化施設です。
 野川は、住宅地域を流れ多摩川に注ぐ、汚濁支川の一つですが、この汚濁を取り除き、清流として多摩川に合流させるための施設が、この「野川浄化施設」です。
(26)クローバの花が可愛く咲く草地 (27)クローバ草地の下には野川浄化施設があります

 
一面のクローバに、あるいは見つけることができるかと思い、あたりを這いつくばるように眺め回しましたが、四つ葉のクローバは・・・残念、三つ葉ばかり!
(3×4=4×3。三つ葉四つで、四つ葉が三個。妥協も大事、これで行こうか。)


 
さて堤に戻り、上流に向かいます。二子玉川緑地運動場を通り過ぎ、警視庁交通安全指導センターが見えてきました。写真(28)で、遠くに指導センターがあるのが見えますか。
 このあたりで方向転換、畑と住宅が混在する街なかを歩くこと約2km、
野川に行き当たりました。(29)
 野川は、二子玉川駅近くで多摩川に合流します。
(28)遠くに見えるは警視庁交通安全指導センター (29)野川の風景

 この野川を1kmほど下ったところで仙川が合流してきます。仙川には沢山の鯉が泳いでいました。ひしめき合っているという感じでした。(30)
 
そしてその合流地点から仙川を500mほど溯ると丸子川(六郷用水)。
(30)仙川にひしめく鯉の群れ (31)丸子川親水公園は住宅街のオアシス (32)獲物を狙う小さな漁師。頼もしくもあり微笑ましくもあり、思わずシャッターを切る

 
丸子川(六郷用水)は、丸子川親水公園になっており、川沿いの遊歩道は岸辺の路であり、小さな流れは、住宅街のオアシスとなっています。(31)
 
ザリガニもいる小川には、小さな漁師たちが網を持って獲物を狙っています。(32)
次は上の写真(32)の追加です。(32)と比べてかなり接近して撮ったものなので掲載をためらっていたものですが、あれから数年、もういいでしょう(2009.10.18)。
(32-2)

 
丸子川を下ると、岡本民家園があります。(33)
江戸時代の中ごろに建てられた藁葺き屋根の民家です。この日は月曜日、あいにくの休園日でした。残念。(34)
(33)丸子川を下ると岡本民家園 (34)民家園は藁葺き屋根

仙川の由来(川岸の案内より)
 従来の仙川の水源であった勝渕神社前の丸池には、釜の形をした湧出口がたくさんあり、千釜と呼ばれました。
 また、「武蔵国名勝図絵」によると湧泉のことを釜といい、その数が多いことから千釜と呼ばれたともいいます。
 この千釜がなまって、千川といわれるようになったといわれています。
 また、一部には、このあたりに仙人が住んでいたので仙川という、とする説もあります。(仙川は、起点から野川の合流地点までの直線距離は約20km。)


C 7月に入りましたが、梅雨はまだ明けません。今にも降り出しそうな梅雨空です。きょうは7月の22日(2006年)。この日は曇り、明日からまた、暫らくの間は雨という天気予報に押されて出かけました。

 
小田急小田原線登戸駅下車、まず右岸を歩き、多摩水道橋を渡って左岸に移ります。
 途中から府中用水路沿いの桜堤緑道へ移り、京王玉川駅へ出ました。


 
いつ降りだすか分からぬ雨雲の空でしたが、きょうは土曜日の午後、川沿いの遊歩道では散歩やサイクリング、ローラースケートを、歩道と川の間に広がる緑地公園などの広場では野球などスポーツを楽しむ人たちが多く見られました。(35)

 
途中に、調布市花火大会の会場がありました。翌日の花火大会準備で大勢の人たちが動き回っていました。(36)
(35)川沿いの遊歩道では散歩やサイクリング、ローラースケートを楽しむ人 (36)花火大会の会場

 
さて、小田急線鉄橋から500mほど下流にある“二ヶ領宿河原堰”へ行きました。この堰の長さは約220m。水量に応じて、6つのゲートが別々に操作されます。(37)
 
梅雨末期の大雨の影響でしょうか、奔流といってもよい流れが見られました。
 堰の両側には
魚道がつけられています。(38)
(37) (38) (39)

 
堰の近くに“二ヶ領せせらぎ館”があります。多摩川の情報拠点として行政と市民が協働しているそうです。
 この建物のそばに“
聖牛”の模型が置いてありました。「せいぎゅう」と読みます。(39)
 
聖牛は、川の流れをコントロールするための装置の一種です。
太い丸太を合掌状に組み合わせた構造で、三角形の形をしています。
激流にも流されないよう足下に重しとなる蛇籠(じゃかご)を乗せて、川の中に設置されます。
川の勾配が強く、河原に大小の石がゴロゴロ転がっているような急流にも耐えられるように工夫された頑丈な構造になっています。(聖牛のそばの看板説明から。)


 
さて、堰の少し上から“二ヶ領宿河原用水”が引き込まれています。(40 、 41)
 
用水の両側には桜の木が植えられており、春には桜祭りが開催されるそうです。訪ねたのは7月、残念。いつかまた、今度は桜の花を見に来ようかと思います。
(40) (41)

 
ところでこの二ヶ領宿河原用水とは。
多摩川が1590年に大洪水を起こし流れが変わったのを機に、農業用水を引き水田を開発するために“二ヶ領用水”がつくられました。この用水の、二ヶ領宿河原堰から府中街道までの部分、二ヶ領宿河原用水と呼ばれるものです。
 江戸初期に完成した二ヶ領用水は、上河原堰と宿河原堰から取水されており、その名は、川崎領と稲毛領の二つの領にまたがって流れることに由来しています。


 
農業用水として造られたこの用水も、今は田んぼもなくなり、工業用水として使われているそうです。
 また近年は、都市生活に潤いを与える環境用水としても見直されています(せせらぎ館・館員のお話)。

 宿河原堰の上あたり、水が溜まっているところでは、釣りや魚とりを楽しむ人たちが見られます。
(42)
 
多摩川のこのあたりには、いろんな魚が棲んでいるようですね。二ヶ領せせらぎ館には、川に棲む魚たちが展示されていました。(43)
(42) (43)

 
再び堤を歩きます。小田急線鉄橋の下あたり、幾つかの若者のグループが見られました。バーベキューを楽しんでいるらしいグループもいました。(44)
 
さらに上流に向かって歩きます。写真(45)は、多摩川50景のひとつ、五本松です。
実際には5本以上の松の木がありました。いくつかのアングルで撮ってみましたが、
(45)のアングルに落ち着きました。このあたりは海から24kmほどの所です。
五本松公園と呼ぶらしいこのあたりにも若者たちのグループが見られました。(46)
(44) (45) (46)

 
写真(47)をクリックして見てください。中ほど、川の中に小さな点があります。見えるでしょうか。長い釣竿を持った釣り人がいるのですが。
上流で雨でも降ったら、激流に押し流されてしまうのでは、と気になりましたが、この川での釣りの常連さんなのでしょうか。
 五本松公園を過ぎたあたりの光景です。向こう岸は川崎市。

 こちら側、左岸を上流に向かってすこし歩いたところに、“
調布排水樋管”があります。(48)
 
この排水樋管は府中用水と多摩川を結んでおり、地域の排水に役立っています。また大雨などで洪水となったときには、水門を閉めて川の氾濫を防ぐなど、水位調節の役割もあります。
(47) (48) (49)

 
このあたりにも“堰”があります。(49)
二ヶ領上河原堰”です。江戸時代に作られましたが、昭和16年にコンクリート化され、両側に最新式の魚道が設置されています。魚道は二ヶ領宿河原堰にも設置されていました。

 さてこの“堰”のすぐ下と上の光景が、
(50)(51)です。
堤の下に舗装していない、砂利道がありますが、その下は川です。その川の中央部が、このように、うっそうと茂るとでも言ったほうがよいのでしょうか、踏み込むことができないほどに草木が生い茂っていました。
 そしてこのあたりが、多摩川左岸、海から26kmの地点です。
(50) (51) (52)

 
写真(53)は府中用水路、この用水路沿いに桜堤緑道があります。(54 、 57)
 
そしてこの緑道には、公募による彫刻が何点か展示してありました。(55 , 56)
(53) (54) (55)

(56) (57)


D
夏真っ盛りの8月27日、2006年のこの日は日曜日。JR武蔵野線を使って多摩川まで。
 午前中に乗り込んだ武蔵野線電車はそれほど込み合ってはおらず、府中本町駅から歩いた多摩川までの道も、人影はまばら。その途中に“御茶屋街道”があります。その名はかつて、府中御殿の茶の湯の水を多摩川から運ぶ道だったことに由来します。
(58 , 59)
 
その府中御殿は、正保3年(1646)の大火で焼失してしまいました。
(58) (59)

 
御茶屋街道の近くに“修景池”があります。ハスの研究で有名な大賀博士が2000年前の太古の種を開花させた“大賀ハス”が見られます。
 8月のこの日は花の時期は既に過ぎていました。種々のハスが植えられていました。
(60 , 61 , 62)
(60) (61) (62)

 
さて修景池の近くに“府中市郷土の森博物館”があります。
 その名の通り豊かな森の中に、
古い民家などを移築または復元した、郷土の歴史館です。

 旧田中家住宅
(63)は、明治天皇行在所にもあてられました。江戸時代中期から明治期にかけて、甲州街道府中宿の新宿にあった大店(おおだな)の全体が復元されたものです。呉服や酒類などを商う、甲州街道府中宿を代表する商家でした。

 
写真(64)は、ハケ(立川段丘崖)上を代表する一般的な民家です。茅葺の農家で、江戸時代中ごろから昭和初期まで使われたいた住宅とのこと、麦などの畑作や養蚕を営んでいたそうです。
 府中で養蚕が最も盛んであった明示末期の姿に復元されているそうです。
(63)旧田中家住宅 (64) (65)
(65)は何の写真でしょうか。
井戸です。「
まいまいず井戸」と呼ばれています。「まいまい」はカタツムリ。その殻に似ていることから、こう呼ばれています。水汲み場まで、渦巻状の道を降って行き、水を汲む方式の井戸です。
 発掘調査の記録をもとに想定復元したものとのこと。

 下の写真
(66)は旧島田家住宅。看板に「島田薬舗」と見えます。1階が店舗、2階と屋根裏(3階部分)が倉庫になっており、屋根の下も含めてすべてが厚い土壁で覆われる置屋根(おきやね)構造をとり、厳重な防火建築であることが特徴です。

 次はご覧の通り、水車小屋ですね。私の田舎の郷土史博物館にも、このような水車小屋があります。水車小屋のある風景は、幼い頃を思い出させます。
(67)

 
次は、旧三岡家長屋門です(68)江戸時代に旧是政村(府中市是政)の名主を勤めていた三岡家の分家の門として建てられたものです。
 長い建物の中央に門が開く形式が長屋門です。両側の部屋は屋根の下も含めてすべてが厚い土壁で覆われる置屋根構造の蔵造りとなっているのが、この長屋門の特徴でう。
 このタイプのものは都内では他に現存していないそうです。
(66)旧島田家住宅 (67)水車小屋のある風景 (68)旧三岡家長屋門

 寄り道してしまいました。多摩川へ向かいましょう。
郷土の森博物館の正門から歩いて約5分、多摩川左岸の散策路に出ます。散策路と川岸・堤防の間が広場になっています。
 河口近くからここまで、ほぼ全区域にわたって、このように広場があったり、運動場があったり。これから上流に向かっても同様なのでしょうか。
 ここでも多数の家族連れや若い人たちのグループが、バーベキューなどを楽しんでいました。
(69 , 70)
(69)バーベキューなど楽しむ人たち (70)散策路に続く広場で楽しむ人たち

 散策路を下流に10分ほど歩いて、是政橋。橋を渡り右岸へ。
写真
(71)は右岸から見た是政橋です。ここから右岸を溯ること5分、着いたところが大丸用水堰。(72)
ここから大丸用水が引かれています。堰の中ほどに魚道が作られています。写真
(72)では右端に写っています。写真では見難いのですが、魚道の上端に白い何者かがいます。鳥です。上ってくる魚を狙っているのでしょうか。
(71)右岸から見た是政橋 (72)大丸用水堰

 堰から是政橋へ戻り、さらに下流に向かいます。
家並みの中に、江戸時代元禄年間に造られた農業用水があります。大丸用水です。澄んだ水が豊富に流れていました。
(73)
 この大丸用水を挟むような形で大丸親水公園があります
(74,75)
(73)家並の中の大丸用水 (74)大丸用水をはさむ親水公園 (75)用水路に沿うように広がる田んぼ
なお大丸用水の最寄り駅はJR南武線南多摩駅です。

 さて、そろそろ左岸へ移りましょうか。
 是政橋を渡ります。“渡し”はどこだ。しばらく歩きます。なかなか見つかりません。案内板もありません。
 行きつ戻りつ、見当をつけたあたりを歩きます。
ありました
(76 , 77)。遊歩道わきに。“是政渡しの碑”です。
 時代劇に見るような渡し場を想像してその跡を探していたので、見つからなかったのですね。
 この渡しは、是政と対岸の大丸(現稲城市)とを結んでいた稲城道(川崎街道)筋の渡しでした。
 是政村が経営していたことからその名があります。昭和16年に是政橋(木橋)が完成し、その姿を消したものです。

(76)是政渡しの碑 (77)

 この後、JR中央線国分寺駅へ向かいます。
6月19日記事の「野川」の水源をみるためです。
 JR中央線は込み合い、国分寺駅界隈は人の波で溢れかえるばかり。静かな自然の中を歩いた後の雑踏の中、でも人々のエネルギーが感じられます。
 野川の水源は、東恋ヶ窪1丁目。風情のある地名ですね。
 しかしここは「日立中央研究所」の中です。入れません。
 写真
(78)は、水源間近に迫った一級河川・野川の光景です。童謡に出てくるような、自然の中の小川を想像していたのに、両側はコンクリートの深い壁、家並みがせまっていました。
(78)水源間近にせまった一級河川・野川

 野川の流れは、東恋ヶ窪の湧水に、“
真姿の池湧水群”などの水が集まってできたものです。
 真姿の池
(79)は、環境庁の「名水百選」に選定された“お鷹の道・真姿の池湧水群”の一部です。
 近所の人たちが湧水を汲みにきていました。
ご飯を炊いたり、お茶に使っているとのお話でした。
(80)
(79)真姿の池 (80)湧水には近所の人たちが水を汲みに

 湧水からの清流沿いに続く小道がお鷹の道です。
(81 , 82)
(81)お鷹の道 (82)お鷹の道

真姿の池
 「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部である「真姿の池」の名の由来は、
 嘉祥元年、不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて、21日間参詣すると、
 ひとりの童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるように言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻りました。
 それから人々は、この池を真姿(ますがた)の池と呼ぶようになったという伝説からきています。

お鷹の道
 江戸時代の寛延元年に国分寺市内の村々は、尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応3年に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。
 崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつのころからか「お鷹の道」と呼ばれ、昭和47〜48年に国分寺市が遊歩道として整備しました。(お鷹の道・看板の説明文より)

国分寺崖線(こくぶんじがいせん)
 通称「ハケ」と呼ばれています。
 古多摩川の浸食によってできた崖の連なりで、国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷・等々力渓谷にまで続いています。
 国分寺市に一番はっきりと表れているので国分寺崖線と呼ばれます。


E
2006年の10月8日、すっかり秋になりました。台風も過ぎ去り爽やかな日和です。この日はまだ風も強く、その分空気は澄み渡り、陽射しも肌に強く感じます。

 下車駅はJR青梅線昭島駅、3kmほど歩き、拝島橋で右岸に渡ります。途中小高い丘を越えて、
日野用水堰に向かいました。用水堰を下流に向かってしばらく歩くと、多摩大橋。多摩大橋を渡って左岸に移り、岸辺の散策路を歩きます。
 広い緑地と運動公園が広がります。近辺を散策し、JR中央線立川駅に辿り着きました。

 さて話を元に戻して。
 昭島駅を南口へ出て、大師通りを20分ほど歩き、多摩川への途中にある大日堂
(83)、拝島大師(85)に立寄りました。
 大日堂へ上る石段脇には、“
おねいの井戸”があります。
(84)
(83)大日堂 (84)おねいの井戸 (85)拝島大師
次の写真(86)は大日堂の、(87)はおねいの井戸の説明板です。クリックしてご覧下さい。
(86) (87)

 日野用水堰へ行くために、拝島橋を渡り右岸へ移ります。歩く道のりを短くしようと、平坦な道ではなく、丘を上る道を選びました。
その小高い丘を上ると大きな団地がありました。その団地内の道路から、多摩川と拝島町が見下ろせます。
(88)小高い丘から多摩川を見下ろす
多摩川の中に茂る草木の広がりを左に眺めながらこの丘を後にして、くねくねと曲がった小道をしばらく下ります。

ようやく日野用水堰に着きました
(89)。この堰は江戸時代に造られたとのこと。いつのころか知りませんが、この堰にも魚道がつけられています。
(89) (90)
 写真(90)は、堰から取水されている北平用水です。写真で用水の右側(用水の左岸)に八王子水再生センターがあります。

 拝島橋の下流には
多摩大橋があります。下の写真は、いずれも左岸から写した多摩大橋です。
 アーチ部分は工事中の新大橋です。現大橋は狭く、歩道と車道が画然としていません(白いラインはありますが)。
 この日(2006年10月8日)は風が強く、車とのすれ違いに怖い思いをしながら橋を渡りました。
(あれから随分月日が経ちました。大橋も完成していることでしょう。)
(91) (92) (93)

 この辺りの左岸には広場や運動場、散策路があります。
多摩大橋の少し上流に八高線が通っています。
 この付近の河原で、昭和36年に160万年前のクジラの骨格が発見されました。
アキシマクジラと名づけられています。そしてこの辺りは、くじら運動公園になっています。公園では運動会が催されていました。
 舗装された歩道脇には、コスモスが咲いていました。
(94) (95)

 次はくじら運動公園の説明板です。
(96) (97)

 ここはすでに海から40kmあたり、43kmを示す標識あたりで振り返れば、陽の光に川面が輝いています。
 写真
(98)は秋の盛りの午後4時ちょっと前、川下から上流への眺めです。
(98)

 この近く、歩道脇に記念碑が建てられていました。
築地の渡し跡です。“ついじのわたし”と読みます。
(99)
 築地村(昭島市)と対岸の粟ノ須村(八王子市)を結ぶこの渡しの道筋は、江戸時代以来大山街道と呼ばれ、所沢(埼玉県)から八王子を経て大山(神奈川県)に至る古くからの主要道路でした。
 渡し場は築地村が管理し、舟一艘を浮かべ随時運行されていましたが、冬の渇水期になると川瀬に仮橋がかけられて通行の便に供されていたそうです。(現地の説明板から)

 川辺の散策路を後にし、街中へ出ました。立川市柴崎町です。
残堀川を横切りました
(100 , 101)。多摩川の支流です。
江戸時代には、玉川上水の補助水として使われていたそうです。
(100) (101)
 残堀川は、西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池に始まり、武蔵村山市、昭島市、立川市を流れて、立川市柴崎町で多摩川に合流する川です。
 川の長さは12.7kmで、流域(雨水の集まる区域)の面積は34.7km(立川市の約1.5倍)です。

 さて、帰りの駅はJR中央線立川駅。途中、普済寺
(102)と諏訪神社(103)に立寄りました。
(102) (103)

 次の写真
(104)は普済寺の説明です。クリックしてご覧ください。
(104)

 家を出たのは昼前、帰りは夕方になってしまいました。
 JR線の一部が夜間工事とのこと、その影響なのでしょうか、帰りの立川駅は大変な込み合いよう、切符の自動券売機の前は、いずれも10人以上の列でした。


F 2006年の10月26日、目標は玉川上水の出発点です。この日は曇り空。
 JR青梅線羽村駅で下車、駅の近くにある東京都指定の史跡を見た後、1kmほど歩いたでしょうか、羽村堰に着きました。ここが玉川上水の出発点。近くに
玉川兄弟の像があります。
 羽村堰下橋を渡って右岸に移ります。川堤を少し上流に歩くと、羽村堰の対岸辺りに羽村市郷土博物館があります。
近辺を散策し、奥多摩街道を歩いてJR青梅線福生駅に辿り着きました。

 さて羽村駅の東口、近くに五ノ神社があります。この神社本殿
(105)の創建は推古天皇九年(601)と伝えられる古社で、宝亀(ほうき)年間(770〜780)、熊野五社大権現を祀ったところから、もとは熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたそうです。
 五ノ神社本殿は羽村市指定の有形文化財に指定されているものです。
(105) (106)
 ここにも「まいまいず井戸」がありました(106)。「まいまいず井戸」は府中市郷土の森博物館にもありました。

 ここ羽村の「まいまいず井戸」は鎌倉時代に造られたものと推定されています。井戸を掘る技術が未発達の時代に、筒状の井戸の掘りにくい砂礫層地帯に井戸を設ける必要から、このような形態になったものです。
地表面での直径約16b、底面の直径約5b、深さ約4.3bのスリバチ状の窪地の中央に直径約1.2b、深さ5.9bの掘り井戸になっています。
 この後、駅を越えて多摩川へ向かいます。
途中、臨済宗禅林寺に立ち寄りました。羽村に生まれた、“
大菩薩峠”の作者、中里介山の菩提寺です。(107)
(107)
次の写真はいずれも禅林時の光景です。
(108) (109) (110)

 奥多摩街道は、この禅林寺から数分のところ。その街道沿いに「玉川上水羽村陣屋跡」
(111)があります。
この陣屋は江戸幕府が設置した役所で、玉川上水の取り締まり、水門・水路、堰堤などの修理や改築などの上水管理を行っていました。
 陣屋には常に幕府の役人が往来し、村民との交渉によって、文化上・生活上の影響を村人たちに与えました。
また、上水が完成した際に水神宮も建立されました
(112)、明治26年に玉川水神社と改名)。
(111) (112)

 この羽村陣屋跡と水神社のすぐ前に
羽村取水堰があります(113)
写真
(114)は堰のすぐ上の多摩川、穏やかな流れでした。
(113) (114)

 次の写真は、羽村取水口(第一水門)
(115)と同・第二水門(116)です。堰の上の穏やかな流れの多摩川と、第二水門から上水に勢いよく水が流れ出ている光景の対比が印象的でした。
(115) (116)

 堰の近くに玉川兄弟の像があります
(117)。玉川上水の建設に功績のあった兄弟を称えるため、昭和33年、この羽村取水堰の近くに建てられたものです。
 兄の庄右衛門、弟の清右衛門は、その功績により「玉川」の姓を許され、武士と同身分の扱いとなりました。
(117)

 上水沿いの遊歩道をしばらく歩きました。取水口からしばらく下った所にある「しんほりはし」付近の玉川上水
(118)は、両岸を草木におおわれていました。羽村取水口より取り入れられた多摩川の原水も、途中、村山貯水池や小作浄水場に分水され、「しんほりはし」付近では、このような小さな流れとなっています。
(118)
 このあたりは、春には桜、初夏に新緑、そして秋には紅葉と一年を通して美しい風景を見ることができるそうです。

 さていったん取水口のほうへ引き返し、多摩川右岸に渡ります。こちらも遊歩道になっており、この辺りは海から54km
(119)
 川の流れと堤の間に、川倉(かわくら)と呼ばれる構造物が幾つか置かれていました
(120)。洪水時、水の勢いを弱め、堤防の破壊を防ぐための工法・構造物です。
 このような構造物を牛枠(うしわく)と呼びますが、川倉のほかに、聖牛(せいぎゅう)、笈牛(おいうし)、鳥脚(とりあし)などの牛枠があります。
 聖牛の模型は二ヶ領せせらぎ館の近くにありましたね。川倉やら聖牛、鳥脚など色々な名前の牛枠があるということは、川の形状により流れの状況も異なり、また多くの地点で洪水が発生していたということでしょうか。
(119) (120)

 川倉が置かれている近くに
羽村市郷土博物館があります。
次の写真は羽村市郷土博物館に展示されているものです。
(121)は旧下田家住宅、江戸時代の末期に建てられ、養蚕や畑作を営んでいた農家です。
(122)は、江戸時代、玉川上水の取水口にあったものです。明治時代に改修されるまでは、このように木造(当時はケヤキ)の水門でした。
(121) (122)
(123)は羽村大橋、(124)は羽村橋のケヤキです。
このケヤキは奥多摩街道に面した崖の際にあり、高さ24bの大木です。
(123) (124)


G 野火止用水は、開拓農民の生活用水を確保するために玉川上水から分水されたものです。
 この野火止用水を訪ねたのは2006年12月1日、随分と寒くなっていました。街行く人もオーバーコート姿が増えていました。北の方からは雪の便りが聞こえてきます。
 東京は、この日は良く晴れましたが、寒い一日でした。
 多摩川を溯って玉川上水に入り込み、この日はさらに分け入って野火止用水にまで行きます。

 この日の到達目標は臨済宗妙心寺派の古刹、
平林寺です。
西武池袋線清瀬駅から直線距離で約4kmのところにある平林寺境内林に沿うように野火止用水が流れています。

 玉川上水からは多数の分水がありますが、最初に分水されたのが野火止用水です。玉川上水が、武蔵野台地の稜線部(馬の背)を流れているので分水が可能だったのですね。
 「上水記」によれば、寛永3年(1791年)頃には33分水が記録されています。千川上水、三田上水も玉川上水からの分水です。

 さて清瀬駅から歩きます。15分ほどで野火止用水に出会いました。そこは新堀交差点。ここから用水に沿って歩きます。
 途中、たくさんの鯉が押し合いへし合い波打つように泳いでいる光景を見ました。
 また所々暗渠になっており、その上の道路沿いの木々は美しく色づいていました。
 駅から歩いて約1時間、平林寺に着いたのは3時過ぎ。途中幾組かの少人数グループに会いました。平林寺からの帰りでしょうか。
 次の写真
(125)から(133)までは、新堀交差点付近から平林寺堀の枝分かれまでの用水や暗渠部分の道路の光景です。
(125) (126) (127)
(128) (129) (130)
(131) (132) (133)

 野火止用水は、1655年(承応4年)に川越城主・松平伊豆守信綱により開削されたものです。開拓農民の生活用水を確保するためのもので、幹線水路は、本流を含めて四流あり、末端は樹枝状に分かれています
 支流は通称「菅堀・北野堀」、「陣屋堀」そして「「平林寺堀」と呼ばれています。

 水路は、地形的に高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑の灌漑に使われ、乾燥防止に大きな役割を果たしました。

 本流に分かれてを告げ平林寺堀へ
(134〜138)。堀の左右には畑がひろがっています。農道のような道をしばらく歩くと車道へ出ます。
平林寺を塀のように囲むイチョウの木々が西日をうけて黄金色に輝いています
(139)
(134) (135) (136)
(137) (138) (139)

 用水は、昭和38年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響で、水は次第に汚れてきて、魚の泳ぐ姿もなくなり、また、用水で遊ぶ子どもたちを見ることもなくなってしまいました。
 昭和49年度から、東京都と埼玉県・新座市で清流復活の事業を開始し、本流と平林寺堀の一部が復元されました。

 平林寺には何人かの人たちが訪れていました
(140〜145)。時刻はすでに夕方4時をまわっています。このころの日の入りは4時半ころです。
(140) (141) (142)
(143) (144) (145)
 平林寺は、南北朝時代の永和元年(1375年)、岩槻に建立されました。当時は松平伊豆守信綱の菩提寺であり、信綱は、野火止大地の開発とともに、この平林寺を岩槻から野火止村に移転させることを切望していましたが果たせず、子の輝綱が、父の遺命を守り現在の地に移転したものです。

 次の写真は左から、「野火止用水の説明看板」、「生活水として利用されていた野火止用水の風景、現地説明看板より」、「松平伊豆守信綱公墓誌」です。
(146) (147) (148)

帰途についたのは5時ころ、日が落ちて西の空がかろうじて薄茜色、あたりは暗くなっていました。
(149)
(149)

※上水記(じょうすいき)
 
寛永3年(1791年)、普請奉行上水方道方、石野遠江守広道が編集した書です。江戸の配水の状況や土木技術が記されています。
(150)


H 野火止用水の次に訪れたのは千川上水です。年が明けた1月に訪ねました。
 玉川上水の分水、
千川上水の上流部分を歩いてみました(上水の場合も上流、下流などと呼ぶのでしょうね)

 千川上水は、元禄9年(1696年)に将軍の立ち寄り先である小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺御殿などに給水することを主な目的として作られました。またこの上水は、江戸市中の飲料水や千川上水沿いの農地の灌漑用水としても大きな役割をはたしていました。
 しかし昭和46年、最後まで上水を使っていた大蔵省印刷局王子工場が取水を
やめ、一旦その使命を終えました。
 
そして、東京都の清流復活事業により、野火止用水、玉川上水に続き、平成元年にはこの千川上水にも清流がよみがえりました。(取水口そばの説明看板による。)

 2007年1月31日、自宅から五日市街道境橋まで、自転車を走らせました。千川上水は、五日市街道が「くの字」に折れる境橋で玉川上水から取水されています。
 まず玉川上水を下ってみました。
 玉川上水の両岸は、流れに覆いかぶさるように木々が生い茂り川面は薄暗く、一方、千川上水は、両岸に植わる木々は疎らに、その下を明るい遊歩
道が走っています。
(151)は境橋の交差点すぐ下の玉川上水、(152)は「史跡玉川上水の碑」、(153)は「うどはし」から撮った玉川上水です。
(151) (152) (153)

 玉川上水に沿って暫らく歩きます。
 「桜橋」に辿り着きます。たもとに『国木田独歩文学碑」がありました
(154)
(154)
“今より三年前夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て、三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ眞直に四五丁ゆくと桜橋といふ小さな橋がある。”(碑文)

 この文学碑の、交差点を挟んだ真ん前に、東京都水道局境浄水場があります。
(155)

 小作取水堰や羽村取水堰で多摩川から取水された原水は、山口貯水池、村山貯水池に貯められ、東村山浄水場や境浄水場へ送られてきます。この境浄水場からは、渋谷区や港区などへ給水されています。
(155)


 さてここで折り返し、境橋へ戻ります。境橋から始まる千川上水は、暫らくの間、五日市街道に沿って開渠で流れていきます。
“千川上水 清流の復活”の碑のすぐ下に、取水口が見られました。
156,157
(156) (157)
上水の両側、ところによっては片側が、遊歩道に、あるいは車道になっており、岸も石組みあり、あるいはコンクリートとなっていますが、やはり石組みの方が情緒があって良いですね。水草が植わっているところもありました。(158 , 159 , 160)
(158) (159) (160)

次の写真は庚申塔とその説明看板です。
(161) (162)

この千川上水は練馬区へ入って暗渠になります。その上は千川緑道。
(163)




(次回は、江戸上水のあゆみです。)




                 
(続きます)


このページの最上部へ


トップページへ



Copyright(C) 2008 S.S. All Rights Reserved.