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最終更新日2012年07月07日
画像保存先変更他
   初版2006年04月11日

藤岡市  鏑川下流域 鮎川流域  白石丘陵公園 (白石古墳群)  

白石稲荷山古墳   国指定     資料藤岡市教育委員会文化財課資料 他

遺跡名 白石稲荷山 墳 形 前方後円墳 竪穴式礫槨
規 模 全長170m前方部前幅148m高さ6m
後円部径92m 円部高さ13.5m
出土品 銅鏡 勾玉 管玉 滑石製模造品(刀子
下駄 杵) 家形埴輪 朝顔形円筒埴輪
所在地 群馬県 藤岡市白石字稲荷原 築造時期 5世紀前半
座標 北緯 36度15分16秒
東経139度02分24秒
被葬者 不明

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.03977777705&latitude=36.254524029738

    
    東から 左(南)方部       撮影  2006年3月  右(北) 円部   

  下の写真の詳細はクリックすると拡大されます。 撮影  2006年4月
円部説明板 円部頂上から方部 方部から円部  南面
左円 右方部 南西から 円部北 手前十二天塚 十二天塚
白石稲荷山古墳 知見
鏑川の支流、鮎川の流域には古墳が多い。上流の下日野な鈬沢(たたらさわ)では砂鉄か ら鉄を精錬した。後世この利権を接収して屯倉がおかれた。鮎川の左岸の西の小さな流の猿田川。その左岸段丘上の自然地形を利用してつくられている。  遠目には円墳のように見えるが、地づけば、大きな前方後円墳と判る。3段に造られた墳丘の下部は良く判らない。埴輪列と葺き石があったらしい。墳頂部の東西に竪穴式礫槨が昭和8(1933)年の発掘で確認されている。西側は追葬であろう。大型前方後円墳の竪穴式埋葬、馬具が出土していない事から考えて、近隣の皇子塚古墳、平井地区1号墳の被葬者とは部族の異なる首長の墓ではなかろうか。石棺埋葬の、宗永寺裏東古墳、七輿山古墳(今後の発掘で石室が発見されなければ)とは同族 かもしれない。
石製模造品の埋葬墓制度から考えると、5世紀代。6世紀には石製模造品の習慣はは無くなる。
円部のすぐ北側に十二天塚古墳(長軸36.8m短軸26.8m高さ2.6m)とその北に
十二天北古墳(長軸23m短軸22m高さ2.2m)竪穴式礫郭(3m幅1.5m)があるのだが、発掘現場跡みたいな平坦地があるだけで、何度見ても判らない。

                     
宗永寺裏東古墳                資料藤岡市教育委員会文化財課資料 他

遺跡名 宗永寺裏東古墳 墳 形 前方後円墳 
規 模 全長53m前方部前幅29m高さ4m
後円部径25m 円部高さ5m
出土品 凝灰岩舟形石棺 
所在地 群馬県 藤岡市上落合 築造時期 5世紀半から6世紀初頭
座標 北緯 36度15分40秒
東経139度02分29秒
被葬者  不明
現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.04177777678&latitude=36.261356772474

     
   石棺               撮影  2004年5月


     
   墳丘東から            撮影  2004年5月

宗永寺裏古墳 知見
輿山古墳の近くで、お寺の墓地が古墳。その近くに石棺が置いてある。
石棺 外寸法 長さ240cm 幅93cm 高さ62cm
    内寸法 長さ208cm 幅58cm 深さ33cm 側面に楕円の縄賭けがある。
南東の牛伏せ山の凝灰岩で造られたのだろうか?


 


七輿山古墳  県指定

遺跡名 七輿山古墳(物見塚) 墳 形 前方後円墳 二重周濠 埴輪列 葺き石
規 模 全長145m前方部前幅106m高さ16m後円部径87m 円部高さ16m 出土品  朝顔形円筒埴輪 人馬埴輪 須恵器
 埋葬施設未調査
所在地 群馬県 藤岡市上落合字七輿 築造時期 6世紀前半?
座標 北緯 36度15分41秒
東経139度02分22秒
被葬者  車持氏? 緑埜(みどの)の豪族?
 現地位置地図  http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.03970423248&latitude=36.261391797894
                          
    
    北から 円部          方部  撮影 2004年5月

 下の写真の詳細はクリックすると拡大されます。 撮影  2004年5月 
説明板 円部上から方部 方部北西遠景06年

七輿山古墳 知見 
地山をたくみに利用した大きな古墳。墳丘未調査のため、推定が難しい。石棺埋葬の宗永寺裏東古墳に近接しているのが、規模形態から同族の墓では無い。鮎川左岸の墓域で南が古く、七輿山は位置的に築造が新しい。今後発掘が調査され、円墳部(五百羅漢の奥)に横穴式石室があれば、保渡田や八幡観音塚、綿貫観音山と同族で6世紀半頃住み着いた高句麗系の墓。
(ここから書き直し2009年5月24日)

高句麗部族が継体天皇の先兵となって毛野国に進出。
532年欽明天皇の勢力拡大が東国に及ぶ。鉄を産出する緑埜(みどの)を屯倉として接収。反抗した豪族は車持氏と同族でその後歴史にあまり登場しない現古君(うつしこのきみ)辛矢田か或いは地名が残る八束氏かもしれない。辛矢田(からやた)は韓矢田部と同一。上毛野の祖、田道(荒田別の子で竹葉瀬の弟)が新羅から連れ帰った4村の民に該当する。田道が連れ帰った胡人は緑埜で採鉄製鉄を行った。統治した豪族は鉄製農機具の発達で栄えた。
しかし欽明天皇が東国に勢力を広げ屯倉として緑埜を取り上げてしまう。武蔵国屯倉の多氷(おおひ=奥氷川)橘花(川崎)倉樔(くらき=横浜)も砂鉄が採れる。
車氏は製鉄よりも農機具や道具の技術優れたから輿車を献上出来たのであろう。
車持氏は当時住んでいた久留末(くるま)を名乗っていたのか?その後いち早く帰順した。
17代履中天皇の御代に天子の人民から貢物を奪った。また筑紫の車持部を収めた(私物化)と罰せられ車持部を取り上げられた。(日本書紀)
21代雄略天皇の御代に美麗な輿車を献上して「車持の姓を賜う」(新撰姓氏録)2つの書物に記載事項があります。実態は輿や牛車を造る技術や、財力で天皇家に上手く取り入って、車持姓を賜ったのであろう。
他の資料に 気長足姫尊(おきながたらしひめみこ=神功皇后)の御世に現古君が韓矢田部姓を賜った。その後裔が雄略天皇かから車持姓を賜ったとあります。
崇神天皇を祖と称する部族は上毛野六腹と呼ばれている。上毛野・下毛野・池田・大野・佐味は地名を氏名にしているが車持氏は久留末の地名と異なってしまった。車持氏の墓は高崎市箕郷の善地に円墳があります。上毛野6族は結果であって、淘汰された部族はもっと有ったであろう。
記紀に記載、脚色されなかった、朝鮮半島から多くの移住者が居たことを、古墳が示している。

欽明天皇と屯倉
日本書紀では安閑天皇の御世、武蔵の国造争いで加担し、大和朝廷に攻められた上毛野の小熊が緑埜を屯倉として差し出したことになっています。
安閑、宣化天皇は不確実な事が多い。 百済本記には継体天皇(オトド王)及び太子、皇子が同時に死んだとあります・・・・欽明天皇のクーデター。
笠原直使(かさはらのあたいおみ)が国造争い解決のお礼に差し出した、武蔵の四カ所の屯倉も、敗れた小熊が差し出した緑埜の屯倉も鉄を産出します。これらの地を屯倉として接収したのは欽明天皇で記紀は安閑天皇の時代に脚色している。
淡海三船はアメクニオシハルキヒロニワに欽明天皇と諡号(しごう=おくり名)しています。古代は鉄=カネ=金であり欽明天皇は鉄を欠いている。鉄の採れる地を屯倉にしたことを淡海三船は教えている。
車持姓を賜る話は緑埜の屯倉接収後の恭順した史実の投影ではなかろうか。

七輿山古墳と多胡碑
七輿山古墳の名前は「羊太夫の女房七人が朝廷軍に追われて自害し、輿に乗せて葬ったので七輿山と言う」との羊太夫伝説に由来します。羊太夫は近くの「多胡碑」に刻まれた羊との関連から江戸時代に流布した伝説です。

此処からは書直しました。
学者先生の多胡碑解説、羊太夫の伝説、車持氏の献上車と七輿山の輿などに惑わされて考察が杜撰でした。又埼玉県小鹿野町に伝羊太夫の古墳があり本格的に書き直しました。
多胡碑と羊太夫
 
現地位置地図 
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.99644444071&latitude=36.265024046671

1多胡碑の疑問
群馬県吉井町池にある多胡(たご)記念館に保存された碑は、高さ125cm幅60cm4角柱上に高さ25cm幅88cm方形の笠石が乗っている。近くで採れる牛伏砂岩(天引石、多胡石)に彫られています。
多胡碑文
弁官符 上野国 片岡郡 緑野郡 甘良郡并 郡内
三百戸郡成 羊給 成 多古郡 和銅四年三月九日甲寅
宣 左中弁正五位下 多冶比 真人 
太政官 二品 穂積親王
左大臣 二位石上尊 
右大臣 正二位 藤原尊
要約 上野国片岡郡、緑野郡、甘楽郡をあわせた地から300戸を郡として羊に与える。
左中弁正五位下 多冶比真人 三宅麿。太政官二品 穂積親王(天智天皇の皇子)左大臣 
二位石上尊 石上麻呂 右大臣 正二位 藤原尊
(藤原不比等)


  



多胡碑は中国にレプリカがあるぐらいの中国六朝風書体。年月が判る碑として、上毛三碑(金井沢、山の上、多胡)が注目されて、国指定特別史跡です
この碑文の「羊給」の解釈が議論されていますが、肝心な事が何も研究されていません。又どのホームページにも疑問を投げかけていない事が幾つかあります。


2多胡碑は何時誰が、どの様な目的で建碑したのか
@碑文には、「起承転結」が無い。六朝風の書体でも文面が不完全。
A笠石も方形で碑本体も4角柱で、1面にのみ中途半端な文字を刻むだろうか?
 江戸時代 青木昆陽は「元来碑の左面で他の3面は欠けて見へず」と言っている。
B笠石付きの碑が何処から出現したのか、畑の中か?
C建碑の目的は何か?

同じような笠石の碑に那須国造碑があります。他の上毛碑と合わせて検討しました。

3多胡とは
日本書紀では上毛野祖 荒田別の子 田道が連れ帰った4村の民は胡族で、胡人が多く住む場所なので多胡と呼ばれたとあります。群馬の古墳を調べると4世紀頃には新羅、伽耶、胡人が住み着いている。

中国の後漢が滅んだ後、五胡16国時代が出現する。五胡とは匈奴(キョウド)・羯(カツ)・キョウ(注:美に似た字だが変換しない)テイ(注:氏の下にーの字だが変換しない)・鮮卑(センピ)の五族のこと。
羯(カツ)・キョウ・テイなど羊を含む音韻群は漢人が付けた中国西方の遊牧部族の名前。羯(カツ)は去勢した羊の意味。この部族はスキタイ・サカ族でスキタイ文明を持ち製鉄技術に優れていた。宗教はけん教(ゾロアスター教)であった。ゾロアスター教はペルシャのカヤネ王朝の宗教です。この神は日本伝わり天児屋根(あまのこやね)命と言う。
西暦330年 羯(カツ)の石勒は後趙(こうちょう)を建国した。同じサカ族の興した仏教を取り入れた。
西暦439年
鮮卑族は北魏を興し仏教を興隆させた。

    「古代は生きている・・」榎本出雲・近江雅和 共著 彩流社
4碑文の補足
○「羊給」
羊は西南の方角ではない。「賜」は天皇、大王、官からいただく事。「給」は上から与える事。与える行為も書かれた内容の文字で授受の立場が異なる。
○多治比真人の真人
真人とは、天武13(684)年に天武天皇が制定した八色の姓(やくさのかばね)の貴人(うまひと)のこと。継体天皇以降の天皇皇子の子孫に与えられた姓(かばね)。多治比真人は、宣化天皇(467〜539)の流れ、多治比彦王の子。この碑の真人は多治比真人三宅麿。
5羊太夫は誰か
詳しい資料が少ない中で次の方の調査・伝承研究を参考に地方の歴史を組み立てました。
多胡碑の「羊」と羊太夫伝承 増田修   以下「羊伝承」と略す
市民の古代 第10集 1988年 市民の古代史研究会編

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujika.html

多胡碑の「羊」と羊太夫伝承 増田修 に羊太夫伝承内容と所在地が調査されています。

古代探訪  はまじん6596       以下「古代探訪」と略

http://plaza.rakuten.co.jp/popomi2575/diary/200902020000/
2009年02月07日(羊太夫)2
http://plaza.rakuten.co.jp/popomi2575/diary/200902070000/

羊太夫 時代背景
西暦587年 中臣勝海没 物部守屋没 蘇我馬子に滅ぼされる。
 天孫族よりも前に日本列島に移住していた、古来の豪族(物部氏)と後から移住の新興豪族(蘇我氏)との権力争い。記紀では宗教争いに歪曲。
西暦587年 物部に加担した中臣羽鳥連・妻玉照姫その子 菊連が毛野(現在の元総社町)流罪になり車持君に預けられた。当時車持氏は没落してしまった、三つ寺ではなく、元総社より西8kmの箕郷に居住していた。この地に車持氏の墓がある。
古事記風に書くと「中臣の羽鳥連の祖先は
羯(カツ)族で韓国から秋津島に来た。羯(カツ)は去勢した羊(のことなので)、天の使いの鳥でなく羊と名を変えて、毛野国に流罪となった。」
柿本人麿が流罪になって猿と卑しい名前に変えられたと同じ

 菊連は連姓(むらじのかばね)を持っているから元服(12才以上?)していたのだろう。
西暦615年頃 菊連に嫡子 勝定 誕生。この頃は元総社から、祖神を同じくする部族の住む多胡に移住していたのではなかろうか
西暦617年頃 菊連に娘誕生。(不比等、与志古の年齢から逆算して仮説推定)
西暦626年   蘇我馬子没。628年推古天皇崩御没
西暦629年頃 貴種を求める車持国子に嫁入り。娘出産=車持与志古。舒明天皇即位古。
西暦644年頃 車持国子が娘の与志子を采女として中大兄皇子に献上。

西暦645年   大化の改新
西暦646年頃 菊連の子、勝定都の近衛府に出仕。

流罪を許されて菊連の子勝定、南都に参内(さんだい)し名産落合芹を献上「羊伝承」この落合は七輿山古墳近くの「落合」なのか、羊太夫が後年移りすんだ新屋敷の近くの「落合」なのか不明。
蘇我の馬子も没し(626年)
大化改新で蘇我家も滅び流罪が解け、中臣羽鳥連の孫勝定が出仕したのであろうか?。与志古の引き立てもあったのだろう。「羊伝承」調査では「大赦を受け」とある。疫病や天変地異があると天皇の徳を高めるために大赦が頻繁に行われた。この大赦が何時の事かわからない。「藤原将監勝定夫妻が大沢不動尊に祈願して宗勝が生まれた」伝承から考えると勝定30才位頃か?出世して近衛の将監(しょうげん=通称太夫)になったのはもう少し後で、遅い子持ちが祈願の動機だろうか?
(羽鳥が羊に改名させられ、羊の孫が将監(通称太夫)太夫になった)

西暦650年頃 
中臣勝定に嫡子宗勝出生。
西暦659年 
 中臣鎌足天智天皇より車持与志古を賜う。
西暦659年
  中臣与志古出産 不比等生まれる。
西暦672年
  天智天皇崩御 壬申の乱。  
西暦669年  中臣鎌足 藤原姓を賜う。 鎌足没後、勝定も藤原勝定と名乗る?
西暦675年頃
 勝定の孫 宗顕 出生 この頃勝定は秩父長留(小鹿野町)に移り、銅の採掘や採鉄に力を注いだのだろう。後年藤原不比等は、秩父で初めて銅が採れたと演出して和銅の改元、和同開珎の鋳銭に利用した。銅や鉄の採掘は古来移住してきた韓系部族の技術による。富を得て檀家寺として法性寺建立。仏教に帰依していたから写経を残す。
西暦680年頃
 勝定没 武蔵国秩父小鹿野のお塚に埋葬。「近くの旗居にある満留山様の羊太夫の墓」ハタイは秦を思わせる。渡来鉱山関係者か勝定と一緒に移住した子供(宗勝の兄弟)の墓かも知れない。(西暦684年与志古の兄・小錦下 豊嶋が車持朝臣姓を賜るとの資料がある)
西暦698年  
天武天皇詔 不比等家以外は藤原姓を中臣姓に戻す。宗勝は藤原を継続?
西暦701年頃 宗勝が辛科神社創建。 
西暦705年
 勝定の曾孫出生 宗量。   707年天武天皇崩御
西暦708年  秩父より和銅が献上。多治比真人三宅麿は初代催鋳銭司(さいじゅぜんし)になり、河内国で和銅開珎を鋳造した。それ以前から羊達が銅を採掘していたが、平城新都造営や通貨普及に利用した献上である。
西暦710年  
平城遷都
西暦711年
  多胡郡建置。藤原宗勝 上野国権大目をとなり六位下を授位。郡司となる。それまで住んでいた長根(辛科神社の近く)から新屋(甘楽町)に移る。小幡羊太夫宗勝と名乗る。辛科神社を多胡郡の総鎮守社にする。
 この年に蓄銭叙位令が出た。従六位以下の者が10貫以上の蓄銭したら位を1階上げる詔。多胡郡建置、蓄銭叙位令、は不比等と三宅麿、羊太夫のお手盛り勝手放題が目に浮かぶ。緑埜や秩父の鉱物採鉱権を握っていた羊太夫宗勝は当然金銭で官位を高めであろう。
西暦714年
  養老律令
西暦720年  藤原不比等没。元正天皇即位。不比等の子 房前(ふささき)権力を持つ。
西暦680年  
不比等没後 日本書紀 完成
西暦721年  
房前が、不比等を非難した罪で邪魔な多治比三宅麿を伊豆に流罪にする。同年(養老5年)羊は謀反の罪で多治比真人県守(三宅麿の兄、嶋の子=甥)に攻められ多胡の池村で一族自害。
藤原房前は藤原氏の権力を確かなものにする為に三宅麿を失脚させた。羊太夫が高麗若光の讒言により攻められたのは単なる口実で中央集権の律令政治に、勢力を持ちすぎた邪魔な地方豪族の国司や郡司を解体したのであろう。
西暦703年 高麗若光は従五位下 高麗王姓を賜り西暦716年高麗郡司になっている。不満はなかろうに、讒言したのは秩父鉱山を巡って、三宅麿と羊に対して、確執のあった反動であろうか?
西暦723年 
 三世一身の法 滅びて移住して来た百済人たちに給付するための田地の確保。(古豪から土地を取り上げる)

以上が多胡碑と羊太夫の由来顛末である。この関係を表にまとめてみました。4〜5年のずれはあろうが、大筋は合っていると思う。



この考察の一番の弱点は、中臣羽鳥連と菊連の実像である。中臣の系図やインターネット等で資料をあたっても見つからない。松本清張氏をはじめ、古代史研究の著作でも流罪になった中臣氏は取り上げていない。「羊伝承」古代探訪」も同じソースからの資料のような箇所もあります。
不比等の母与志古を生んだ車持国子の妻は流罪先で嫁いだ中臣菊連の子である可能性は考えられる。又勝定の妻も車持氏の一族かも知れないが、女性の名は娘(いらつこ)とか采女ぐらいしか歴史に残らない。

尊卑分脉 不比等の伝記に「出生を公に避くる所あり」と書かれているため、天智天皇落胤説があるが、母方の先祖、車持氏が欽明天皇に帰順しなかったことや、母方の親中臣羽鳥連・菊連が流罪にされた事等々を詮索してはならないという意味だったのではなかろうか?
不比等や多治比三宅麿と羊太夫の繋がりは閨閥を考えると容易に理解出来ないか?

冤罪の出来事を江戸時代に脚色して「羊太夫の伝説」が生まれた。自害した羊宗勝や子の宗顕の妻達は先祖の前方後円墳の一角に埋葬された。ナナコシ山の名前から7人の女房が輿に乗って葬むられた話になったのだろう。羊に7人の女房が居たか判らないし脚色としたら面白い話。一族が落ち合った場所が
「落合」の地名も巷の作り話。鮎川に猿田川が落ち合う(そそぐ)場所は今でも芹が取れそうな場所。勝定が「落合芹」を献上している。一族は多胡の池村で自害している。

6多胡碑の建碑者は誰か    多胡碑は墓誌
羊太夫の時代背景編年から考えても、多胡碑は池村で自害した羊太夫宗勝の墓誌であろう。那須の国造碑も子供が顕彰した親の墓誌で、碑の発見場所が墓です。多胡碑も自害の場所と発見場所が同じであり、起承転結を欠いているので墓誌の一部分と思われる。碑の材質、牛伏砂岩は風化しやすく、倒れて地中に埋まった文面が残り、他面は劣化した。故意に削ったのではあるまい。削ったとしても残した文字に意図が無い。又、建郡の記念碑では建立者や目的が曖昧。徴税される領民が郡設置を喜ぶ理由が無い。

西暦723年頃 小幡羊太夫宗勝の菩提寺蓮勝寺(吉井町塩。新屋敷に近い場所と勝の字が入っているので宗勝が開基)の住職が自害した場所池邑の墓に墓誌を建立。
18世紀 多胡池村の畑から石碑が見つかる。

菩提寺蓮勝寺の住職は代々仏教に帰依していた宗勝が都から招聘した高僧だったのであろう。六朝風あるいは北魏の筆跡と文脈はそのなせるわざではないか?


7多胡碑の復元
失われた他の3面には何が刻まれていたのだろうか?起承転結の文があったはず。
起 羊太夫宗勝の氏 姓 渾名 事跡
承 残された碑文字
転 讒言で討伐された顛末
結 建碑の意図 建てた人と建てた年

漢文の素養が無くて銘文が作れないが、例えば
上野国大権目五位小幡宗勝渾羊 (上野国大権目 五位 小幡宗勝あさ名羊)
太夫祖神天児屋根父五位藤原将 (天児屋根の子孫 父は五位 藤原将監勝定)
監勝定也永年在多胡郡佐治朝廷 (永年多胡郡を治めた。領民を保護)
献上銅治領民保護尊八百神帰依 (朝廷に銅の献上をし、八百神を奉り仏法に帰依)
仏造多寺社以功績賜多胡地是顕 (寺社多数を建立の功績が多い)

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘  (朝廷は上野国片岡郡緑野郡。甘楽郡を併せ)
良郡并郡内三百戸郡成羊給   (三百戸を羊に給う)
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 (和銅四年三月九日甲寅 多胡郡とす)
宣左中弁正五位下多冶比真人  (左中弁正五位下多冶比真人これを宣す)
太政官二品穂積親王      太政官二品穂積親王)
左大臣二位石上尊
       左大臣二位石上尊)
右大臣正二位藤原尊
       右大臣正二位藤原不比等)

然養老五年非故讒言有恭順不赦 しかし養老五年言われ無き讒言が有り)
以受討伐子女族皆至池邑自害故 恭順するも赦されず子女族皆討伐を受け、池村で自害)
無実罪以哀故建碑銘遺徳領偲祀
 (無実の悲哀を悼み遺徳を偲び祀りことす)
一族菩提記定文也養老七年中記 (一族の菩提を弔い養老七年中に記す)
上野国多胡蓮勝寺某□世僧□□
 上野国多胡蓮勝寺 僧□世□□)

上野国大権目五位小幡宗勝
以下自害した一族の名前と
官位や年齢の列記



8その後の羊太夫
西暦721年頃 安芸藤松朝臣貞行 天引村小幡羊太夫宗勝を勅命で天誅し、朝廷より上信武三国を賜り小幡と改姓する。
貞行は多治比真人県守が羊を討伐したときの将。「羊伝承
この為上野、武蔵国、信州には、中臣の羊太夫と、後羊太夫(藤松朝臣)の2系統の事跡が残る。
西暦749年頃 上野国分寺建立の際、瓦を供出したのは後小幡羊太夫 安芸藤松朝臣貞行ではなかろうか。

(ここまで書き直し2009年5月24日)

お願い。この羊太夫解明記事をリンク又は引用の場合吉田説と出典を明らかして下さい。



皇子塚古墳  県指定          資料藤岡市教育委員会文化財課資料 他

遺跡名 皇子塚古墳 墳 形 四段造り円墳 横穴式石室(8.3m)
規 模 円径31m 円高さ6m
石室全長8.3m玄室長3.5m幅2.1m
前室長1.8m羨道長2.6m
出土品 墳丘 朝顔形円筒 人物 馬 盾 太刀埴輪石室 人骨 馬具 鉄鏃 単龍環頭太刀柄頭弓金具 耳環 須恵器 甕 杯 土師器
所在地 群馬県 藤岡市三ツ木字東原 築造時期 6世紀前半
座標 北緯 36度15分33秒
東経139度02分30秒
被葬者 高句麗系の豪族 欽明天皇親派

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.04191665969&latitude=36.259357421497

    
                               
 撮影 2004年5月

    
                      撮影 2004年5月 

       

    

 1号墳から皇子塚 後方ゴルフ場金網位置が稲荷山古墳 撮影2004年5月



皇子塚古墳 知見 
隣の平井地区1号古墳と近接して築造。円墳で立派な石室を持つ。馬具が埋葬されているので5世紀に移住してきた今来(いまき)の渡来人。高句麗の墓と同じではないのか? 白石一帯には石室を持つ古墳が多いのは、近くで鉄器が製造、発達して、石工集団がいたのだろう。鮎川の川原石を使い、凝灰岩を加工して石室を造る専門集団が古墳時代後までも居たようだ。、周辺の猿田古墳群や下郷古墳群の、一般人と見られる無数の墓が小規模横穴式石室をもつ理由であろうか?

 


平井地区1号古墳                     資料藤岡市教育委員会文化財課資料 他

遺跡名 平井地区1号古墳 墳 形 円墳 葺き石二段構造 横穴式積み石石室
規 模 円径24m 円高さ4m
石室全長6.8m玄室長3.6m
幅2.1m羨道長3.1m
出土品 墳丘 須恵器 家、太刀、鞆、帽子埴輪
石室 金銅装単鳳環頭太刀 甕 高杯 
堤瓶 高杯 須恵器 
所在地 群馬県 藤岡市三ツ木字東原 築造時期 6世紀後半
座標 北緯 36度15分35秒
東経139度02分31秒
被葬者 皇子塚の后

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.04191665967&latitude=36.259738245872

   
                    撮影  2004年5月
 
     下の写真の詳細はクリックすると拡大されます。 撮影  2004年5月

南から 北から 1号墳の鳳凰頭 女性用
平井地区1号古墳 知見
築造位置、丘陵北端から考えて、皇子塚古墳が先に作られたと思われる。ほぼ同時代の墓。
平井地区1号古墳の被葬者 白石稲荷山古墳から続く段丘のはずれ、七輿山、伊勢塚を見下ろす位置に、皇子塚と南北に並び、構築されている。副葬品の鳳凰頭太刀は、龍頭太刀と一対になるもので、龍は男性、鳳凰は女性の持ち物。又墳丘出土の家型埴輪は、妻問い婚(男が妻のもとに通う)を象徴している。男性ならば冑の埴輪だが、この墓には帽子形埴輪が埋葬されている。以上のことからこの墓の被葬者は皇子塚の后でしょう。


伊勢塚古墳
                   資料藤岡市教育委員会文化財課資料 他
遺跡名 伊勢塚古墳 墳 形 上円下方墳 両袖型横穴式石室
規 模 円径27.2m高さ6 m 出土品 不明 墳丘から須恵器、埴輪
所在地 群馬県 藤岡市上落合字岡 築造時期 7世紀後半
座標 北緯 36度15分55秒
東経139度02分24秒
被葬者 緑野屯倉の長官か
郡の役人 評司(こおりのつかさ)

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.03999999284&latitude=36.265353242843

   
   南から 石室入り口        撮影  2004年4月
 

   
   説明板              撮影  2004年5月


   
   石室入り口            撮影  2004年5月

   
   
石室石積み             撮影  2004年5月


伊勢塚古墳 知見 
横穴式石室規模 両袖式の横穴石室。  石室全長8.94m
羨道の長さ 4.24m 幅 奥1.95m 前1.4m
玄室の長さ 左4.7m 中央部7.15m 右7.25m 幅奥1.84m 中央2.41m 前1.54m
玄室高さ 床から天井まで高さ 2.5m  
地山を切り出して、二段の葺き石構造。石室の壁の模様積みが美しい。

伊勢塚古墳被葬者
藤岡市教育委員会の資料では6世紀後半の築造となっている。実際は7世紀後半の築造。上円下方墳は意図的な墓制の変化。前橋市惣社町の「宝塔山古墳」「蛇穴山古墳」武蔵府中「熊の神社古墳」東京あきるの市「大塚古墳」のように、大化の薄葬礼の規制に基ずく古墳。 近くの「七輿山古墳」は羊太夫の伝説が投影されている。大和朝廷の在地の豪族の土地接収(緑野屯倉)と監視のため、緑野屯倉庁官が「白石」か「落ち合い」に居を構えていたのだろう。在地豪族の陵墓規制と牽制のため、白石古墳群の近くに、新しい墓を築いたのであろう。この地に上円下方墳は1つしかないので、在地の豪族と異なる人物の墓。在地の豪族は墓の規制により小規模な横穴式石室の円墳に埋葬されていく。日本の遺跡発掘物語5古墳時代 森 浩一監修 社会思想社」で鈴木武 氏が薄葬礼に触れている。

喜蔵塚古墳   参考 「藤岡の文化財探訪」 群馬藤岡市教育委員会  
遺跡名 喜蔵塚古墳 墳 形 円墳 一部欠失方墳の可能性あり。横穴石室
規 模 墳丘南北25m東西23m 高さ4m 出土品 古くから開口で不明
所在地 群馬県 藤岡市白石字中郷 築造時期 7世紀後半
座標 北緯 36度14分55秒
東経139度02分02秒
被葬者
 
現地位置地図http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.03395357635&latitude=36.248673865602
 

    

  説明板               撮影2006年09月 

   東側        2006年09月撮影         北東

喜蔵塚古墳 知見 
横穴石室 南に開口する両袖形 全長 7.4m
玄室長 2.6m 玄室奥幅 2.1m 玄室前幅2m 羨道長4.4m 羨道奥幅1.3m
羨道前幅 1.3m 玄室長方形 玄門に截石(きりいし)の梱石(しきみいし)がある。玄室と羨道床に敷石が設置。石室は凝灰岩の互目積(ごめづみ) 藤岡市資料による。あいにくと個人の所有で、不在のため見学できなかった。位置はあっていると思うが説明板では「田村塚」藤岡市の資料では「喜蔵塚古墳」になっている。
白石地区の古墳では、落合の伊勢塚古墳が方墳で、他に方墳が無い。喜蔵塚が石室を持つ方墳であるとすれば、古墳群の見方が変わる、興味深い指摘だ。石室の凝灰岩は南西の牛伏せ山の切り出しと思われる。



天王塚古墳

遺跡名 天王塚古墳 墳 形 円墳 葺き石 (石室・・推定)
規 模 円部径25m 円部高さ4m 目測 出土品 未調査
所在地 群馬県 藤岡市白石字中郷 築造時期 7世紀初 推定
座標 北緯 36度14分51秒
東経139度02分23秒
被葬者  白石稲荷山古墳地区に割り込んだ、高句麗 系 欽明天皇親派

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.03931799438&latitude=36.247774015108

   
  南東から              撮影2006年04月


   

  東から 墳丘上 天王社       撮影2006年04月

    
  西から               撮影2006年04月


天王塚古墳 知見
藤岡市教育委員会の資料や冊子「藤岡の文化財探訪」に解説記事がない。未調査なのと地元の山王神社となっているからだろう。カーナビには「天王塚」と表示される。社の基礎と墳丘の形から、石室がの残っている可能性が高い。やしろ前の墳丘外郭に大きな石が見えるが、石室の石かも知れない。すでに盗掘、破壊があり天王社がつくられたのだろうか?この近くの「喜蔵塚古墳」「堀越塚古墳」との位置関係から考えて、6世紀末か7世紀初の古墳と思われる。国道沿いの古墳は近年、平削されて消滅したのが多い。(地元の人の話)



下郷古墳群(支群) 

遺跡名 下郷古墳群 墳 形  円墳 小規模横穴式石室
規 模
径5m高さ2ぐらいの小墳
出土品  不明
所在地 群馬県 藤岡市白石 築造時期 7世紀末〜8世紀
座標 北緯 36度15分14秒
東経139度02分31秒
被葬者 在地の家長?

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.0410775235&latitude=36.252238556112

  下の写真の詳細はクリックすると拡大されます。撮影  2006年4月

90号墳? 103号墳? 106号墳?



下郷古墳群 知見
白石稲荷山古墳、皇子塚、七輿山古墳、が首長の墓。東側の猿田川と、鮎川に挟まれた台状地は住民の家長の墓域。七輿山の東に猿田古墳群。その南に下郷古墳群がおびただしい数(130以上?)存在する。古墳の中に畑がある感じ。被葬者の頭側に大きな平坦は2枚の岩で壁を周りを大きめな川原石を積み上げる。中腰にならなければ入れない石室が存在すると思う。この地の全ての古墳は到底調査出来ないであろう。

   
堀越塚古墳

遺跡名 堀越塚古墳 墳 形  二段式円墳 横穴石室
規 模 円墳径25m 高さ2.5m 出土品 古くから開口で不明
所在地 群馬県 藤岡市白石字滝 築造時期 7世紀初
座標 北緯 36度14分59秒
東経139度02分32秒
被葬者

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.04242935684&latitude=36.249937099774

  
   北東                 撮影
 2006年09月    

  下の写真の詳細はクリックすると拡大されます。 撮影  2006年09月

南西から 石室入り口 石室内部 補強柱


堀越塚古墳 知見 
白石古墳群の中の下郷支群にある。説明板も有るが、下り坂の途中にあり、判り難い。
横穴石室 南西に開口する両袖形 玄室と羨道の一部が現存 全長 4.4m
玄室長左 3.7m 玄室長右 3.8m 玄室奥幅 2.5m 玄室中幅 2.6m 玄室前幅1.7m
羨道長4.4m 羨道奥幅1.3m
石室壁は珪岩の乱石積み 壁体はドーム状。個人住居横にある。古墳好事家の見学の都度案内する所有者も大変だと思う。開口された石室を見学できることに感謝します。



龍泉寺 古墳?

堀越塚古墳の狭い道路の向かい側に 「稲荷山 龍泉寺」があります。
もとは稲荷山古墳にあったとか、古い寺なのだろう。本堂横に怪しげな塚が有ります。 

現地位置地図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.0420002034&latitude=36.250213970289

  
  寺説明板             撮影 2006年09月


  
  西側の築山?  塚か古墳?     撮影 2006年09月


本堂西側は工事跡のような荒地ですが。その形跡は前方後円墳の様でもある。塚には
お社がある。すそ部分の積み石は円墳の積み石にも見える。駐車場の巨石も石室の石に
似ている。下郷のこの付近には古来沢山の古墳があって、この塚もその名残に見える。



平地神社(へいちじんじゃ)古墳

遺跡名 平地神社古墳 墳 形  墳丘二段円墳 円筒埴輪列 葺き石
規 模 円径33m 高さ3.5m 出土品 人骨 人歯 直刀 刀子 鉄鏃 金環 馬具
所在地 群馬県 藤岡市中大塚宮西 築造時期 6世紀後半
座標 北緯 36度15分10秒
東経139度03分13秒
被葬者

現地位置地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.05366665756&latitude=36.2521952207

   
   墳丘上は稲荷社          撮影  2006年09月


  
下の写真の詳細はクリックすると拡大されます。 撮影  2006年09月

説明板 石室入り口 石室羨道


平地神社古墳 知見
墳丘は二段構造で葺き石。横穴式両袖形石室は南ん開口。入り口には台形の前庭がある。
石室 全長 8.95m 玄室長 5.4m 
玄室奥幅 2.05m 玄室中幅 1.95m 玄室前幅1.6m
羨道長 3.55m 自然石の乱石積み 藤岡市内では最大級の石室規模。
鮎川の右岸にあるので、白石古墳群とは異なる時代の新興勢力の族長の墓。 喜蔵塚古墳や諏訪古墳の切石積みとはことなる築造。



近隣古墳 次回調査 研究する方は効率よく実地踏査してください。

遺跡名喜蔵塚古墳 所在地藤岡市白石字中郷753      円墳横穴石室  築造時期
中大塚縄文時代敷石遺構  藤岡市中大塚字鎌倉1093 縄文中期住居 6世紀後半
戸塚神社古墳 藤岡市上戸塚字熊野363 円墳横穴石室 6世紀後半
胴塚稲荷古墳 藤岡市岡之郷字原835-2 円墳横穴石室 6世紀後半
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