古墳研究室
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歴 史 館
大阪府  古墳研究室
       大阪府茨木市1
最終更新日
2014年07月01日

初版2013年08月16日
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茶臼山古墳説明

茨木市  安威→淀川流域      


太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳 
遺跡名 太田茶臼山古墳  墳 形 前方後円墳 3段構造  
規 模 全長226m後円径138m高さ19.2m 出土品 円筒埴輪 
所在地 茨木市太田三丁目 築造時期 5世紀中(450年頃)
座標 北緯 34度50分40秒
東経135度34分42秒
被葬者  不明 (宮内庁 継体天皇御陵)

現地位置地図→国土地理院 +位置
◎墳丘長226m 前方部巾147m 前方部長117m 前方部高さ19.8m 南向き3段構造後円部径138m  高さ19.2m 巾約28m〜33mの周濠  造り出しがある。
      

   
   北東後円方部            撮影  2012年11月

   
         東南角               撮影  2012年11月      

   
   南方部                撮影  2012年11月

   
  西南角から方部濠            撮影  2012年11月

   
  西南隅から後円部西側濠         撮影  2012年11月


太田茶臼山古墳 知見 
北摂連山の南側。北から南に延びる低い台地上に築造されています。北摂山地の南端は淀川で、北から南に安威川、如是川(女瀬川)、芥川、が流れ、淀川に注ぐ。この三島地域に巨大な茶臼山古墳や近くの弁天山、岡本山、今城塚などの前方後円墳を築いた人たちはどのような集団だったのであろうか、
太田の地名は日本、韓国で金属に関係する地名。茶臼山古墳の南方、南茨木駅の東側に弥生時代の環濠集落があり、銅鐸の鋳型が出土している。古代、大阪湾が入り込んで、淀川に河内湖が存在し弥生時代の営みがあった。摂津三島神社の御祭神は大山祗神(おおやまつみ)で伊予風土記に「百済から渡って攝津三島の太田に還御された」と言う逸文があります。詳細を端折って書けば、北方の扶余が馬韓に進攻して百済を建国。押し出された先住の馬韓人(馬韓には長鼓墳や楕円形墳、前方後円墳があります)で大山祗神を氏神とする物部系の部族が三島に移住して来たことを意味しています。各地の三島神社、賀茂神社は御祭神が、大山積み、大山祗神、事代主(大国主の子供)。大国主の命の義父はスサノウの命で、一括すると物部氏の氏神様。この部族が摂津三島を根拠地にした理由は水運。摂津の津は港の意味。又、宇治川、木津川水利を抑えた地であることが一つの要因。しかし最大の理由は採鉄。上垣外憲一氏は著書「古代日本謎の四世紀」で詳しく述べています。安威川の上流は鉄分を含んだ地。安威川の右岸にある溝昨(みぞくい)神社付近の沼地にたまった沼鉄鉱=イスズを製鉄した。神武天皇の皇后ホトタタライススキヒメは、三島の溝昨耳(ミゾクイミミ)の娘に事代主が通ってい生まれた五十鈴姫であるという。五十鈴姫は茨木市五十鈴町の溝昨神社辺りに住んでいた。神話が投影している史実は神武天皇を崇神天皇(ミマキイリヒコ)と考えれば、淀川の左岸(南)のミマキの地は武埴安彦(タケハニヤス王)から崇神天皇が奪った地。その後「四道将軍」の派遣(各地への進攻)が始まる。崇神天皇の皇后ミマキ姫はミマキの五十鈴姫で、ミマキの五十鈴姫に入り婿となってミマキイリヒコイニエになったと上垣外氏は推測しています。鉄を治めていたから昨耳は運河(溝掘り)を開き淀川の水利を抑えた。

(一書に曰く ミマキは辰王の都 辰王は真支国に治す辰国は馬韓、辰韓、弁韓六十七国。イリは国。イニエは贄=料理を神にささげる。つまりミマキイリヒコは目支国の神主  「辰王 天皇家の渡来史」渡辺光敏 著 新人物往来社)

沼鉄に注目すると、平成二十五年、太田茶臼山の南西の更地は東芝大阪工場の跡地。工場建設以前は水田が広がっていたと、在地の方の証言があります。今でも周辺に沼地や沼跡があります。岡本山、弁天山古墳の被葬者の時代から採鉄が行われ、三島古地区の住人が栄えた。淀川の対岸は継体天皇が樟葉の宮を開いた地。継体天皇の真陵とされる今城塚東に嶋上郡峨衙跡があるように、付近一帯は古来から栄えた地でもある。
太田茶臼山古墳は宮内庁では継体天皇陵(三嶋藍野陵 みしまのあいのみささぎ)と指定されています。大正時代 木村一朗と言う研究者が今城塚を継体天皇の真陵と発表した
昭和61(1986)年外堤護岸工事に事前調査で五世紀中葉の円筒埴輪が二千点も発見された。今では太田茶臼山古墳は継体天皇陵ではないことが考古学会に定着しつつあります。
今城塚より100年近く古い時代に三嶋に大きな古墳を築いた王族は誰か?発掘の結果、今城塚が継体天皇の真陵である事が判ったが「茶臼山古墳の被葬者」の論議はまるで無い。墳丘墓の築造は一般的に家督(王権、勢力)継承の子。先代を超えない控えめな規模にする。五世紀中頃、畿内の勢力争いから考えて世襲が続くとは思えない。仮にオホド(継体天皇)の家系が続いたとすれば、築造者は武烈王に滅ぼされ若死にしたオホドの父 彦主人王(ヒコウシオウ)では無い。家督の継承期間を平均的な30年と見たらオオドの祖父 乎非王(オヒオウ)では築造年を過ぎている。曽祖父の太郎子(オオノイラツコ=意富富等王オオホドオウ)が該当するが、オオドオウと似通った名前で、記紀の記述は当てにならない。

伊予風土記に「百済から渡って攝津三島の太田に還御された」逸文を考えて、製鉄を主に土着した鴨族(物部氏)が繁栄し、その族長の墓と考えるほうが理にあっていないか?製鉄には登り窯(タタラ炉)や炭が必要で、窯や土師器の生産技術は元々製鉄の技術。茶臼山北東の新池埴輪製作遺跡の最初は製鉄用土師器の施設であろう。埴輪窯列は丘陵を吹き上げる風を利用したタタラ窯が変化したものに見える。
鉄器があれば土木工事も可能。運河を開いて(溝昨)資源の輸送をする。土木技術は墳丘墓も築造できる。北摂連山の樹木から炭を作り溶解炉の床材や、加熱に使った。記紀に抹殺されたけれども繁栄の地だったからオオドは根拠地にし、周辺の豪族と政略結婚で勢力を築いたと思われる。最終的には茶臼山古墳を発掘して出土品を調べない限り真相はわからない。

参考文献
「古代製鉄物語」浅井壮一郎 著 彩流社  「古代日本謎の四世紀」上垣外憲一氏 著 学生社
「継体天皇は新王朝ではない」南原次男 著新人物往来社


と号陪塚(とごうばいちょう)  (陪塚又は陪冢と書く)
遺跡名 と号陪塚  墳 形 前方後円墳
規 模 全長30m高さ2m 出土品 人物埴輪
所在地 茨木市高田町 築造時期 5世紀後半
座標 北緯 34度50分40秒
東経135度34分47秒
被葬者  不明 

現地位置地図→国土地理院 +位置
墳丘長30m  高さ2m   

    
西から                 撮影  2012年11月


    
西南                  撮影  2012年11月


と号陪塚 知見 
太田茶臼山古墳の周囲に8基の陪塚があるとされている。国土地理院の地図では後円部北西に2基、後円部北東角の道路中、後円部東に(と号)等高線が見えます。各地の古墳群の墓域内築造編年を見ると傾向が見られる。主体が埋葬されている後円部に隣接して墓は造られない。新しい墓は既設の前方後円墳の方部か墓の南。或いは東に築造される。(宮内庁の陵墓も東陵はあっても西の陵は無い。東は若い方向。皇太子は東宮の宮様)茶臼山の関係者の墓が前方後円墳や円墳と形状が異なるのも不自然。宮内庁指定の倍塚表示がありますが、中国で見られる陪塚(被葬者の身内、召使、使用した道具などの埋葬塚)ではなく近隣の墓と解釈すべき。発掘しても茶臼山古墳と関連するし出土品は無いと思います。もともと倭国には陪塚がほとんど存在しない。陪塚は学者の創造参照
茶臼山古墳東のくすのき公園内に金網で囲まれています。500基越える三島古墳群は、北摂丘陵の墓域で、低い台地の広い部分に茶臼山古墳が築造され、その前後の時代に近接古墳が築かれ、陪塚と安易に名付けられた古墳名。と号古墳
は墳丘を細かに観察することも墳頂上も見極めることは困難。


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