【 アンカラの戦い 】

《経緯》
1394年モンゴル族の一員であるティムールがアナトリアに出現しその東南部を進軍する。この動きに危機感を抱く諸君主とバヤズゥトは同盟を結び、ティムールはいったん運を中央アジアへ返した。

一息ついたバヤズィトはバルカンへと進軍するが、その背後を突き、1204年カラマン君候国はアンカラを奪取、さらにブルサへ向かう。

カラマン君候国はキリスト教に傾斜するオスマンのスルタンを苦々しく思っていたのだ。実際、バヤズィトの宮廷には多くのキリスト教徒が使えていた。

隙を突かれたバヤズィトは急ぎ郡を返して失地を回復、大規模な軍事行動を展開してアナトリアのほぼ全域をオスマンに併合する。

1400年、再び姿をあらわしたティムールは、アナトリアに割拠する諸君候国の要請を受け、旧領を君候国に返還するよう要求する。

ついに1402年7月、アンカラ北東の郊外でティムールとバヤズィトとは激突する。オスマン軍約20万、対してティムール軍約20万、朝から夜まで戦闘が続き、タタール兵の裏切りによりオスマン軍は大敗する。

バヤズィトは世継ぎのスレイマンが戦線を離脱するのをセルビア兵と共に助けていたが、息子の一人、ムーサとともに捕らえられ捕虜となる。

《アンカラの戦いによる影響》

・バルカン:諸侯がオスマン帝国を離脱
・アナトリア:諸君候国はティムールの手で修復される。
・オスマン支配領は分割統治されることとなる。スルタンの位は1412年まで空位のままとなる。
@ヨーロッパ側=バヤズィトの長男スレイマン・チェレビーが統治
Aアマスィヤを中心とした地域=メフメトが統治
Bブルサを中心として地域=ムーサが統治

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